脳内会議は常に決裂! 俺の青春はドイツ哲学に侵略されている

ハリーの弁証法

第1話:「自我」の確立は、美少女の消しゴム拾いから始まるのか?

もし青春が壮大な演劇だとするなら、大半の人間は「リア充」という名の主役を演じ、スポットライトの下で根拠のないフェロモンを撒き散らしているに違いない。

 だが俺、如月蓮(きさらぎ れん)は違う。台本をもらえなかった「通行人A」どころか、舞台裏の神様に悪質なドッキリを仕掛けられた放送事故レベルの存在だ。


 あれは中学三年間で七回連続告白し、七枚の「いい人カード」を収集した挙句、その執念深さから「告白ゾンビ」という不名誉なあだ名をつけられた男の悲惨な末路――いや、あれは末路ではない。地獄の始まりだった。


 あの日、放課後の廃神社で俺は祈った。

「神様。もし俺の『自我』が薄っぺらいせいで振られたなら、強靭な精神力をください。もし世界を見る目が浅はかなせいなら、本質を見抜く知恵をください」


 神様(たぶん言葉遊びしかできない悪趣味な野郎)は、それを聞き届けた。

 そうして俺は、不幸にも「祝福」されてしまったのだ。


   ◇


 現在、千葉県某私立高校の二年F組。

 窓の外ではセミが死に物狂いで鳴き叫び、このふざけた蒸し暑さに抗議している。


「おい小僧、胸を張れ! 椅子に座っているだけでも、それは『自我(Das Ich)』が『非我(Das Nicht-Ich)』に対して行う偉大なる設定なのだ! その座り方一つで、貴様の絶対的自由を世界に知らしめるのだ!」


 俺の脳内で、男の怒号が響く。

 レッドブルを十本一気飲みした直後のような、異常なハイテンション。

 ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ(Johann Gottlieb Fichte)。ドイツ観念論のバーサーカーが、俺の大脳皮質で無意味な演説をぶち上げている。


「黙りたまえ。俗物が」


 続いて、気だるげで陰鬱な声が響く。全宇宙のパンツの色を見通したかのような、圧倒的な厭世観を漂わせて。


「この暑さ、この焦燥感……これこそが『生存意志(Wille zum Leben)』の盲目的な衝動の表れだ。生命とは欲望の塊であり、満たされなければ苦痛、満たされれば退屈。人生とは苦痛と退屈の間を行き来する振り子のようなもの……おや、あそこの女子のスカート、短すぎるな。あれは全て自然が仕掛けた生殖の罠だ」


 こちらはアルトゥル・ショーペンハウアー(Arthur Schopenhauer)。

 毒舌家で、女嫌い(本人は断固否定するが)、そしてフィヒテを親の仇のように嫌っている老人だ。


「はあ? この悲観主義の負け犬め!」

 左脳でフィヒテが吠える。

「あれはスカートではない! 『自我』が自身の境界を確立するために設定した障害だ! 蓮! 行動せよ! あの障害を克服するのだ!」


「あれは『絶対領域』という名の深淵だ」

 右脳でショーペンハウアーが冷笑する。

「見たところで不必要な苦痛が増すだけですよ」


 俺は無表情で黒板を見つめながら、手にしたシャープペンシルを「パキッ」とへし折った。

 これが俺の日常だ。

 脳内に二人の天敵が住み着き、片方は「精神で世界を征服しろ」と叫び、もう片方は「生きてるだけで丸儲け(なわけがない)」と嘆く。

 しかも最悪なことに、彼らはただの声ではない。


   ◇


 チャイムが鳴った瞬間、教室の空気が動いた。

 スクールカーストの頂点に君臨するリア充たちが即座にグループを形成し、カラオケだのタピオカだのと議論を始める。


 その喧騒の中、俺の右前方に座る少女だけは、どこか異質だった。

 例えるなら、低解像度の背景に間違って配置された高解像度のテクスチャ。


 星野愛理(ほしの あいり)。


 見事な黒髪ロング、千葉県の紫外線を一度も浴びたことがないような白い肌。目元には常に、あるかないかの微笑を浮かべている。誰にでも優しいが、誰もがそれを「社交辞令的優しさ」だと理解している、完璧な優等生。

 彼女は今、噂では美少女揃いと名高い弓道部の部活へ行く準備をしていた。


「おお! この輝き!」

 フィヒテが突然絶叫し、鼓膜が痛む。

「これこそ『自我』が揚棄(アウフヘーベン)すべき対象だ! 見ろ蓮、彼女の存在自体が、貴様の『自我』に対する制限となっている! 話しかけろ! 彼女を貴様の認識体系に組み込まなければ、彼女は永遠に貴様と対立する『非我』のままだ! 行け! 行動で貴様の存在を証明しろ!」


「やめておきなさい」

 ショーペンハウアーがあくびをする。

「彼女の完璧な笑顔を見なさい。あれは仮面です。種の保存のための道具としての虚しさを隠しているだけだ。話しかけたところで、階級差(意志の客体化レベルの違い)によって辱められ、新たな苦痛が生じるだけですよ。隅っこで呆けていることこそが意志の否定であり、解脱です」


「否! それは臆病だ!」

「いいえ、知恵です」


「うるさい……」

 俺は小声で呟き、こめかみを指で押して物理的に彼らを黙らせようと試みた。


 その時だ。

 運命――あるいはあのクソ脚本家――が再生ボタンを押したのは。


 星野愛理が立ち上がった拍子に、肘が机の角にあった消しゴムに当たった。白くて、なんなら甘い香りすら漂ってきそうなその消しゴムは、空中に放物線を描き、正確に俺の足元へと転がってきた。


 時間が止まった。


 普通のラノベなら、ここで俺が颯爽と拾い上げ、微笑みながら手渡し、彼女が「ありがとう」と言って、二人の間に「絆」という名のピンク色の産業廃棄物が生成されるはずだ。

 だが、俺の場合は違う。


「好機(チャンス)!」

 フィヒテが咆哮する。

「これは『非我』から『自我』への挑戦状だ! この消しゴムは偶然落ちたのではない、貴様が自身の能動性を証明するために落とさせたのだ(ある種の先験的な意味において)! 拾え! 消しゴムを拾うことは、世界を再構築することと同義だ!」


「動くな」

 ショーペンハウアーが冷徹に告げる。

「腰を曲げるという動作はカロリーを消費する上に、屈従の象徴です。そこに転がしておけばいい。それが無機物としての、あるべき帰結です」


 二つの力に引っ張られ、俺の体は硬直した。

 フィヒテは俺の右手を操って掴み取ろうとし、ショーペンハウアーは俺の頸椎を操作して麻痺させようとする。


 結果。

 俺は感電したカエルのような奇妙な痙攣を一度起こした後、光速で屈み込み、消しゴムを鷲掴みにした。


 星野愛理が振り返り、少し驚いたように俺を見た。その瞬間、彼女の瞳に嫌悪はなく、ただ珍しい昆虫を見るような困惑だけがあった。


「あ、ごめん、それ私の……」


 ここで消しゴムを渡せばよかったのだ。

 ただの「普通の人」として。


 だが、フィヒテが勝った。

 丹田から灼熱の衝動が湧き上がる。それは「絶対自我」という名の狂気。


 俺はゆっくりと立ち上がった。手には消しゴムを強く握りしめ、視線は星野愛理を見ず、彼女を通り越して虚無の彼方(黒板の上の校訓)を見つめた。

 自分の口が勝手に開き、声を発するのを聞いた。


「受け取れ。だが勘違いするな。君が落としたから拾ったわけではない」


 星野愛理が固まった。「え?」


 俺(フィヒテ憑依ver.)は口角を吊り上げ、少年漫画の悪役にしか許されない不敵な笑みを浮かべた。


「俺様の『自我』がこの瞬間、『消しゴムを拾う』という行動を選択することで、君という欠落した現実を補完してやったのだ! 感謝するなら俺ではなく、俺が創造したこの世界に感謝するんだな!」


 教室中が、死に絶えたかのように静まり返った。

 窓の外のセミすら一秒鳴き止んだ気がした。


 三秒後、ショーペンハウアーの悲痛な絶叫が脳内に響き渡る。

「あああああ! 恥ずかしい! これは公開処刑だ! 社会的な死だ! これは単なる苦痛ではない、意志の自己引き裂きだ! 死にたい! 虚無に帰りたい!」


 対照的に、フィヒテは満足げだ。

「はーっはっは! 見たか? これが行動だ! 台詞は少々中二病じみていたが、星野愛理という客体に消えない印象を刻み込むことには成功したぞ!」


 俺は星野愛理を見た。

 彼女の完璧な社交辞令スマイルは凍りつき、その美しい瞳は瞬きを繰り返している。CPUの処理能力を超えた論理エラーを起こしているようだ。


 そして、彼女は予想外の反応を見せた。

 通報もしなければ、露骨にキモがるわけでもない。

 彼女はそっと、狂犬の口から骨を奪うように慎重に、俺の手から消しゴムを抜き取った。


「あの……何をおっしゃっているのかよく分かりませんが……」


 星野愛理は小首をかしげ、サラサラの黒髪が肩に流れた。その瞳の奥に、かつてない複雑な――興味? のような光が走る。


「でも、如月くんって、意外と……哲学的な思索がお好きなんですね? ちょっと悪役っぽいですけど」


「は?」

 俺は変質者として処理される覚悟を決めていたのだが。


「さっき倫理のテスト勉強をしてたの」

 彼女は机の上の参考書を指差した。そこにはカントの肖像画が載っている。

「ドイツ古典哲学の真似をしてくれたのなら……演技が過剰だけど、その『唯我独尊』感、結構似てたわよ」


 彼女は笑った。

 営業スマイルではない。滑稽なサーカスを見た後のような、心からの愉快そうな笑みだった。


「面白いわ。如月くん、またそういう『セカイ系な発言』があったら、ぜひ聞かせてね」


 そう言い残し、彼女は鞄を背負い、爽やかな柑橘系の香りを残して教室を出て行った。

 俺は石像のように立ち尽くす。


 脳内で、フィヒテとショーペンハウアーが同時に沈黙した。

 しばらくして、ショーペンハウアーが幽霊のようにため息をついた。


「あの女……おかしい。普通のメスなら逃げ出している場面です。笑っただと? これは罠だ。間違いなく自然の罠です。貴様の愚かさを利用して優越感に浸っているに過ぎない。逃げなさい蓮、恋愛は苦痛の始まりです」


「黙れ、古狸!」フィヒテが興奮して叫ぶ。「これは承認だ! 『非我』による『自我』の承認だ! 蓮! 我々は勝利した! これは偉大なる弁証法の勝利だ! たとえ誤解だとしても、それは真理への第一歩! 次は何をする? 一緒に帰るか? 相互の主体性を確立するか?」


 俺は崩れ落ちるように椅子に座り、顔を覆った。

 さっきの台詞……哲学の真似だと誤解されたとしても、死ぬほど恥ずかしい。

 だが、心臓の鼓動は不甲斐なく加速していた。


『お前ら……』俺は脳内で弱々しく抗議する。『重要な局面で身体の制御権を奪うのはやめてくれないか?』


『断る』二人はハモった。

『貴様の意志が薄弱だからです』ショーペンハウアーが補足する。

『貴様の行動力が皆無だからだ!』フィヒテが反論する。


 窓の外、夕焼けに染まる空を見上げ、俺はため息をついた。

 どうやら俺の青春は、平凡な悲劇を回避した代わりに、「形而上学」という名の不条理コメディに突っ込んでしまったらしい。


 そして、あの星野愛理……。

 彼女、さっき「面白い」って言ったよな?


『考えるな』ショーペンハウアーが冷たく言う。『それは幻覚だ』

『考えろ!』フィヒテが叫ぶ。『思考こそが創造だ!』


 机に突っ伏しながら、俺は未来が真っ暗だと感じた。あるいは彼らの言葉を借りるなら、「無限の追求」と「果てなき苦痛」に満ちたカオスだ。

 この恋、たぶん成就しない。だが哲学論争だけは、俺が脳死するその日まで続きそうだ。



【幕間:脳内劇場】


フィヒテ:

「それにしても、さっきの少女の脚だが……」


ショーペンハウアー:

「ほう? 貴様も気付いていましたか。あれは生物学的に完璧なプロポーションです。オスを生殖地獄へと誘い込むための、自然の甘美な餌ですよ」


フィヒテ:

「否! 私が言いたいのは、あの大地を踏みしめる立ち姿だ! なんという力強い『実存』であることか! まるで古代ギリシャの彫刻のような、力と美に満ちていた!」


ショーペンハウアー:

「……この、むっつりスケベな唯心論者め」


フィヒテ:

「貴様こそ、下劣な悲観主義者だ!」


如月 蓮:

「頼むから、俺の視神経を使って変なモンを見ないでくれませんかね!!!」

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