雨の彼方に光を
詩守 ルイ
第1話「雨の始まり」
雨は止むことを忘れたかのように、街を覆い続けていた。灰色の空から落ちる雫は、アスファルトを叩き、沈みかけた建物の壁を伝い、川のように道を流れていく。電車の音も、商店街の呼び声も、もう聞こえない。ただ、雨だけが世界を支配していた。
そんな中を、ひとりの少女が元気いっぱいに歩いていた。なぎさ――。
「わー!今日もいっぱい降ってるねぇ!まるでシャワーみたいだよー!」
彼女は破れかけた黄色い傘を片手に、濡れた石畳をぴょんぴょんと跳ねるように進んでいく。水たまりを見つけると、わざと足を突っ込んで「ちゃぷちゃぷ!」と声を上げて笑う。
街は沈みゆく。看板は半分水に浸かり、かつて賑やかだったカフェの窓には「閉店」の張り紙が雨に溶けかけていた。だが、なぎさの目にはそれすら冒険の舞台に見える。
「ねぇねぇ、ここで魚とか泳いでたりしないかなぁ?捕まえて焼いたら美味しいかも!」
彼女は空腹を思い出すたびに、そんな冗談を口にする。
遠くで、別の少女が静かにその姿を見ていた。りん――。
彼女は古びたアパートの軒下に立ち、濡れないようにフードを深くかぶっている。目の前で騒ぐなぎさを、冷めたような、それでいてどこか温かい眼差しで眺めていた。
「……元気だな」
短い言葉が、雨音に紛れて消える。
りんは本を抱えていた。ページは湿気で波打ち、文字は滲みかけている。それでも彼女は読み続ける。静かな時間を守るように。だが、なぎさの声はその静けさを破り、彼女の心に小さな波紋を広げていた。
雨の街に、二人の少女。
一人は笑い声で世界を照らし、もう一人は沈黙で世界を見守る。
その出会いは、まだ偶然のように見えた。けれど、確かに物語の始まりを告げていた。
なぎさは水たまりを蹴りながら、ふと軒下に立つりんの姿に気づいた。
「おーい!そこの人ー!雨宿りしてるのー?」
声は雨音に負けないほど大きく、りんの耳に届いた。りんは本から目を上げ、少しだけ眉をひそめる。
「……そうだな」
短い返事。だが、なぎさはそれを気にせず、ずんずん近づいてくる。
「わー、いい場所見つけたねぇ!ここなら濡れないし、本も読めるし!あ、何読んでるの?」
りんは本の表紙を見せることなく、そっと閉じた。
「小説。……退屈しのぎだ」
なぎさは目を輝かせる。
「へぇー!雨の日に本読むなんて、なんかかっこいいねぇ!あたしはねぇ、食べ物探して歩いてたんだよー!お腹すいちゃって!」
その瞬間、彼女の足が濡れた石畳に滑った。
「わわっ!」
派手に転びそうになり、傘が手から離れて宙を舞う。
りんは反射的に手を伸ばし、なぎさの腕を掴んだ。
「……危ない」
短い言葉と冷静な動作。なぎさは目を丸くして、すぐに笑顔を浮かべる。
「ありがとー!助かったぁ!りんちゃん、優しいねぇ!」
「別に……」
りんは視線を逸らすが、心の奥では少し温かいものが芽生えていた。
傘は水たまりに落ち、骨が折れてしまっていた。なぎさはそれを拾い上げて、しょんぼりと見つめる。
「うぅ……お気に入りだったのにぃ……」
りんは自分のフードを少し広げ、無言でなぎさに差し出した。
「入れ」
「えっ、いいのー?わーい!ありがとー!」
なぎさは嬉しそうにりんの隣に立ち、二人で雨をしのぐ。
街の沈みゆく音が、二人の間に静かに流れる。
なぎさの笑い声と、りんの短い言葉。
その対比が、不思議と心地よいリズムを生み出していた。
二人は軒下で肩を寄せ合い、しばらく雨を眺めていた。
なぎさは濡れた髪を手で払いながら、りんの横顔をじっと見つめる。
「ねぇねぇ、りんちゃんってさぁ、いつもそんなに静かなのー?」
「……そうだな」
「ふふっ、返事短いねぇ!でもなんか安心するんだよねぇ。落ち着いてるっていうか!」
りんは少しだけ目を細める。なぎさの無邪気さは、彼女の心に小さな灯をともすようだった。
「お前は……騒がしい」
「えへへー!よく言われるよー!でも、静かにしてると雨に負けちゃいそうでさぁ。だから声出して元気にしてるんだよー!」
なぎさの言葉は、りんの胸に響いた。雨に負けないための明るさ――それは、りんが持ち合わせていない強さだった。
沈みゆく街を見渡すと、かつての商店街の看板が水面に揺れている。
「ここ、昔は賑やかだったんだろうな」
りんがぽつりと呟く。
「うん!きっと美味しいパン屋さんとかあったんだよー!あー、食べたかったなぁ!」
なぎさは目を輝かせ、想像の中でパンを頬張る仕草をする。りんは思わず口元を緩めた。
「……お前、変わってるな」
「えー?褒めてる?けなしてる?」
「どっちでもない。ただ……面白い」
りんの言葉に、なぎさは嬉しそうに飛び跳ねる。
「やったー!りんちゃんに面白いって言われたぁ!」
その瞬間、二人の間に小さな絆が芽生えた。
雨の世界で、笑う少女と静かな少女。
互いの違いが、互いを支え合う力になる――そんな予感が、確かにあった。
遠くで、老夫婦が沈みかけた家の前でランタンを灯していた。
その光は弱々しくも温かく、二人の未来を暗示するように揺れていた。
雨は相変わらず降り続いていた。けれど、二人の足取りは軽かった。
壊れた傘を抱えたなぎさは、りんのフードの下に半分身を寄せながら歩く。
「ねぇねぇ、次はどこ行こうかー?なんか食べ物ありそうな場所、知ってる?」
「……市場跡なら、まだ何か残ってるかもしれない」
「おおー!さすがりんちゃん!頼りになるねぇ!」
沈みゆく街の中を、二人は並んで進む。
水面に映る街灯はぼんやりと揺れ、まるで過去の記憶が漂っているようだった。
なぎさはその光を指差して笑う。
「ほら、あそこ!星みたいに見えるよー!」
「……雨なのに星か」
「そうだよー!雨の星!なんか素敵じゃない?」
りんは小さく息を漏らす。笑ったのか、呆れたのか、自分でもわからなかった。
途中、沈みかけた家の前で老夫婦がランタンを灯していた。
「こんばんはー!」と元気に声をかけるなぎさに、老夫婦は微笑み返す。
その笑顔はどこか儚く、それでも温かかった。
りんはその光景を胸に刻む。人が人を支える――それが、この終末の世界で唯一残された希望なのかもしれない。
二人は再び歩き出す。雨音がリズムを刻み、足音がそれに重なる。
「ねぇりんちゃん、あたしたち、これからも一緒に歩こうねぇ!」
「……考えとく」
「えー!即答じゃないのー?」
「でも……悪くない」
りんの言葉に、なぎさは満面の笑みを浮かべた。
雨の街を進む二人の背中は、小さな光のように揺れていた。
その光はまだ弱い。けれど確かに、未来へと続いている。
――そして、週末に走る安楽死列車の汽笛が、遠くで微かに響いた。
それは世界の終わりを告げる音であり、同時に少女たちの物語の始まりを知らせる合図でもあった。
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