彼女に捧げる鎮魂歌Ⅲ・序章
マカロニサラダ
第1話 彼女に捧げる鎮魂歌Ⅲ・序章・前編
前編
それは寒い――冬の最中の出来事。
彼女は枯れ果てた――草原に座っていた。
春になれば一面の花畑となるであろうそこも、今は彩りが失われている。
寂しい、と表現できるその草原にありながら、彼女は白い息を吐き出した。
遠くに見えるのは、巨大な湖。
丘の上にある城の庭園から、彼女はその湖を眺めた。
この頃、彼女は黒を好んでいる。
その理由は、彼女自身も分からない。
ただ、こう感じる時もあった。
〝これは自分が殺めてきた人々に対する哀悼の意だ〟――と。
この黒いドレスも、喪服の代わりなのではと、彼女は本能的に感じる。
「本当に、私はどうかしていますね。
自分の事さえ、よく分からないのだから」
確かに、彼女は変わった。
大抵の事では驚かなかったのが、彼女である。
だが今の自分は、以前とは何かが異なる。
その何かが、彼女には分からない。
それが〝喜以外の感情〟だと、彼女はまだ気づかない。
と、彼女が呆けていると、後ろから声をかけられた。
「――オリレオンお嬢様!
ここに、いらっしゃったのですね!」
オリレオンと呼ばれた少女が、振り返る。
彼女の名を呼んだ人物の名は――バルバトラ・ディンという。
騎士の一人である彼は、オリレオン・ウォズの護衛も兼ねていた。
そう――オリレオン・ウォズ。
これがこの喪服の少女の――今の名だ。
オリレオンの姿を視界に映すバルバトラは、今日も感嘆する。
黄金色の髪を背中に流すオリレオンは、一言で言うと〝可憐〟だろうか?
〝儚い〟と言い換える事が出来る彼女の美貌は、この城にあっても抜きに出ている。
緑色の瞳は穏やかで、彼女を見る者を安心させる。
第三者に〝優しそう〟という印象をあたえるオリレオンは、確かに温厚だ。
だが、以前の彼女はもっとドジだった。
齢十六にもなるオリレオンは、とにかくよく転んだ。
何もない所で、足をつっかえて転倒するのが、彼女なのだ。
別に、運動神経が悪い訳ではない。
頭も決して、悪くはない。
ただ、理由は分からないが、とにかくオリレオンはよく転ぶ。
ウォズの領主であるオリレオンの父は、そんな我が子をよく心配した。
その内頭をぶつけて、重傷を負うのではと、真剣に危惧したのがオリレオンの父だ。
実際オリレオンは六日前、その危惧を現実の物にした。
彼女は何時もの様に、すってんと転び、遂に頭を床に強打したのだ。
目撃者曰く〝それは正に芸実的とも言える転び方だった〟――との事。
いや。
それは本当に、笑えない話だ。
転ぶ事の見本や、ドジの体現者と呼ばれ続けたオリレオンは――遂に致命傷を負ったのだから。
その後オリレオンは――三日間目を覚ます事はなかった。
意識を失ったオリレオンの昏睡状態は、長く続く事になる。
息はしていても、目覚める事は無い。
死んではいないが、とても元気とは言えない。
この二律背反を前にした時、オリレオンの周囲の人々はとにかく心配した。
父にいたっては、財産の五分の一程を教会に寄付して、娘の回復を祈願した程だ。
その甲斐があったのか――オリレオンはやがて覚醒する事になる。
目が覚めた彼女は眉を顰めてから、首を傾げ、まず自分の顔を鏡で視た。
それから彼女は、益々気難しい顔になったという。
この時、傍にいたバルバトラはオリレオン・ウォズがこう呟いたのを、聞いている。
〝――アレ?
これって――完全に私じゃないですか〟――と。
正に意味不明な、話だ。
完全に私?
それは、そうだろう。
オリレオンはどこまでいっても、オリレオンである。
彼女以外の、何者だと言うのか?
ただバルバトラは、その呟きが大いに気になった。
一体どういう意味だと、今でも引っかかっている。
更に言えばこの日から――オリレオンは人が変わったと言っていい。
ドジだと自覚していた為か、オリレオンは引っ込み思案な性格だった。
自分から喋る事は殆どなく、周囲の方から話しかけてくるのを待っている。
たどたどしい口調で喋り、どこか甘えん坊な所もあった。
保護欲をくすぐるその在り方は、騎士達の人気を集めてもいたのだ。
だがそのオリレオンは、この日を境に――変貌する事になる。
オリレオンはとにかく、仕事を欲した。
伯爵令嬢であり、ウォズ領の領主の娘である彼女であるなら、仕事などせずともよい。
丸一日を自分の自由に出来るのが、オリレオンの立場だ。
しかしオリレオンは、とにかく仕事をする。
しかも寝る間も惜しんで、何かに取り付かれたかの様に。
更に言えば、オリレオンの仕事のはやさは、明らかに尋常ではない。
一日に二千ページ以上の書類を作成するこの少女の、どこが普通だというのか?
今やウォズ領の書類作成を一人で行っているのが、このオリレオンだ。
正に、キチガ🔳という働きぶり。
他の追随を許さぬ、仕事量。
生まれ変わったとしか思えないそのオリレオンの様子は、周囲を心配させた。
まさか頭を打った事で、オリレオンは覚醒した?
眠っていた才能が、開花したとでも言うのか?
事実、彼女は十日に五分しか寝ない。
いや。
その事実自体、オリレオンは他人に話さない。
周囲が知っている事は、オリレオンが以前の記憶を失っているという事だけ。
言葉や常識的な事は覚えているのに、オリレオンは、周囲の人々の事は忘れてしまったのだ。
父の事もメイド達の事も執事の事も、騎士達の事も、彼女は全て忘れた。
バルバトラもその中に含まれていて、オリレオンは笑顔で〝どなたでしょう?〟と首を傾げた。
これには、バルバトラとしても、心中穏やかならぬ物がある。
ハッキリ言ってしまえば――バルバトラもオリレオンに恋をしていた。
オリレオンの幼馴染であるバルバトラは、自然な形でオリレオンを好きになったのだ。
ドジな彼女には、自分が必要。
オリレオンの事は、自分が一生護る。
彼女を脅かす者には、一切容赦しない。
そう誓っていた彼の想いは、ある日、脆くも崩れさる事になる。
オリレオンの中からは、この十六年間の思い出は一切なくなったからのだから、それも当然か。
オリレオンはバルバトラが誰なのかさえ、分からないのだ。
オリレオンは関わる者が多かっただけに、その被害は甚大と言えた。
多くの人々を落胆させたのが、今のオリレオンと言っていい。
だが、仕事の面で言えば、今のオリレオンは正に申し分のない人材なのだ。
鬼の様に働き、ウォズ領の行政能力を五十倍以上に跳ね上げている。
書籍も何十冊も発行し、ウォズ領の経済さえ回しつつあるオリレオンは確かに超人と言えた。
それだけに、以前の面影はオリレオンから失われつつある。
正直言えば、バルバトラは、それが大いに寂しかった。
(だが、あのままオリレオンが目覚めなかったと思うと、俺としてはゾッとするしかない)
確かにオリレオンは、人が変わった。
まるで、生まれ変わったかの様だ。
しかし、オリレオンはこうして、生きている。
死んだ様に眠っていたあの時の事を思えば、比べ物にならないぐらい、幸運な事だ。
ただ今の彼女は間違いなく――バルバトラ・ディンが知るオリレオン・ウォズではない。
それでもバルバトラはそんな想いなどおくびにも出さず、オリレオンと接する。
「おかしな事をいいますね、バルバトラは。
私はあなたの〝少しは休め〟という忠告を素直に聴き、こうして休んでいるのです。
あなたが土下座して、私の足の裏を舐めながらお願いするから、私は言う事を聞いた。
だというのに、そんな私の何が不満なのでしょう?」
「――いや、俺、そこまではしていませんよ⁉
土下座も、お嬢様の足を舐めた事も、ありません!
失礼ですが、お嬢様の意識は、今も混濁しているのでは⁉」
偶に、質が悪い冗談を口にする様になった、オリレオン。
大体その被害は、直属の護衛官であるバルバトラが受けていた。
本当に、オリレオンはどうしてしまったのか?
大体、口調からして、違う。
嘗てのオリレオンは、もっと少女らしい口調だったではないか。
「それで、私の足の裏の味はどうでしたか?
美味しかった?
それとも、ただ臭いだけでしたか?
……え?
勿論、後者?」
「だから、人の話を聴いてください、お嬢様!
私はそもそも、貴女の足の裏になど興味はない!」
「え?
そうなのですか?
それはショックですね。
傷心の余り、胸が苦しくなり、窒息死しそうです。
窒息死とは、苦しいですからね。
糞尿を垂れ流しながら、悶え苦しむ様ですよ?
バルバトラは、私にそんな酷い仕打ちをすると言うのですね?
〝さっさと死ね〟と、そう言っている――?」
「………」
一体、今のオリレオンと、自分はどう接すればいいのだろう?
最近のバルバトラの悩みは、そこにあった。
「あー、もういいです。
お嬢様のそういう質が悪い冗句は、聞き飽きました。
本当にお嬢様は、俺をどうしたいんですか……?」
ただ、自分を虐めたいだけなのか?
それとも、別の思惑がある?
バルバトラは、それが全く分からない。
以前はおどおどしていたオリレオンだが、今の彼女は堂々としている。
今も笑顔を絶やす事がなく、その微笑は万人を惹き付けた。
恐らく以前のオリレオンを知らぬ人間が見たら、無条件で彼女に好感を抱くだろう。
だが逆を言えば、以前のオリレオンを知るバルバトラは、まだ違和感が拭えない。
(本当にこの人は――どうしてしまったのだろう?)
恐らく以前のオリレオンは、失われた。
今の彼女は、新生したといった状態だ。
命が助かる代わりに以前のオリレオンではなくなったのが、この彼女である。
正直、バルバトラも〝きっとそういう事なんだろう〟と分かってはいる。
だが、容易にその事実を受け止められる程、彼は器用な人間ではない。
ましてや、自分が恋した少女が劇的に変わってしまったのだから、猶更だ。
「というより、もしかしてバルバトラは、私と二人きりの時は、普通に喋っていた?
敬語では、なかったのではありませんか?」
「そ、それ、は」
本当に、今のオリレオンは、察しがいい。
記憶を失っている筈なのに、その事を見抜いてくるのだから。
いや。
オリレオンは嘗ての自分が、この騎士の事を憎からず思っていた事も何となく分かっていた。
或いは両片思いなのが、嘗ての自分とこの騎士なのでは?
オリレオンは今になって、そんな事を感じ取る。
と、ここでバルバトラは開き直った。
「まあ、そうだよ。
俺とオリレオンは、幼馴染だからな。
俺の家の格も伯爵家に近かったから、小さい頃から俺はオリレオンの遊び相手だった。
おままごとや、人形遊びに、よく付き合わされたものだ」
「成る程。
つまりバルバトラは――ドMという事ですね?」
「………」
待て。
一体どうなったら、そういう結論に達する?
「いえ。
少女の望むままに接するとか、そういう結論に達するしかないじゃないですか。
つまり今のバルバトラも、私が望めば私の言う通りにするという事。
私の為の〝人間椅子〟になる事も、辞さないという事でしょう?」
「――一寸待ってくれるかな、オリレオンさん!
人間椅子って、何⁉
俺にはまずその辺りから、分からない!」
「え?
そうなのですか?
人間椅子とはただあなたが四つ這いになって、私を背中に乗せるというプレイなのですが?」
「………」
オリレオンはさも当然の様に、普通に言い切る。
勿論それは、バルバトラの常識にはない発想だ。
「……成る程。
オリレオンが、俺を人間扱いしていないのは、よく分かった」
「いえ。
そういう訳ではないのですが」
「今の俺は……きみにとってその程度の存在なんだな?」
「いえ。
だから、そういう訳ではないのです」
全く嚙み合わない、二人の会話。
更にオリレオンは、よく分からない事を言う。
「正直、私も戸惑っているのです。
何せ見かけがまるで変っていないのに、立場だけは偉くなっている。
見かけは同じとか、これではまるで――」
――が、オリレオンはその先を口に出来ない。
自分の意志で思い留まったのではなく、本当に口に出来ないのだ。
と、オリレオンは溜め息をつく。
それは彼女が変貌してから、バルバトラに初めて見せた仕草だった。
どうも、オリレオンの〝戸惑っている〟という言葉に嘘はないらしい。
今のオリレオンは、何かに懸念を覚えている。
ただバルバトラは、その原因が何なのか見当もつかない。
「いえ。
何でもありません。
私はやはり、何時もの私でいる方がいいのです。
何にも動じなかった、あの頃の私でいる方が」
「は、い?
何て言ったんだ、オリレオン?」
バルバトラが、眉を顰める。
これは正に、平穏な日々の一幕の筈だ。
だが次の瞬間、それが脆くも崩れ去る事に、二人はまだ気づかない。
いや。
その凶報は、今こそ届けられた。
「……た、大変です、お嬢様、バルバトラ殿!
敗走したレディナ軍の一部が、暴徒化したとの事!
その数は――凡そ五千!
今の――主力の兵が遠征に向かったこのウォズ領ではとても太刀打ちできない数です!」
「……な、にっ⁉」
「………」
駆け足でやってきたメイド達が、バルバトラとオリレオンにそう報告する。
確かに今このウォズ城に居るのは、五十名の使用人だけだ。
その彼等だけで、五千に及ぶ敵兵を食い止める?
そんな事は、不可能と言えるだろう。
だが、オリレオン・ウォズは、普通にこう告げた。
「いえ。
彼等の相手は――私一人で十分です。
皆は――安全な所に非難していて」
「――はぁ⁉」
一体この伯爵令嬢は、何を言っている?
意味が分からず――バルバトラ・ディンは素っ頓狂な声を上げた。
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