農家の異世界奮闘記~理の目と鍬一本で、国を救い、神に挑む~

今無ヅイ

農家漂着編

第1話:風と土と、ひとすじの理(ことわり)

 北海道の片田舎。


 昼を過ぎているのに、空はまだ夜みたいに重かった。

 雲は低く、畑の向こうの山並みが半分、消えている。風は途切れず、家の壁を叩き、窓ガラスを細かく震わせた。


 テレビの音がやけに大きく聞こえる。


『――観測史上最大級の台風です。北海道上陸は極めて異例。外出は控え、命を守る行動を――』


 画面の端に、赤い警報が点滅していた。

 避難情報。河川氾濫。土砂災害。

 普段なら「内地の話だべさ」と笑って終わる種類の言葉が、今日は、この町の名前を伴って流れてくる。


 土田耕平は、リモコンを置いた。


「……水路、また溢れてないよな」


 独り言が口から漏れるのは、癖みたいなものだった。

 頭の中は、畑のことだけで埋まっている。

 雨量、風向き、用水、排水、畔の崩れ、苗の倒伏。ひとつでも致命傷になり得る。


 長靴。カッパ。軍手。

 いつもの“雨の日装備”を、今日は二重にする。

 玄関を開けた瞬間、空気が違った。


 冷たい。重い。刺さる。


 風が、身体の芯にまでねじ込まれてくる。

 雨粒が、弾みじゃない。ほんとに、弾丸みたいに顔に当たる。痛い。


「……だいじょぶだって。見に行くだけ。ちょっとだけ」


 自分に言い訳して、軽トラの扉をガンと閉めた。

 金属の音が、風のうなりに呑まれて、すぐ消える。


 ――農家ってのは、天気が悪いほど動く生き物だ。

 畑は子どもみたいなもんで、置いて逃げるなんて、どうしてもできない。


 誰に頼まれたわけでもないのに、足が勝手に畑へ向かう。

 もう何度、こうしただろう。


 ツチダ家は代々農家だ。祖父の祖父の代から、泥と風と土で飯を食ってきた。

 「土は裏切らねぇ」なんて、綺麗事じゃない。

 土は、ちゃんと向き合った分だけ、結果で返してくる。冷たくて、正直で、だから好きだった。


 芽吹きの匂い。

 初夏の風。

 土の温度。

 それが、耕平の人生そのものだった。


 軽トラは泥道を、ゆっくり進む。

 ハンドルが取られる。ワイパーは最速でも追いつかない。

 横風が、車体を横から殴る。

 北海道を襲う台風が“ヤバい”ってことは、天気予報の言葉じゃなく、肌が知っている。


 視界の先、用水路が見えた。

 水位は――ぎりぎり。

 濁った水が、普段の倍の速さで流れている。枝が混じり、泡が立ち、縁を叩いて跳ねていた。


「……頼むぞ」


 誰に言ってるのか分からないまま、車を降りる。

 足元の土が、柔らかい。湿っている。でも――踏める。

 まだ、畔は生きてる。


 畑の方へ目をやる。

 風で麦が波打っていた。倒れそうで倒れない。

 自慢の畑だった。ここまで持ってきた。ここまで育てた。


「……よかった」


 胸の奥が少しだけほどけた。

 息をついて、腰を伸ばす。


 ――その瞬間。


 ゴウッ。


 雷みたいな音がした。

 いや、雷じゃない。もっと低い。腹の底に落ちる音。


 山の方。川上。

 目を向けた途端、背筋が凍った。


 白く泡立つ濁流が、信じられない速さで迫ってくる。

 木の枝。泥。石。何か大きいもの。

 水が“壁”になって、こちらへ突っ込んでくる。


「……鉄砲水――っ!」


 反射で走った。


 足がもつれる。

 土が、崩れる。

 踏んだ場所が、足ごと沈む。


 視界がぐるりと回転した。


 水の音が、風の音を飲み込む。

 世界が、水になる。


 叫ぶ暇もない。息を吸う暇もない。

 冷たさだけが、身体を刺す。

 胸が潰れる。喉が焼ける。手足が思うように動かない。


 それでも、最後まで目だけは、畑を探した。


 灰色の雲の下。

 風に耐える麦の波。

 自分の手で守ってきた、大地。


「……頼む。みんな、無事で……」


 祈りは濁流にさらわれ、形を失った。


 次の瞬間。


 泥の匂いが消えた。

 音も、風も、すべてが止まった。


 視界が、真っ白になる。


 身体がふわりと浮く。

 痛みが遠のく。熱も冷たさも、輪郭を失っていく。

 柔らかな光が、まるで布みたいに全身を包んだ。


 不思議と怖くなかった。

 どこか――懐かしい。


 ――ああ、土の匂いだ。


 懐かしい“土”。

 でも、あの畑の匂いじゃない。もっと乾いていて、もっと澄んでいて、知らないのに、なぜか安心する匂い。


 ゆっくりと、目を開ける。


 そこには、見たことのない青空があった。

 雲は高く、風は静かで、空気が軽い。

 地面は金色に光って見える。砂でも雪でもない。畑の土でもない。けれど、確かに“大地”だった。


 転ぶように立ち上がり、周囲を見回す。


 どこだ、ここは。

 ……生きてるのか。死んだのか。

 分からないのに、胸の奥だけが、妙に落ち着いている。


 そのとき。


 視界の端で、何かが、ふっと揺れた。

 空気の中に、薄い“きらめき”が漂っているような――そんな錯覚。


 耕平は、思わず息を止めた。

 そして、確かめるように、呟いた。


「……色が、見える」

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