狂気の片鱗

次の日の朝。


 目が覚めた瞬間、天井のシミを数える癖は、まだ治っていなかった。


 黄ばんだ白。

 どうでもいいシミ。


 胸の奥で数字をひとつ足す。


 継続日数、121→122。


「……行くか」


 ジャージに着替えて、外へ出る。

 冬の空気は相変わらず刺さるけど、走り出せば身体は温まる。

 この“手順”だけは、俺の中でぶれない。


 ――ぶれないはずだった。


 家の角を曲がったところで、視界の端に影があった。


 立っている。


 制服の上にマフラー。

 両手を袖の中に隠して、息を白くして。


 雪村澪が。


 こんな時間に。

 こんな場所に。


 俺の足が、無意識に止まった。


「……何してんだ」


 澪は俺を見る。

 いつもの“ちゃんとしてる顔”のまま、でも目だけがやけにまっすぐで、濃い。


「待ってた」


 当たり前みたいに言う。


「……なんで」


「霧島くん、朝、走るから」


 知ってる、じゃない。

 “だから待つ”がセットになってる。


 澪は鞄から小さな紙を出して差し出した。

 折り目がきっちり。几帳面な四つ折り。


 そこに一行。


 『今朝も 確保』


 俺は受け取って、紙の角で指先が少しだけ冷たくなるのを感じた。


「学校で言えばいいだろ」


「学校まで、長い」


 澪の返事が速すぎる。

 考えて答えてない。もう決まってる返事。


「……お前、家からここまで来たのか」


「うん」


 平然としてる。

 “やったこと”の重さと釣り合ってない声。


 俺は喉の奥で言葉を探した。


 やめろ。

 危ない。

 それは違う。


 でも、口に出す前に、澪が言った。


「今日、走るの、見送るだけ」


「見送るって……」


「走ってる間、私、落ちないから」


 落ちない。

 その言い方が、もう合図みたいになってる。


 俺はそれ以上言えなくなって、代わりに視線を逸らして息を吐いた。


「……寒いだろ。帰れ」


「帰る。霧島くんが走り始めたら」


 条件付きの帰宅。

 俺が動けば、澪も動く。


 俺は歯を噛んだ。


 走り出す。


 足音が地面に響く。

 呼吸が整っていくはずなのに、今日は逆だった。

 走れば走るほど、背中の方が気になった。


 ――見られてる。


 確認じゃない。

 監視だ。


 振り返らないまま、公園の角を曲がる。

 胸の奥が、変にざわついたままだった。


 *


 学校。


 机の中を開けると、昨日のメモの紙が増えていた。

 “確保”の紙は一枚だけじゃなかった。


 薄い紙が、三枚。


 ・『今日 放課後 五分』

 ・『道場の前でもいい』

 ・『朝 見送った だから大丈夫』


 “だから大丈夫”。


 何が大丈夫なんだよ。


 俺は紙をまとめて折って、ノートの間に挟んだ。

 隠す動作が、もう癖になりかけてる。


 ホームルームが始まる前、澪が席を立った。

 まっすぐこっちへ来る。


 この数日、澪の“近さ”が、もう普通になってるのが怖い。


「霧島くん」


「……朝のやつ」


 俺が先に言うと、澪は一瞬だけまばたきをした。


「見送った」


 訂正じゃない。報告だ。


「やめろ。そんなこと」


 なるべく低い声で言った。

 誰にも聞かれないように。澪を刺激しないように。


 澪は、笑わない。


「やめない」


 即答。


 あまりにも迷いがなくて、俺の言葉の方が薄くなる。


「……危ないだろ」


「危なくない。霧島くんの家、ここから近い」


「近いとかじゃなくて」


「私は、落ちないために必要だった」


 澪の目が、じっと俺を捉える。


「霧島くんが走ってるの見たら、今日一日、持つと思った」


 持つ。

 澪は自分の状態を“耐久値”みたいに言う。


 俺の胸の奥が、嫌な形で満たされそうになる。


 必要とされてる。

 役に立ってる。


 その感覚が、どこか気持ちいい。


 だから余計に、怖い。


「放課後、五分な」


 俺が言うと、澪の表情がほどける。

 ほどけ方が、助かった人のそれだ。


「うん。五分」


 そして澪は、さらに言った。


「でも、今日は……走るのも、確保したい」


 俺は言葉を失った。


「は?」


「明日からでいい。……でも、できれば今日、約束だけ」


 約束だけ。

 その言い方が、もう上手い。


 “約束だけ”って言いながら、確保する気満々だ。


「無理」


 俺は即答した。

 即答しないと、引きずられる。


 澪の顔が、すっと白くなる。


 ほんの一瞬で、呼吸が浅くなる。


 これだ。


 俺が線を引くと、澪の身体が先に反応する。

 頭じゃなく、身体が。


 澪は小さく言った。


「……じゃあ、私は明日、また待つ」


 “なら諦める”じゃない。

 “別のルートで確保する”。


 俺の背中が冷えた。


「待つな」


「待つ」


 澪は目を逸らさない。


「待たないと、霧島くん、逃げるから」


 ……逃げる?


 俺は言い返せなかった。

 言い返した瞬間、澪の中で“俺が逃げる”が事実になる気がした。


 それが怖くて。


 俺は、やっちゃいけない譲歩をする。


「……走るのは、無理。でも」


 澪の瞳が、ぱっと光る。


 俺は自分で分かる。

 今、押し負けた。


「明日、朝は……待つな。代わりに、放課後に五分、ちゃんと取る」


 澪はそれを“取引”として受け取った。


「確保?」


「……確保」


 言ってしまった。


 澪が、小さく頷いた。


「じゃあ、明日は待たない」


 あっさり。

 俺が差し出したものだけを、正確に回収する。


 そして、最後に。


「ありがとう、霧島くん」


 澪はそう言って、何事もなかったみたいに席へ戻った。


 俺だけが、胸の奥に変な熱を抱えたまま、取り残された。


 *


 放課後。


 五分の時間は、もう儀式みたいになっていた。


 委員会がない日でも、澪は理由を作って残る。

 先生にプリントのことで質問。

 掲示物の確認。

 “ちゃんとしてる子”のまま、抜け道を作るのが上手い。


 教室が空く。

 蛍光灯の音だけが残る。


 澪が座る。

 俺も座る。


 澪は手帳を出して、開きかけて、閉じて、俺に差し出した。


「預ける」


 もう丁寧さがない。

 必要だからやる、だけになってる。


 俺は受け取った。


「……今日、朝のこと、怒ってる?」


 澪が聞いてくる。


「怒ってない。困ってる」


「困らないで」


 澪はすぐに言う。


「霧島くんが困ると、私が落ちる」


 ……そう言うんだよな。


 俺が言葉を探していると、澪が机の上に指を置いた。

 指先が、少しだけ震えている。


「霧島くん、今日、ちゃんと見た」


「見た?」


「朝、走り始めたところ。……それで持つって思ったけど」


 澪が目を伏せる。


「やっぱり、足りない」


 足りない。


 その一言に、背筋がひやっとした。

 五分が、薬みたいになってる。


 澪は、ぽつりと言った。


「私、一人で五分やると、霧島くんのこと考えると落ち着く」


 昨日聞いたやつだ。

 でも今日は、続きがある。


「……落ち着くのが、気持ち悪い」


 澪の声が、ほんの少しだけ歪む。


「私、空白を作りたいんじゃなくて……霧島くんを、頭の中に置いておきたいだけになってる」


 自覚してる。

 自覚してるのに止まらない。


 澪は顔を上げて、まっすぐ俺を見る。


「だから、霧島くんを“現物”で置いておきたい」


 言い方が、静かすぎて怖い。


 俺は笑えなかった。

 冗談にして逃げることができない温度だった。


「澪、それ――」


 俺が言いかけると、澪はすぐ被せてくる。


「霧島くん、逃げないで」


 同じ言葉。

 朝のやつ。


 澪は続けた。


「逃げるって言わないで。逃げないって言って」


 ……言わせたいんだ。


 言質。

 言葉にした瞬間、縛れる。


 俺は分かってる。

 分かってるのに、口が動く。


「……逃げない」


 言ってしまった。


 澪の顔が、ほどける。

 ほどけて、その奥に一瞬だけ、勝ったみたいな影が走る。


 それが怖いのに。


 俺は、否定できない。


 澪は小さく息を吐く。


「よかった」


 そして、当たり前みたいに言う。


「じゃあ、明日も五分」


 俺は反射で「明日のことは明日」と言いかけて――飲み込んだ。


 飲み込んだ理由は、澪の顔がもう“落ちる前”だったから。


 俺は自分で分かる。


 俺はもう、澪の表情を見て判断してる。

 澪の呼吸を見て、線を引く位置を変えてる。


 つまり。


 俺の方が、澪に合わせて壊れていってる。


 俺は、声を落として言った。


「……明日も、五分」


 言った瞬間、澪の呼吸が戻る。


 その戻り方を見て、俺はまた思ってしまう。


 ――俺がいれば、戻る。


 その“成功体験”が、俺を押し流す。


 *


 家に帰ると、母が台所から顔を出した。


「最近、帰り、遅い日増えた?」


「委員会とか」


「ふーん」


 母は、それ以上は聞かない。

 聞かれたら、俺は多分、答えられないから助かる。


 風呂に入って、机に向かう。


 ノートを開く。


 ・朝ラン ○

 ・筋トレ ○

 ・勉強 ○

 ・道場 ○

 ・スキンケア ○


 今日はそこに、書きたくない行が増える。


 ・澪の“確保”に押し負けた △

・「逃げない」と言ってしまった △


 丸はつけない。

 バツもつけない。


 胸の奥で数字を確認する。


 継続日数、122。


 天井を見る。


 黄ばんだ白。

 どうでもいいシミ。


 でも今日は、どうでもよくないことが残っている。


 澪の言葉。


『霧島くんを“現物”で置いておきたい』


 そして、それに対して俺がした返事。


『逃げない』


 ――言葉は、縛る。


 縛られるのは澪じゃない。

 俺だ。


 目を閉じる。


 明日の朝、角を曲がったら、澪がまた立っていたら?


 俺は「待つな」と言えるのか。

 言って、澪が落ちたら、俺は耐えられるのか。


 答えのないまま、俺は呼吸を整えようとした。


 でも、その呼吸の中に、もう澪が混じっている気がして――

 それが、少しだけ怖かった。

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