第8話:定言命法としての早起きと、「理性」に洗脳された担任教師

1.カント式ゾンビの誕生


 それは月曜日の朝であり、地獄の始まりでもあった。


 通常、俺の朝は花音の膝蹴りと、自分の存在に対する後悔から始まる。だが今日は違った。


 午前4時55分。

 目覚まし時計が鳴る五分前、俺の目はカッと見開かれた。眠気はない。二度寝への欲望もない。あるのは精密機械が起動した時のような、冷徹なまでの覚醒のみ。


「起床せよ。これは義務である」


 フィヒテの声はもはや怒号ではなく、抗いようのない神託となっていた。彼は今この瞬間、単に憑依しているのではなく、俺の中枢神経系を完全に乗っ取っていた。


『おい、フィヒテ……』俺の意識は大脳皮質の隅っこに追いやられ、助手席に縛り付けられた不運な男のようになっていた。『まだ五時だぞ! 体が起きてない!』


「肉体は精神の阻害要因だ」フィヒテは冷酷に俺の体を操り、布団を跳ね除けた。「我が師イマヌエル・カント(Immanuel Kant)は、何十年もの間、一日も欠かさず五時に起床した。『絶対自我』への飛躍を成し遂げるためには、まず聖人の生活習慣を模倣することから始めねばならん」


「狂ってます……」ショーペンハウアーが隅っこで苦痛に満ちた呻き声を上げる。「体内時計に逆らうこのような行為は、生命意志に対する虐待です。睡眠こそ唯一の解脱なのに、なぜ目覚めてこの苦痛に満ちた世界と対峙しなければならないのですか?」


「黙れ、ニヒリスト」


 俺(フィヒテver.)はベッドから飛び降り、初冬の早朝の刺すような寒さを無視して、浴室へと直行した。


 冷水シャワー。


 鏡の中の自分を見る――普段は死んだ魚のような目が、今は恐ろしいほどに、まるで殉教者のように狂信的な光を放っている。


 ベッドメイキング(シワ一つない)。

 英単語の暗記(効率300%アップ)。

 朝食作り(栄養バランスが狂気的なまでに計算された納豆ご飯)。


 花音が欠伸をしながら部屋を出てきて、いつものように俺に「起床いじめ」を行おうとした時、彼女は凍りついた。

 彼女は見たのだ。既に身支度を整え、直立不動で玄関に立ち、手には二つの通学鞄を提げている俺を。


「おはよう、如月花音」俺はアナウンサーのように標準的なイントネーションで言った。「君の鞄は整理済みだ。牛乳はテーブルの上、温度は45度。君が12分以内に完食すれば、7時3分の急行電車に間に合い、通常より40分早く登校して朝読書を行うことができる」


 花音の手からスマホが落ちた。


「お兄ちゃん……宇宙人に乗っ取られたの? それとも死ぬの?」


「否。私は再生した。現在の私は、自律の化身だ」


 俺はドアを開け、朝の光の中へと大股で歩き出した。呆然とする妹を置き去りにして。



2.担任教師への精神爆破


 早起きが家族への拷問だとするなら、次にフィヒテが目指したのは体制への拷問だった。


 午前7時50分、職員室。

 ここは通常、教師たちがコーヒーを啜りながら月曜日の倦怠感を嘆く場所だ。


 俺たちのクラスの担任、武田(たけだ)先生。三十代、後退する生え際、濁った目をした社畜教師が、今日三本目のタバコに火をつけようとしていた。


「武田先生」


 俺は彼の机の前に立った。いつもの猫背ではない。プロイセンの兵士のように胸を張っている。


「あ? 如月?」武田先生は驚いて手を震わせ、灰をズボンに落とした。「どうした? また早退か? それともいじめか?」


「否」俺は分厚い書類の束を机に叩きつけた。


 それはフィヒテが一晩で書き上げた『第42回文化祭の本質的改革に関する提言書――真理探究としての集団行動論』だった。


「先生、私は現在のクラス展示企画(焼きそば販売)に対し、深い恥辱を感じています」俺は燃えるような瞳で彼を見つめた。「単に口腹の欲を満たすだけの低俗な消費主義的活動は、我々の青春の浪費です! 教育の本質とは、魂の覚醒にあるのではないですか?」


「え……あの、如月くん?」武田先生は冷や汗を流している。「みんな、ただ楽しく遊びたいだけで……」


「楽しいだと?!」


 フィヒテが爆発した。俺は両手を机につき、身を乗り出した。その威圧感に、周囲の教師たちも手を止めた。


「そのような薄っぺらい快楽は麻薬です! 武田先生! あなたが教師になった初志は何ですか? まさか焼きそばを食うだけの社会の歯車を生産するためですか? 否! 独立した人格を持つ『主体』を育成するためでしょう! 私の目を見てください! あなたの『良心(Gewissen)』は痛まないのですか? カントが見ています! フィヒテが見ています! 全人類の精神文明の歴史が、あなたを見ているのです!」


 俺の声には魔的な扇動力があった。俺はドイツ古典哲学の専門用語を大量に引用し、「定言命法」から「知識学の原理」までを語り、この哀れな中年男性を煙に巻いた。


 武田先生の目が泳ぎ始めた。

 長期にわたる仕事のストレスと自己肯定感の低下が、この突如として現れた「崇高感」に満ちた非難に対し、心理的防衛線を一瞬で崩壊させたのだ。


「わ、私も……偉大な魂を育てたいと……」武田先生はうわ言のように呟き、目には涙さえ浮かんでいた。「若い頃は、『GTO』のような熱血教師になりたかったんだ……」


「ならばサインを!」俺はペンを彼の手のひらに押し付けた。「この『真理の迷宮』企画を承認してください! 2年F組を精神革命の拠点とするのです!」


「わ……分かった!」武田先生は震える手で署名した。まるで悪魔との契約書にサインするかのように。「如月! お前を信じるぞ! 燃えろ、青春!」


「あれを『知的暴力』と言うのよ」


 いつの間にか入り口に立っていた篠崎怜が、その光景を見ながら手帳に素早く記録していた。

「教師の中年の危機と職業的倦怠感を利用し、高密度の疑似哲学概念で洗脳を行う。恐ろしい手腕ね」



3.恐怖の「理性ウイルス」


 許可を得るのは第一歩に過ぎない。フィヒテが求めたのは総動員だ。


 教室に戻った俺(フィヒテ)は、席には座らなかった。

 教壇に立ち、黒板消しで黒板を激しく叩き、まだ寝ていた生徒たちを叩き起こした。


「聞け、諸君!」


 俺の声はマイクを必要としないほど朗々としていた。


「今日から、2年F組は一切の無意味な娯楽を廃止する! 休み時間の無駄話は禁止、代わりに瞑想を行う! 昼休みの睡眠は禁止、我々は『意志の鍛錬』(要するに大掃除だ)を行う! 真の高校生とは何かを、全校に見せつけるのだ!」


 普段の俺なら、チョークを投げつけられて終わっていただろう。

 だが今日の俺は、オーラが違った。フィヒテの狂信的意志とカントの機械的自律が混ざり合った、**「独裁者のオーラ」**だ。


「佐藤! その座り方は退廃の象徴だ! 背筋を伸ばせ!」

「田中! 漫画をしまえ! それは精神的アヘンだ!」


 最も恐ろしいのは、俺が彼らの世話を焼き始めたことだ。

 俺は驚異的な速度で日直の代わりに窓を拭き、係の代わりに宿題を集め、後ろの席の不良の壊れた椅子さえ修理してやった。


 この**「絶対的に正しく」かつ「強力に実行する」**態度は、奇妙なカリスマ性を生んだ。

 人間には隷属根性がある。極めて自信に満ち、極めて強力な誰かが方向を指し示した時、迷える羊たちはそれに従ってしまうのだ。


 午後になると、恐ろしい光景が現出した。

 2年F組の全員が、背筋を伸ばして座っている。私語はなく、ふざけ合いもない。教室には奇妙な荘厳さが漂っていた。

 いつも騒いでいる金髪の不良でさえ、戦々恐々としながら英単語を暗記している。彼が手を止めようものなら、俺が「君には失望した」という目で凝視するからだ。


「この空気、気持ち悪すぎるわ」


 後方の席で、星野愛理は顔面蒼白になっていた。彼女の手の中のペンは折れそうだ。


「私のオモチャが……暴走してる。これは如月蓮じゃない。ゼンマイ仕掛けの道徳モンスターよ。ちっとも面白くない」


 篠崎怜はロボットのようになったクラスメイトたちを見回し、ため息をついた。

「集団ヒステリーね。ル・ボンが『群衆心理』で記述した現象よ。如月は今、松明を持った狂人そのものだわ」



4.意志の崩壊と現実の平手打ち


 フィヒテの狂宴は、放課後の体育の授業まで続いた。

 長距離走のテストだった。


「走れ! 肉体の疲労に騙されるな!」俺は先頭を走りながら、後ろで喘ぐクラスメイトたちに怒鳴った。「苦痛は肉体の幻覚だ! 意志のみが永遠なのだ!」


 俺(というか、運動不足のオタクの体)は既に3000メートルを走り、限界を遥かに超えていた。

 肺が焼け付き、脚には鉛が入ったようだ。

 だが止まれない。フィヒテが許さない。


「もっと速く! 限界を超えろ! 我々は無限の追求なのだ!」


 ゴールラインを加速して駆け抜け、この壮大なる「意志の凱歌」を完成させようとした、その時――。


 プツン。


 何かが切れる音がした。

 視界が突然暗転した。

 心臓が抗議の悲鳴を上げ、酸欠になった脳がフィヒテの制御権を強制的に遮断した。


「愚か者め」ショーペンハウアーの最後の声が聞こえた。「意志もまたATP(アデノシン三リン酸)を必要とするのです。これが唯心論の末路です」


 俺は全クラスメイトの驚愕の視線の中、棒きれのように直立したまま、トラックの地面に顔面から叩きつけられた。


 ……。


 次に目が覚めた時、俺は保健室のベッドの上にいた。

 窓の外は既に夕暮れだった。


「起きた?」


 聞き覚えのある声。

 俺は痛む体を動かし、横を見た。

 ベッドの脇に、星野愛理が座っていた。彼女はリンゴを剥いているが、そのナイフさばきは見ていてヒヤヒヤするほど危なっかしい。


「俺……どうなった?」全身の筋肉が悲鳴を上げている。


「『急性・各種機能不全』よ」篠崎怜がカーテンの奥から現れた。「簡単に言えば、この貧弱な体が向こう一週間で使うはずだったエネルギーを前借りして使い果たしたの。ついでに言うと、あなたの『独裁統治』は、あなたが倒れた瞬間に崩壊したわ」


「みんな、あなたが白目を剥いて泡を吹く姿を見て、瞬時に『ああ、こいつについて行ったら死ぬな』って悟ったみたい」星野愛理はウサギの形に(不格好に)剥かれたリンゴを、俺の口に強引にねじ込んだ。「おめでとう、あなたの『精神革命』は失敗よ。今のあなたはクラスで『告白ゾンビ』だけでなく、『熱血バカ』という称号まで手に入れたわ」


 俺はリンゴを噛み砕きながら、涙を流した。

「フィヒテ……あの野郎……」


「彼を責めないで」


 ドアが開き、花音が入ってきた。彼女は俺の鞄を床に放り投げ、不機嫌そうな顔をしていたが、手には俺の大好きなスポーツドリンクの袋を持っていた。


「あの『スーパーお兄ちゃん』はキモいし、プリンも買ってくれなかったけど……あんたの今学期の数学の宿題、全部終わらせてたわよ。怪我の功名ってやつね」


 俺は呆気にとられた。


 脳内の奥深くで、フィヒテが体育座りで落ち込んでいる気配がする。「……肉体の脆弱さが……これほどとは……無念だ……」

 ショーペンハウアーは隣でほくそ笑んでいる。「だから言ったでしょう、寝ているのが真理だと。次は無茶をしないことですな、相棒」


 俺はベッドを囲む三人の少女を見た。

 体は死ぬほど痛いし、社会的死はさらに深まったし、革命は失敗した。

 だがなぜだろう、今の空気の方が、朝のあの「絶対的に純粋」な空気より、ずっと呼吸がしやすい気がした。


「ねえ、如月」星野愛理がふと笑った。今回は少し意地悪で、でもとてもリアルな笑顔だった。「あの強引な貴方もちょっとカッコよかったけど……私はやっぱり、今のその情けない顔の方が好きよ。だってその方が、いじり甲斐があるもの」


「……告白と受け取っておくよ」


「死ねばいいのに」

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