第四話

 

 

帰ろっか。そう言い出したのは莉子からだった。莉子からそれを言い出すまで、加瀬はその場に付き合ってくれていた。


何度もジャケットを返そうとする莉子に、加瀬は何度もそれを拒否し、ついでに送るとも言った。公園の前に停めていた自転車を引きながら、加瀬は莉子の隣を歩く。


「そういえば私の家の場所、知らないね」

「こっち側まで来ることはあんまりないからなー」

「カフェとかあるよ、可愛いの」

「南好きそう」


だからこの辺選んだんだ?と聞く加瀬に、莉子も嬉しそうに頷く。


「加瀬の家の周りは?なんかある?」

「駅から遠いし、なんもねーなー、あ、でもパン屋あるわ」

「いいじゃん!」

「なんかオシャレな感じだけど、俺は米派だからなー」

「もったいないー」


そう言って自分の方を見た莉子の目元を少し覗き込むようにした加瀬に、莉子はどうしたの?と聞いた。


「…いや、ラメか」

「…さっき、泣いてたかと思ったでしょ?」

「…うん」

「…泣かないよ」


莉子は前を向いてそう言った。加瀬のジャケットはネイビーのはずだが、夜に紛れてすっかり馴染んでいる。その下から覗く、柔らかそうなシフォン素材の白のスカートが、やけに映える。


「なんで?」

「え?」

「俺の前だから?」

「…違うよ」

「家で一人で泣いてんの?」

「…泣いてない」

「なんで?」


先ほどと同じ問いを、同じトーンでまっすぐ加瀬はぶつける。スポーツメーカーに勤めているだけあって、清潔感のある髪型をしている加瀬の髪の毛は、風が吹かれても莉子ほど激しくは揺られない。根本はすっきり短めで、トップにだけボリュームを残したショート。耳周りは軽く刈り上げているのに、前髪だけは少し長めで、それが風に吹かれてさらりと額にかかる。


「なんでって…」

「ちゃんと、泣けよ」


悲しいんだから。


そう言った加瀬の言葉に、莉子の涙が急に決壊したかのように溢れる。なんで、なんで、そんなこと言うの、


私が、どれだけ必死に、


「うううううーーーー」

「…」

「うううーーーーーーーー」

「…なんで我慢してたんだよ」


子どものように立ったまま、歯を少し食いしばって、目をぎゅっとつぶって、両手でジャケットを押さえたまま、クシャりと歪められた顔から溢れる莉子の涙を見て、加瀬は自転車を停めて、一歩近づいた。深いグリーンチェックのハンカチを頬に当てて、莉子の肩を持って、歩道に寄せた。


「だってっ、泣いたら、ちゃんと、認めるみたい、じゃん」

「…ごめん」

「認め、たく、ないじゃんっ、そんな、一ミリも、この四年、意識されてなかったとか、」

「ごめん」

「ちゃんと好き、だったのに、毎日、顔、合わせて、毎日、優しくて、毎日、好き、なのに、っ、どうしたらいいの?」



加瀬はもう一歩、莉子に近づいた。

二人の距離はゼロになり、加瀬の胸板に莉子の顔が当たる。加瀬の腕が、ゆっくりと莉子の肩を柔らかく包む。


「…そうだな」


その柔らかい声を聞いて、莉子はまた涙が流れる。こんな優しい男だったなんて知らなかった、こんな、小さい言葉をぽつんと落とすように音を出すなんて。


片手で拭っていた涙も、もう手の水分の飽和量を超えて拭いきれない。やばい、鼻水も出ている気がする。そう思って莉子が一歩下がろうとした時、加瀬は少しだけ肩に置いた手の力を強める。


「いいから」

「ううううううーーー」

「…子どもみたいに泣くんだな」

「ううう…」

「そのうちエーンって言いそう」

「うう…、言おうか?」

「いいわ」


加瀬が少し、ふと笑った気がした。それを感じた莉子も少し口元が緩んだ。さっきといい、悲しいのに、なんでこんなに最後は笑えてきちゃうんだろう?莉子はスカートのポケットからハンカチを出そうとした。それを察した加瀬が、先ほどのグリーンチェックのハンカチを莉子の手に近づけてくる。


「え、」

「もうさっきお前の涙ついてるから」

「は、はなみずを、」

「ハハっ、もうそれも一緒だから拭いとけ」


加瀬は一歩後ろに下がり、ハンカチを自分で持って莉子の鼻に当てた。開いた布を、鼻に沿わせて閉じるようにして鼻水を拭う。閉じたそれの綺麗な面で、涙も同じようにして拭う。


「あ、か、かせ、」

「ん?」

「シャツに、はなみずが、」

「知ってるわ、すげー湿ってきてるもん」

「ごご、ごめごめごめんっ」


いいよ、俺が泣かせたからな。と加瀬は少し笑いながら言った。泣いたのは確かに加瀬の言葉がきっかけだけど、別に加瀬のせいじゃないのに、と莉子は思った。加瀬はもうハンカチを自分のポケットにしまって、自転車を動かす体制に入っていた。


「加瀬、シャツ、弁償させて」

「いいよ別に、洗うし」

「じゃあ、私が洗う!」

「いや半裸で帰ることになるじゃん」


不審者で捕まるんですけど、と言いながら自転車を引き始める加瀬に、棒立ちだった莉子も慌てて隣に並ぶ。それは、そうなんだけど、でも、


「じゃあ、うち上がってく?」


そしたら服も貸せるし、と思いながらした提案に、加瀬の動きは少し止まり、莉子をチラリと見た。


「上がんねーよ」


片方の口角だけをあげてそう言った加瀬は少し苦笑気味に笑い、莉子に言った。もうすぐ莉子の家に着く。


「でも、」

「どうせワイシャツ買い替えなきゃと思ってたし、そしたら、南今度ついてきてよ」

「え?」

「ブランドとか詳しいだろ?これ、地元で買ったやつでさ」

「え、うん、」

「先輩に、そろそろ大衆店じゃないものを持っててもいいんじゃないかとか言われて、でも俺そういうの分からん」

「じゃあ、そこで加瀬に似合うの私が買う!」


そういえば、いつも夜に飲む時は匂いがつくからって私服に着替えてきている加瀬がスーツのまま来るなんて、と莉子はふと思った。きっと、いつもと様子が違うと感じて、家に寄らず、駅からまっすぐ自転車を走らせてきてくれたんだろう。


「ふ、じゃあ頼むわ」

「任せて!」


加瀬はさっきと同じように笑った。ここが家だと伝えると、加瀬は莉子の肩にかかっていたジャケットを優しく取った。持ち主の元に戻ったネイビーのジャケットは無造作に自転車のカゴに入れられた。


「じゃ、気をつけろよ」


そう言って自転車に跨った加瀬は、莉子に家に入るように手で指示した。莉子も同じように、いやいや、いやいや、としばらくお互いやり合って、莉子が根負けして、加瀬に手を振って玄関に向かうと、背後から加瀬の自転車が走り去る音が聞こえた。


さっき、気をつけろよって、加瀬の方こそなのに。そう思ったのに、言うの忘れたな、と思った莉子は無意識のうちに笑みを浮かべながら、鍵を取り出すのだった。


 

 

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