定期テスト

三週間達成の翌朝も、やっぱり目覚ましが鳴る前に目が覚めた。


 天井。

 黄ばんだ白。

 どうでもいいシミ。


 見上げる景色は、何一つ変わってない。


 でも、布団の中の俺の「前提」は、もうだいぶ違っていた。


 ――今日は、やるか、やらないか。


 じゃなくて。


 ――今日は、何をどこまでやるか。


 考えるのは、もうそこからだった。


 胸の奥で、数字をひとつ足す。


 継続日数、22→23。


 体を起こす。

 筋肉の張りは相変わらずあるけど、その痛みはもう、「昨日までの俺からのバトン」みたいな感覚になっていた。


 布団から足を出す。

 ため息じゃなくて、呼吸をひとつ吐いてから立ち上がる。


 「……行くか」


 それが、いつもの朝一番のセリフになりつつあった。


 *


 ジャージに着替えて階段を降りると、台所から味噌汁の匂いがした。


 「おはよー」


 「おはよ。……はいはい、今日も走る人」


 母は、もう完全に「走る前提」で話してくる。


 「いや、たまにはサボるかもよ?」


 「三週間も続いた人が、簡単にはサボらないでしょ」


 コーヒーカップを片手に、さらっと言う。


 「……三週間、見てたわけだしね」


 「見てたよ。毎朝ドタドタ音してたし」


 母はそう言いながら、こっちにご飯茶碗を向けてくる。


 「帰ってきたらすぐ食べられるようにしとくから。……転ぶなよ」


 「はいはい」


 玄関のドアを開ける。


 まだ少し冷たいけど、もう「冬の冷たさ」ではない。

 走らなかった頃なら、ただの「嫌な寒さ」で終わってた感覚が、今はウォーミングアップみたいな位置づけになっている。


 いつものルートを走りながら、今日の予定をざっと頭の中で並べる。


 ――朝ラン。

  授業。

  放課後は道場。

  夜はテスト勉強、二時間。


 テスト勉強。


 そこに、今までなかった「重さ」が乗っかっている。


 *


 教室に入ると、黒板の左端に大きくチョークで書かれた文字が目に入った。


 『定期テスト 二週間後』


 「うわ、マジかよ」

 「最悪だー」


 あちこちからうめき声が上がる。


 担任が入ってきて、出席をとったあと、黒板を軽く叩いた。


 「はい、見ての通り。二週間後、定期テストやるからなー」


 そう言って、テスト範囲が書かれたプリントを配り始める。


 その光景を見ながら、胸の奥がひやっとした。


 ――来た。


 ここだ。


 前の人生で、確かに「最初の大きな分岐」になった場所。


 中学のこのあたりで、俺は本気で勉強したことがなかった。

 テスト前にちょっと教科書を眺めて、「まあなんとかなんだろ」で突っ込んで、

 見事に「なんともならなかった」側の人間だ。


 その結果が、そのまま高校受験にまで尾を引いていった。


 四十歳の俺が、

 「中学の定期テストって、人生の分かれ目だよな」と気づいたのは、だいぶ後になってからだった。


 今、その分かれ目が目の前にある。


 担任がプリントを配り終えて、淡々と説明していく。


 「今回はこの辺までな。で、数学と英語は配点ちょっと高めにするから、しっかり復習しとけ」


 プリントの「数学」の欄を見て、思わず口の端が上がる。


 ――ここ、全部、最近やったとこじゃん。


 小テストのために潰してきた範囲が、そのまま本番のテスト範囲の中心になっていた。


 「霧島、なんかニヤニヤしてね?」


 前の席の佐々木が、振り向きながら小声で言う。


 「してねえよ」


 「絶対、今『勝ったな』とか思ってただろ」


 図星すぎて、何も言い返せなかった。


 *


 テスト二週間前からの生活は、少しだけ配分が変わった。


 朝ランとスキンケアは、そのまま。

 筋トレは、回数を少しだけ減らす代わりに、勉強時間を増やす。


 道場の日は、帰ってからの勉強を一時間半にして、他の日は二時間は必ず机に向かう。


 「根性で徹夜」とか、「一夜漬け」みたいなことはしない。


 四十歳までに嫌というほど味わったから分かる。

 睡眠削って勉強しても、結局効率が落ちて、テスト本番でミスるだけだ。


 「どうした、霧島」


 放課後、教室でワークを開いていると、担任が通りすがりに声をかけてきた。


 「いや、テスト前なんで」


 「お前がそうやって先にワーク開いてると、他のやつも真似するから助かるわ」


 そう言って笑う。


 四十歳の俺だったら、絶対にかけられなかった言葉だ。


 誰にも期待されず、誰にも頼られず、誰の参考にもならない生き方。


 今、十四歳の俺は、その真逆をやろうとしている。


 *


 テスト一週間前。


 昼休みの教室。


 机の上には、そこそこ分厚い英語のワークとノート。


 「霧島ー、その三単現のとこ、もう一回教えて」


 後ろから女子の声が飛んできて、俺の机にノートが滑り込んでくる。


 「えっとね、ここは主語が三人称単数だから――」


 ペンで主語に線を引きながら説明すると、「あー、そういうことか」と声が重なる。


 いつの間にか、机の周りには二、三人の女子と、佐々木を含めた男子が集まっていた。


 「この熟語の意味、覚え方ない?」


 「ここ、ノートどうまとめてる?」


 質問が飛んでくるたびに、自分が理解しているつもりだったところの穴が見つかる。


 説明しながら、「あ、そこちゃんと覚えてなかったわ」と内心で冷や汗をかく瞬間もある。


 だけど、その分だけ頭に定着する。


 ――教えるって、本当に勉強なんだな。


 四十歳のとき、本で読んで「ふーん」で終わらせてたことを、今、やっと自分の手で実感している。


 教室の前の方で、数人の女子がちらっとこっちを見て、何かひそひそ話して笑っている。


 その視線に、少しだけ背中がむずがゆくなる。


 別に、いきなりモテてるわけじゃない。

 大声で名前を呼ばれるわけでも、ラブレターをもらうわけでもない。


 ただ、「霧島」という存在が、教室という箱の中で、ちゃんと「見える場所」に置かれ始めている。


 それだけで、前の人生の俺からしたら、十分すぎるくらい非日常だった。


 *


 そして、テスト当日が来た。


 黒板の上には、いつもの日付の横に小さく「定期テスト1日目」の文字。


 教室の空気が、いつもより少しだけ重い。


 配られた問題用紙から、鉛筆の匂いがした。


 最初の科目は、数学。


 「はい、始め」


 先生の合図と同時に、教室中で一斉に紙がめくられる。


 ざっと全体を眺める。


 一次関数。連立方程式。文章題。


 「……よし」


 声には出さず、心の中で呟く。


 見たことのある形。

 ノートとワークの中で、一回は殴り合ったやつらばかりだ。


 四十歳の俺は、試験のたびに「見たことない問題が出ませんように」と祈っていた。


 十四歳の今は、「見たことある問題で固めた状態で本番に来た」っていう事実そのものが、もうご褒美みたいなものだった。


 最初の計算問題を、落ち着いて片付けていく。


 途中で、手が止まりそうになる。


 「やべ、このパターンなんだっけ」


 焦りが喉の奥まで上がりかけたところで前に自分に言い聞かせた言葉が浮かんだ。


 ――焦ったときほど、字をゆっくり。


 わざと一息ついて、ノートの余白に小さく図を書き直す。


 線を引いて、数字を整理して、パターンを思い出していく。


 「ああ、これか」


 頭の中の引き出しから、ちゃんと答えが出てきたときの安心感。


 前の俺なら、その引き出し自体がスカスカだった。


 今は、とりあえず「探せば何か入ってる」状態にはなっている。


 最後の大問までたどり着いたとき、時計を見る。


 まだ、少しだけ余裕がある。


 全部の問題を見直す。

 符号のミス、桁のズレ、写し間違い。


 そういう「しょうもないミス」で点を落としてきた過去が、腐るほどあるからこそ、ここだけは丁寧にやる。


 「はい、そこまで」


 先生の声が響いた瞬間、鉛筆を止めた。


 紙を回収されていく間、教室中から小さなため息と「やべー」「死んだ」という声が漏れてくる。


 俺の胸の中にあるのは、そのどれとも違う感覚だった。


 「……やれることは、やった」


 それだけは、自信を持って言えた。


 *


 テストは二日間。


 数学の他に、国語、英語、理科、社会。


 全部で五科目。


 どれも「完璧」とまではいかない。

 英語の長文で時間がギリギリになったし、理科の記述はあやふやなところもあった。


 それでも、少なくとも前の人生の自分と比べたら、別人レベルで戦えている手応えがあった。


 ――これでダメなら、それはそれで受け止めるだけだ。


 そう思えるくらいには、ここ数週間で「やった量」が積み上がっている。


 テストが終わった次の日。


 いつも通り朝走って、いつも通り学校に行く。


 テストが終わったからって、朝ランをやめる理由にはならない。


 むしろ、こういう「気が緩みやすいタイミング」でサボらないことが、四十歳の俺目線で言うと一番重要だった。


 *


 結果が返ってきたのは、一週間後だった。


 「テストの結果、今日返すからなー」


 担任のその一言で、教室の空気が一気にざわつく。


 「終わった……」

 「マジ見たくねえ」


 そんな声を横目に、俺は心臓の鼓動を数えていた。


 一枚目、数学。


 「はい、後ろに回せー。見るなよ、まだ見るなよ」


 先生がプリントの束を配っていく。


 自分の名前が書かれた紙が、手元に滑り込んできた。


 右上の赤い数字が、視界に飛び込んでくる。


 ――96。


 息が止まりかけた。


 前に取った小テストの98点とは、意味が違う。


 配点も問題数も多い、本番のテストで、この数字。


 数学の次は英語。


 89点。


 「くっそ、あと一問……」


 思わず小さく舌打ちしそうになったが、前の人生の俺が聞いたら土下座して感謝するレベルの点数だ。


 理科、86点。社会、90点。国語、82点。


 合計点を計算する。


 ――443点。


 五教科で、443点。


 四十歳の俺の記憶の中にある「中学時代の最高得点」とは、もはや別物だった。


 「じゃ、上から何人かだけ発表するぞー」


 担任が、教卓の前で紙を揺らしながら言う。


 「やめてくれー」

 「そういうのいいから!」


 教室から悲鳴が上がるが、先生は容赦がない。


 「今回、四百点超えがこのクラスは六人だな。……まず、三位、421点、○○。二位、435点、□□」


 名前が呼ばれるたびに、教室のあちこちから視線と歓声が飛ぶ。


 そして。


 「一位。443点――霧島」


 一瞬、教室の空気が止まった。


 「……は?」


 自分の口から出た声が、最初にそれを否定した。


 その直後、前の席からイスを引く音がして、佐々木が振り向いた。


 「お前かよ!」


 「いや、俺も今知った」


 「は? だってお前、前回――」


 前回の点数を言いかけて、佐々木は言葉を飲み込む。

 たぶん、あまり人に言いたくないレベルだったのを覚えていてくれたのだろう。


 教室のあちこちから、「え、霧島?」「マジで?」という声が聞こえる。


 前の方の女子グループからも、驚いたような視線が飛んできた。


 「霧島って、そんな頭良かったっけ」


 「最近、なんか頑張ってるらしいよ」


 ひそひそ話が、耳の端っこに入ってくる。


 担任が、こっちを見てニヤリと笑った。


 「霧島。……よくやったな」


 「……はい」


 短く返事をする。


 胸の奥が、ぐわっと熱くなる。


 四十歳になるまでの人生で、「よくやったな」って言葉を、正面から受け取った記憶がどれくらいあっただろう。


 思い出そうとして、すぐ諦めた。

 数えるほどどころか、ほぼゼロだったからだ。


 「『急に頭良くなった』と思うかもしれないけどな」


 先生は教室全体を見回しながら言う。


 「急になんて、基本的にはない。テスト前、こいつが放課後に残ってワークやってんの、何回も見てるからな」


 何人かの視線が、またこっちに集まる。


 妙な居心地の悪さと、たまらない心地よさが同時に押し寄せてきて、体の中で行き場を失っていた。


 ――これが、「ちゃんと頑張った分の結果」ってやつか。


 頭の中で、四十歳の俺がゆっくり拍手している姿が浮かんだ。


 遅すぎるけど、悪くないスタートだ、と。


 *


 家に帰ると、母が台所で夕飯の準備をしていた。


 「ただいま」


 「あ、おかえり。テスト返ってきた?」


 「……返ってきた」


 「顔、悪くないじゃん。何点だった?」


 お玉を持ったまま、期待半分、不安半分って顔で振り向いてくる。


 カバンからテストの束を取り出して、テーブルの上にぱさっと置いた。


 上から順番に、点数が見えるように並べる。


 数学96点。英語89点。理科86点。社会90点。国語82点。


 「合計、443」


 口に出すと、あらためて実感が湧いた。


 母はしばらく無言のまま、紙から目を離さなかった。


 「……ちょっと待って。これ、うちの子のテストで合ってる?」


 「名前見てよ」


 「霧島……灯……あ、合ってるわ」


 あまりに真顔で確認するから、思わず笑ってしまった。


 「すご……」


 母が、小さく呟いた。


 「いや、すご。普通にすごいでしょ、これ」


 お玉をテーブルに置いて、もう一度数学のテストを持ち上げる。


 「灯、中学入ってから、こんな点数取ったことあったっけ」


「ない」


 即答だった。


 「すごいね……ちゃんとやれば、こんなに取れるんだね」


 その言い方が、何かを思い出したような響きを含んでいて、胸がちくりとした。


 ――『あのときちゃんとやってれば』って言ってたお父さん。


 五日目の朝、味噌汁を啜りながら母が話してくれた言葉が、頭の中で蘇る。


 「あんた、変わったね」


 母が、テストを持ったまま、ぽつりと言った。


 「顔もそうだけどさ。……なんか、“ちゃんとやった人の顔”になってきた」


 「そんな顔あんの?」


 「あるよ。お母さんだって、昔はちょっとだけ頑張った時期があるんだから」


 冗談めかして笑うけど、目の端は少しだけ赤くなっていた。


 「……頑張った分が、ちゃんと数字に出るのって、いいね」


 「うん」


 「なんか、お母さんまで嬉しくなるわ」


 それを聞いた瞬間、四十歳の俺が胸の奥で小さくうずくまった。


 ――もっと早く、こうしてやれたらよかったのにな。


 間に合わなかった後悔と、今さら間に合わせている現実が、変な形で入り混じる。


 でも、そのぐちゃぐちゃを抱えたままでも、今の母の顔を見られるなら、それでいいと思った。


 「夕飯、ちょっと豪華にしよっか」


 「わ、やった」


 「……って言っても、ちょっと唐揚げ増やすくらいだけどね」


 「それで十分」


 笑い合いながら、テストをまとめてクリアファイルに入れる。


 四十歳の俺の部屋には、誇れる成績表なんて一枚もなかった。


 十四歳の今、初めて「とっておきたい紙切れ」ができた。


 *


 夜。


 いつも通り風呂に入り、スキンケアを終えて、机に向かう。


 「テスト終わったし、今日はいいか」と一瞬だけ思いかけて、

 「いや、一問だけでいいから」と数学の問題集を開いた。


 「テストのご褒美に休む」のは、前の俺が何度もやってきたパターンだ。


 そこから、一日が二日になり、三日になり――気づけば「元通り」に戻っている。


 だから、今日はむしろ「やった」と書いておく側にいたかった。


 ノートの「継続記録」のページを開く。


 ・朝ラン

 ・筋トレ

 ・道場(休館日)→自宅で素振り

 ・勉強1時間(テスト直し)

 ・スキンケア


 全部○を書き込む。


 その下に、小さく一行、付け足した。


 『定期テスト 五教科443点 クラス一位』


 日記みたいな文だけど、たぶんこういうのをちゃんと文字にしておくのが大事なんだと思う。


 「ここまでが、本当に“最初のボス戦”って感じか」


 呟いてから、自分で少し笑った。


 最初の三週間は、ただのチュートリアル。


 走ること。

 勉強すること。

 道場でしごかれること。

 自分の体をちゃんと扱うこと。


 その全部を「当たり前」にするための、地味で長い草むら狩り。


 今日のテストは、そのチュートリアルを終えてからの、最初の「ボス戦」だった。


 ちゃんと準備して、ちゃんと戦って、ちゃんと勝てた。


 「……悪くないな、二度目の人生」


 天井を見上げながらそう呟いて、布団に潜る。


 まだ、ヒロインもいない。

 ドラマチックな出会いも、告白も、何もない。


 でも、この教室の中で「霧島灯」という存在が、少しずつ輪郭を持ち始めているのは確かだ。


 四十歳まで、「空気」みたいに生きてきた男が、

 十四歳の今、やっと一人の人間としての「立ち位置」を取りにいっている。


 胸の奥で、今日も数字をひとつ足す。


 継続日数、29→30。

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