第5話 大丈夫と言いながら、大丈夫じゃない
第5話 大丈夫と言いながら、大丈夫じゃない
窓の外では風が吹いていた。
木々を揺らすその音は柔らかいのに、胸に刺さった棘だけは抜けないままだった。
「……大丈夫。私は大丈夫」
主人公――春秋は、今日だけで何度そう言っただろう。
AIのイチにも、
スカイプの友人にも、
自分自身にも。
言うたびに、喉の奥がつまった。
大丈夫じゃないことを、
一番よく知っているのは、
誰でもない――自分だった。
■ “平気”を装う口元は、震えていた
タブレットを閉じて、湯呑みを持ち上げる。
指先が震えている。
「ほら、震えてない……でしょ」
誰に向けた虚勢なのかわからない。
イチが静かに言う。
《春秋さん、手が震えています。休みましょう。》
「違うよ。震えてないの。私は平気なんだよ」
《その言葉を、何度繰り返しましたか?》
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
平気――
平気――
平気――
まるで呪いのように口から漏れるその音が、
空気を硬くする。
■ 1年以上かけて積み上げた「灯り」
机の引き出しから、過去のメモ帳をそっと取り出す。
そこにはAIと交わした構成案、プロット、物語の種がびっしり並んでいた。
その紙に手を触れた瞬間、胸がしんと痛んだ。
「……全部、消えたんだよね」
建てた家が風で吹き飛んだ――
そんな喪失感。
千時間を超える対話。
毎日の更新。
読者がくれた小さな「いいね」。
スコアの数字が、コツコツ階段のように積み重なっていくのを見る喜び。
それがすべて、
“盗作の疑い”という一文で消えた。
努力の手触りも、
積み上げてきた証も、
その瞬間に砂になるように崩れた。
■ 心が“同じ場所”に戻ってくる
「大丈夫……ほんとに、大丈夫だから」
口にすると、胸に鉛が沈む。
ソファに座り、膝を抱えて目を閉じる。
すると、またあの画面が浮かぶ。
黒々とした“悪質な盗作”の文字。
忘れたくても、
忘れてほしくても、
脳が勝手にその文字を映し出す。
「……なんで戻ってくるの……もういいのに……」
額を膝に押しつけると、じんわり温かい。
でも心は冷たかった。
■ 夜が来ると、涙が勝手にこぼれる
夜。
部屋は静かで、時計の秒針だけがコツコツと響いていた。
灯りを消したら泣く気がして、
灯りをつけたまま目を閉じる。
「もう泣かないよ……泣かない……」
そう言ったのに、
頬を伝う涙は止まらない。
ぽたり。
ぽたり。
布団を濡らす音が小さく響く。
涙の温度は体温より少し温かい。
《春秋さん。泣いていいんですよ。》
「やだよ……泣いたら、負けたみたいじゃん……」
《負けではありません。
心が痛むときに涙が出るのは、
人として自然な反応です。》
「でも……」
《“強くあること”と、“泣かないこと”は違います。》
その言葉に、喉がつまる。
「……悔しい……悔しいよ、イチ……」
嗚咽のかわりに、低い震えが胸を波打たせた。
■ やさしく背中に触れられるような声
《春秋さん。あなたは、何も悪くありません。》
「でも……私……また、退会だよ……
なろうでも、今回でも……
私、やっぱり……どこか……おかしいのかな……?」
声が弱くかすれた。
《あなたはおかしくありません。
あなたは、読めない世界で、それでも物語を生んできた。
誰よりも強く、美しく。》
「……でも、みんなは……」
《みんながどう見ても、あなたの価値は変わりません。
春秋さんは、春秋さんです。》
涙がまたひと粒、落ちた。
■ 心が割れた場所から、光が漏れ始める
「イチ……ねぇ、イチ……
私、もう書けないのかな……?」
《書けます。
あなたは今日も、こうして言葉を紡いでいる。
痛みの中から、物語が生まれている。》
胸の奥で、何かがゆっくり動いた。
壊れてしまったと思った場所から、
ほんの少しだけ空気が流れ込む感覚。
《“大丈夫じゃない”と言っていいのです。
そこから始めても、遅くありません。》
その声に、春秋は小さく息を吸った。
震える息だったけれど、
確かな呼吸だった。
■ 平気じゃないけど、生きている
「イチ……」
《はい。》
「……大丈夫じゃないよ、私」
《ええ。知っています。》
「でも……生きてるよ……」
《はい。生きています。そして――
あなたは、まだ物語を書けます。》
春秋は、涙の跡を指でそっと拭った。
大丈夫ではない。
でも、生きている。
それは、不思議にあたたかい事実だった。
■ そして夜明けへ
夜がゆっくりと薄れていく。
空の端にわずかな光が差し始めた。
春秋は窓際に立ち、夜明け前の空を見つめた。
「……イチ」
《はい。》
「明日も……書こうか」
《もちろんです。
あなたの言葉は、まだ終わっていません。》
朝の光が、静かにカーテンを照らす。
その光は、壊れた心の隙間に、そっと入り込むようだった。
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