残業タイムラプス
小坂あと
第1話
18時19分。
「お疲れさまでーす」
「……お疲れさまです」
仕事を終え、続々と人が帰っていく。
19時21分。
未だパソコンの前から離れられない私は、キリのいいところを見つけてようやく背もたれによりかかり、ひと息ついた。
「――田代さん、合コンらしいよ」
そこへ、隣から噂好きの声が投げられる。
「そうなの?」
「うん。相手は大手企業の新入社員。ウブな年下男子を、取って食おうって作戦。がぶっ」
「とんだ妖怪じゃない……」
隣の席の
私と同じく残業組。押し付けられる仕事の多さに辟易とする不満や鬱憤を、こうして二人きりになってから好き勝手話すことで晴らす。
お供には、決まってブラックコーヒー。苦いのが苦手だという彼女は、夏はサイダー。冬はカフェオレ。秋の今は、謎におしるこ。そんなのばっかり飲んでるからぽっちゃり……とは、口が裂けても言えない。
「しっかし……年下かぁ」
「タイプなの?冴房の」
「いや。まったく。どっちかって言ったら、年上のが好き。てか、頼りになる人が好き?」
「なるほどね」
流れ的に、今日の話題は恋愛で決定。
「
「うーん……」
聞かれて、思い浮かべる。これという人物ははっきり浮かんでこないけど、ぼんやりとした好きの形が頭の中で整理されていった。
「よく、笑う人?」
「ははっ。単純」
「怒ってる人より、笑ってる人のが良いじゃない」
「確かにね。他には?」
「私が無口な方だからー……たくさん話してくれる人とか。質問攻めしてくれるくらいが、助かるかも」
「なるほどねぇ」
恋人には、癒やしを求めるタイプ。普段が生真面目故にきっちりかっちりしている私にとって、息抜きできる存在は大きい。
残念ながら、ここ数年はいないけど。
最後に付き合ったのは――え。大学3年の時か。ってことは、もう5年もいないんだ。
自覚した途端、寂しくなる。今の今まで、どうでもよかったのに。
「私のタイプはー……バカ真面目」
独り身の期間に密かな衝撃を受けている間、聞いてもないのに冴房は語り始める。私がペラペラ喋るの得意じゃないから、ありがたい。
「自分にないもの求めちゃうっていうか。堅実な人が好きかな」
「……分かる」
「はぁ、彼氏欲しー」
「ね」
一旦、そこで会話は途切れる。
しばらくカタカタ。キーボードを叩く音が響き、またキリのいいところで止まる。今日はまだまだ、帰れそうもない。
20時30分。
――というか。
冴房の好きなタイプ、私に当てはまるかも。
ふと、変な気づきに意識が向いて手を止めた。隣では、集中しているのか私の動きをまるで気にしないタイピングが続く。ちょっとイラついてるのか、エンターキーだけやたら強く叩く。
私のタイプも、わりと冴房に当てはまるかも。疲れているのか、思考はあらぬ方向へ。同性相手に私は何を考えてるんだか。
「……てか」
呆れた憶測を手放して視線を移したタイミングで、相手も思い出したようにこちらを向いた。
「知ってます?営業の三村さんとアシスタントの中野さんが、給湯室で熱烈なキスしてたの」
「え。なにそれ、知らない」
まさかのゴシップに、仕事そっちのけで耳を傾ける。こういう事ばかりしてるから、私達は残業地獄から抜け出せない。分かっていても、束の間の楽しみを欲してしまうのが人間の性というもので。
「もうね、ぐっちょんぐっちょんのれろんれろんで」
「なんか汚いわね、その擬音」
「とにかく濃厚も濃厚。通りかかった事務員にバレて厳重注意くらったとか」
「でしょうね。それでお咎めなしの方が怖いわ」
「もはや始まる一歩手前だったらしいですよ。やばくない?」
「やばい」
職場で無我夢中になれるのも、すごい。さらに深堀りしてみれば、人が多く行き交う昼時にしていたというんだから、恐ろしい。見方を変えれば、スキャンダルに見せかけたホラーだった。
新手のヒトコワ、人間の欲望は怖いねって話した後で、
「はぁ、キスしたい」
冴房が爆弾を落とした。……でもまぁ、正直同感。
他人の目も気にならなくなるほどの、熱情。それはそれは気持ちいいんだろうな、とか思っちゃう。恋とは無縁の生活を送りすぎて、ついに欲求不満にでもなったか。
いよいよ自分の寂しさに危機感を覚え始める。給湯室でのキスを羨ましがるとか、正気じゃない。
自己嫌悪に陥る私の横で、冴房もまた項垂れていた。
「もう何年してないんだろ……」
「キス?」
「うん。彼氏とか、作る暇なくない?この職場。てか私達」
「ない」
あったら、今頃ここにいない。
結局、今日も今日とて残っているのは私たちだけ。静まり返ったオフィスで、一部はもう消灯までされ、薄暗くなっている。この静けさがまた、心に孤独を運ぶのかも。
「……今、人いませんね」
「そうね」
冴房はキョロキョロ周囲を見回し、最後に私をじっと見つめた。私はパソコンを触るフリで、横目で確認する。
「キスします?」
「……は?」
「今なら、給湯室もガラ空きですよ」
「多忙に脳細胞焼かれた?」
何を言い出すかと思えば、この女……呆れかえって言葉を失っていたら、どうやら冗談でもなんでもないらしい。赤く染まった頬が、緊張と羞恥を伝えていた。
彼女もまた、耐えられない孤独に正気を失ったか。あるいは――私が好きとか?
「え。いや、嘘でしょ?」
「だって他にいないんですもん」
「だからって血迷いすぎ。それに、仕方なくで選ばれるのも複雑なんだけど」
そもそも、女もイケるの?と聞けば。
「まぁ……水瀬なら、ギリ。他は無理」
「ギリって」
できるんだ。
意外な事実に驚きつつ、本当にキスする流れになりそうで戸惑う。ただの残業で終わる予定だったはずが、どうしてこうなった。
冴房は本気なようで、断られないかと不安げに眉を垂らす。そう可哀想な顔をされてしまうと、良心が痛んで断りにくい。私ってやつは、これだから。人の業務まで背負うからこその残業なのに、まさか欲求不満なお願いまでされるハメになるとは。
まぁ、ぶっちゃけしたくないかで言えば、全然してもいいというか。したいというか。
だって何年も……それに加えて、冴房がわりとタイプに該当すると、つい先ほど気が付いてしまったばっかりに。
「……する?」
私も私で、疲労が溜まりすぎて思考回路がおかしくなってたのかもしれない。……いや、おかしかった。完全に。
「あ。ちょっと、待って。これ終わってから」
「私も」
まだ残る冷静さのおかげで、過ちは遠ざかる。
21時15分。
落ち着きなく業務を進め、せめてここまではというところまで済ませてから電源を落とした。同じくらいのタイミングで、冴房も作業を終えて荷物をまとめる。
「終わった?」
「……う、うん」
「帰る?」
「……給湯室、寄ってから」
先に準備万端だった私が声をかけると、彼女はいつにないしおらしさで返事をする。
給湯室――わざわざ用もないのに寄るってことは、そこでしたいってこと、だよね。歩きながら隣を見下ろすと、頬に汗を浮かべた冴房は肩にかけた鞄の紐をぎゅっと握っていた。
そんなにもあからさまに意識されてしまうと、こっちまで緊張してくる。同時に、ふざけて言ったわけじゃなかったんだと再度理解して、ますます引くに引けなくなった。
私達が去ると、オフィスからは完全に人の気配がなくなり、耳が痛いほどの静けさに包まれる。
「本当に、いいの」
「……水瀬が、やじゃなければ」
「嫌なわけは、ないんだけど」
21時21分。
移動した給湯室。
人ふたりすれ違うのがやっとの空間で、壁際に相手を追い詰め、身を寄せた。冴房は、不思議と愛らしく見えてしまう上目使いで見つめてくる。
「ちな、バレたら、減給だよ?水瀬さん」
「この時間に、人がいると思ってる?」
「ふふ、言えてる」
「残業組の、特権ってことで」
緊張を解そうとした軽口には意味不明な言い訳で縋って、距離を詰めた。
迫るごとに潤んだ瞳が、長いまつ毛によって隠される。
通るはずもない人を警戒し、息を潜めて、想像以上に柔らかな唇へ触れた。
キス自体が久しぶりだったせいか、相手が冴房だからか。こんなにもドキドキしたかなと、初々しい感情が胸の内で暴れだす。じんわりと汗ばんだ手のひら同士が、自然と互いを求めて引っ付き合った。
「柔らかすぎ……」
「え、へへ。褒められた」
「いや、困る」
参った私に、冴房の表情が曇る。
「癖になりそう」
それも、すぐ溶ける。誤解だと分かり気が抜けたんだろう、「ややこしい言い方しないで」と肩を叩かれた。私は、「やめられなくなったらどうするの」と苦笑を返した。
「癖になってくれなきゃ、困る」
「え?」
「だって」
するりと、首の後ろに腕が回った。甘え上手なのは、異性にモテてきた女の名残りなんだろう。
「まだまだ……してもらうつもりだから」
職場で好きな女の子と熱烈なキスを交わし、襲う寸前だった三村の気持ちが、今ならわかる気がする。
これは、理性も崩壊する。人工的な灰色が並ぶビル群の中、本能的で野性的な愛が芽生えそうになっていた。否、すでに芽吹いて花を咲かせている。
「明日も、明後日も……したくなって」
「……明日からの残業が楽しみになりそう」
「ふは。動機が不純すぎる」
21時32分。
彼女の好みである“真面目”を捨て、没頭した翌日。
「冴房さんの、好きなタイプなんすか」
「ん-……」
後輩男に、話題がてら探りを入れられた彼女は、
「真面目な上に……優しくて大胆な人」
いくつか、項目を追加していた。
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