三日坊主
感覚
目が覚めたとき、反射的に天井を見上げた。
黄ばんだ白。
どうでもいい形のシミ。
布団の匂い。
遠くから聞こえる、テレビと食器の音。
――続いてる。
胸の奥で、ふっと何かがほどける。
さすがに三日目ともなると、「四十歳のアパートで目覚める」悪夢を真っ先に想像することはなくなってきた。
けれど、完全に疑いが消えたわけでもない。
夢なのか、現実なのか。
それを決定的に証明する方法はない。
あるのは、「今日も続いてほしい」という願望だけだ。
上体を起こそうとして、予想通り全身から抗議の声が上がる。
「……っ、あー……これよ」
筋肉痛。
腕、肩、太もも、腹筋。
昨日より少しマシになった気もするし、別の場所が新しく痛んでいる気もする。
嫌な痛みじゃない。
生きている感じのする痛みだ。
「三日目、だな」
口に出すと、その言葉にはっきりとした重みが宿った気がした。
三日坊主の「三日目」。
ここで折れるか、越えるか。
四十歳まで生きた俺は、その分かれ目を何度も越えられずに生きてきた。
ダイエット。勉強。筋トレ。早起き。
「やる」と宣言して、三日目あたりで自然消滅させてきたものが、山ほどある。
今日を越えられれば、きっと何かが変わる。
そう思うと、体のだるさよりも先に、胸の奥のざわめきの方が大きくなった。
*
顔を洗いに洗面所へ行く途中、ふと足を止めた。
――走るか、朝。
昨日までの俺なら、「そんなの続くわけない」と笑ってやめていただろう。
でも今日の俺は、ほんの少しだけ違う。
「……一周だけ」
自分に甘い条件を出す。
学校のグラウンドを走るわけじゃない。
家の近所を、家の周り一周だけでいい。
それでも「ゼロ」と「一周」は、天と地ほど違う。
洗面所で顔を洗い、歯を磨き、髪を整える。
パジャマのままじゃ走れないので、ジャージの上下に着替えた。
階段を降りると、キッチンから母の声が飛んできた。
「灯? もう起きてたの?」
「うん。ちょっと、走ってくる」
「え?」
母が顔を出す。
エプロンをつけたまま、目を丸くしている。
「……走る?」
「家の周り一周だけ」
「なにそれ、健康番組でも見た?」
「まあ、そんな感じ」
適当に笑ってごまかす。
母は一瞬ぽかんとしてから、ふっと表情を和らげた。
「転ばないようにね。車にも気をつけなさいよ」
「分かってる」
玄関で靴を履き、ドアを開ける。
外の空気は、思ったより冷たかった。
まだ太陽は低く、空の色も完全に青くはなりきっていない。
近所の家々の窓は、まだ半分くらいが眠っている。
新聞配達のバイクの音だけが、遠くで響いている。
「……行くか」
軽くストレッチをしてから、ゆっくり走り出した。
全力ではない。
ジョギングとウォーキングの中間くらいの速度。
アスファルトを蹴るたびに、古いスニーカーのクッションが頼りなく沈む。
肺に入ってくる空気が冷たくて、少しだけ胸が苦しい。
でも、悪くない。
通学路とはまた違う、「朝の街」がそこにあった。
シャッターの閉まった商店。
まだカーテンの閉じた家。
庭先でゆっくり歩いている猫。
いつもなら布団の中でスマホをいじっていた時間帯の風景だ。
たった家の周り一周――それだけのことなのに、自分の生活圏の見え方が少し変わる。
腕時計もスマホも持っていない。
タイムなんか計らない。
ただ、自分の足音と呼吸だけを聞きながら、ぐるっと家の周りを回ってみる。
ぐるりと一周して、玄関の前に戻ってきたとき、軽く息が上がっていた。
「……っしゃ」
小さくガッツポーズをする。
ほんの五分か十分。
それでも、これで「今朝走った人間」と「何もしていない人間」という差が生まれた。
その差は小さい。
誰も気づかない。
でも、明日、明後日と積み上がっていけば、必ずどこかで形になる。
そう信じたい。
*
朝食のとき、母がじっと俺の顔を見てきた。
「……なに」
「いや、なんか。肌、ちょっときれいになった?」
「……まだ二日目だぞ、スキンケア」
「そう? 気のせいかなあ。でも、なんか違う気がするのよね」
母は首をかしげながらも、どこか嬉しそうだった。
正直、二日スキンケアしたくらいで目に見える変化はない。
でも、「そう見える」ってことは、きっと雰囲気が少し変わったのかもしれない。
髪を整えていること。
姿勢を少し意識していること。
目の奥に、ほんの少しだけ「諦めてない色」が戻ってきていること。
そういう積み重ねが、第三者には「なんか違う」に見えるのだろう。
「いいことだわ。ちゃんとしてる男は、それだけで得だからね」
「得、ねえ」
「そりゃそうよ。第一印象で損するのは、もったいないでしょ」
四十歳の俺は、その「第一印象の損」をずっと引きずって生きてきた。
服装。髪型。姿勢。表情。
どれも「マイナスではないけど、プラスでもない」ところで止まっていた。
今度は、最初からプラスを積みにいく。
「ちゃんとしてる男は得」
母の言葉を、胸のどこかに刻んでおく。
*
通学路。
筋肉痛と、朝ランの疲労が合体して、足が棒みたいになっていた。
でも、その重さが嫌じゃなかった。
前方から、昨日と同じ男子二人組が歩いてくる。
「おはよう」
もう、迷いなく言えた。
「おー、霧島。おはよ」
「……おはよ」
三日連続で挨拶を交わすと、不思議なことが起きる。
昨日まで「クラスの男子二人」だったのが、
頭の中で「よくすれ違ういつもの二人」に変わり始める。
まだ名前も性格もちゃんと知らない。
でも、「顔見知り」は「知らない他人」とは違う。
この小さな違いが、積み重なった先で「友達」と呼べる何かになっていくのかもしれない。
*
三日目の教室は、二日前に比べて少しだけ騒がしかった。
いや、騒がしさ自体はいつも通りなのかもしれない。
変わったのは、俺の感覚の方だ。
教室の真ん中で笑っているグループ。
窓際で本を読んでいるやつ。
スマホゲームの話をしているやつ。
廊下側で昨日のテレビ番組の話をしているやつ。
それぞれの輪の距離感が、三日目にしてようやく立体的に見えてきた。
席につき、ノートを広げる。
「二度目の人生計画」の三日目のページに、日付を書き込む。
継続日数の欄を、2→3に書き換えて、ちょっとだけニヤつきそうになるのを堪える。
「……ニヤニヤすんな、俺」
心の中でツッコんで、顔は普通を装う。
そんなとき、前の席のやつがくるっと振り返った。
「霧島、それ何?」
机の上のノートを見て、顎をしゃくってくる。
表紙には何も書いていない。
中身もぱっと見ではただのメモだ。
「メモ帳」
「ふーん。なんか、昨日もずっと書いてなかった?」
――見てるやつは見てるんだよな、こういうの。
「ちょっと、忘れたくないこととか書いてるだけ」
「真面目っすねー」
茶化す感じでもなく、本気でもなく、ただの軽い感想みたいなトーンだ。
この「軽さ」がありがたかった。
真面目に褒められすぎても気持ち悪いし、バカにされてもそれはそれで面倒くさい。
「真面目」は、軽口とセットで扱ってもらえるくらいがちょうどいい。
*
二時間目の数学で、事件は起きた。
先生が黒板に問題を書き、クラスに向かって振り返る。
「じゃあ、この問題……そうだな。霧島、やってみるか?」
「……はい」
その瞬間、一瞬だけ教室の空気が変わった。
「え、霧島?」
「マジ?」
前の人生では、俺が黒板に呼ばれることなんてほとんどなかった。
当てられても、しどろもどろ答える程度だった。
だから、周りも「あいつはそういうポジション」として認識していた。
今、先生は俺を指名した。
理由は分からない。
昨日の授業中の様子を見て、「こいつなら解けそう」と思ったのかもしれないし、単なる順番かもしれない。
どっちでもいい。
立ち上がって黒板の前に行く。
チョークを持つ。
目の前の問題を見る。
簡単ではない。
でも、解けないレベルでもない。
四十歳まで生きているぶん、小学校・中学校レベルの数学の「つまづきポイント」はいやというほど見てきた。
計算ミス。
符号ミス。
公式の適用ミス。
そのあたりにだけ気をつければ、時間はかかってもなんとかなる。
「……」
後ろからクラスの視線が刺さる。
嫌な感覚だ。
でも、それを正面から受け止めてみる。
チョークを動かす。
途中式を書き、頭の中で確認する。
――ここ、間違えやすいとこだぞ。
四十歳の俺がささやく。
だから、もう一度確認する。
計算を一歩戻して検算する。
そのワンアクションが、前の俺にはなかった。
最後の答えを書き終え、先生の方を見る。
「……よし」
先生が頷いた。
「合ってる。ちゃんと途中式も書けてるな」
その一言に、胸の奥がじんと熱くなった。
――ちゃんとできた。
教室に戻る途中、前の席のやつと目が合った。
やつは、ほんの少しだけ驚いた顔をしていた。
席に座ると、前の席から小声が飛んできた。
「霧島、やるじゃん」
「たまたま」
そう返しながらも、心の中では小さくガッツポーズをしていた。
「たまたま」じゃない。
ちゃんと理解して、気をつけて、解いた。
その違いは、俺だけが知っていればいい。
*
昼休み。
今日も俺は、自分の席で弁当を広げた。
輪の中に入る勇気は、まだない。
無理に入る必要もないと思っている。
今日の俺のテーマは、「昨日と同じようにやる」だ。
昨日と同じように挨拶をして、
昨日と同じように授業を受けて、
昨日と同じようにノートを取り、
昨日と同じように昼を食べる。
そのうえで、少しだけ「+α」ができたなら、それで十分だ。
そう思っていると、ふと視線を感じた。
顔を上げると、前方の女子グループの一人が、こちらをちらっと見ていた。
目が合った瞬間、すぐにそらされる。
それだけ。
――それだけ、なんだけど。
なんとなく、胸の奥がざわっとした。
前の人生では、「女子に見られる」という経験自体がほとんどなかった。
教室のどこかに女子は存在していたけれど、それは「風景」の一部でしかなかった。
今、たまたまなのか、偶然なのか、三日目にして「視線」を感じた。
ヒロインとか、メンヘラとか、ヤンデレとか。
そんな言葉を頭に浮かべるのは、まだ早い。
ただ一つ確かなのは――
世界が、少しずつ「俺の方を見始めている」ということだ。
それが、怖くもあり、嬉しくもある。
「……いやいや、気のせいだろ」
自分で自分にツッコミを入れて、弁当に視線を戻す。
自意識過剰はろくなことにならない。
まだ三日目だ。
ここで変に浮かれたら、絶対に足をすくわれる。
今はただ、「見られても恥ずかしくない自分」を作ることに集中する。
*
放課後。
今日もまっすぐは帰らない。
家とは反対方向に足を向け、住宅街の先にある少し古びた建物を目指す。
道場。
柔道か空手か、その手の武道をやっている場所だ。
前の人生でも、何度か前を通ったことがある。
そのたびに、「こういうところに通う男の子は、なんかすごいな」と他人事のように眺めていた。
今、俺はその「すごいな」と思っていた側に、一歩踏み込もうとしている。
道場の前に立つ。
引き戸のガラス越しに、中の様子が少しだけ見えた。
白い道着。
畳。
正座して話を聞いている子どもたち。
奥には、年配の男の人が正面に座っている。
――ビビってる?
自分に問う。
正直、少し怖い。
「今から入れてください」と言って、断られたらどうしよう。
変な目で見られたらどうしよう。
四十歳まで生きてきて、こういう「新しいコミュニティの扉」をノックした経験はほとんどない。
だから、未知の怖さがある。
でも、それ以上に――
「ここで一歩踏み出さなかったら、また同じ人生になる」という恐怖の方がでかかった。
「……よし」
深呼吸を一つして、引き戸に手をかける。
ガラガラ、と音を立てて戸が開く。
「こんにちは」
声が少しだけ裏返った。
中にいた子どもたちが、一斉にこちらを振り向く。
年配の男の人――師範らしき人物が、じっと俺を見つめる。
「はい、こんにちは。どうした?」
低いが柔らかい声。
怖い感じはしなかった。
「えっと……見学、してもいいですか?」
言いながら、自分の中で何かが震えた。
この一言を言うまでに、四十年かかったような気がした。
師範は少しだけ目を細め、それから頷いた。
「かまわんよ。そこに座ってなさい」
畳の端を指さす。
「ありがとうございます」
靴を脱いで上がり、言われた場所に正座する。
目の前では、子どもたちが基本の構えをしている。
突き、受け、蹴り。
動きはまだバラバラだ。
でも、そのバラバラさが「これから上手くなっていく過程」を想像させてくれて、妙に眩しかった。
師範の動きは、無駄が一切なかった。
年齢はかなり上のはずなのに、一本一本の動きに芯が通っている。
――これだ。
心の中で、何かがカチッとはまる。
俺が欲しかったのは、こういう「積み重ねの先にある動き」だ。
強さとか、喧嘩の仕方とか、そういう表面的なものじゃなく、
積み重ねた時間がそのまま体の中に蓄積されているような感覚。
四十歳の俺は、結局それを何一つ手に入れてこなかった。
今なら、まだ間に合うかもしれない。
稽古がひと段落ついたところで、師範がこちらにやってきた。
「どうだ?」
「……かっこいいです」
素直な感想が口を突いて出た。
師範は少し笑う。
「かっこよく見えるのは、たぶん“結果”だな」
「結果、ですか」
「ああ。誰だって最初は格好悪い。構えもぎこちないし、足ももつれる。
それでもやめなかったやつにだけ、ちゃんとした形が残る」
三日坊主という言葉が、頭をよぎる。
「三日やってやめるやつも多い。
一ヶ月やってやめるやつも多い。
一年続けられたら、大したもんだ」
「……三日目なんです、今」
気づいたら口が動いていた。
「なにがだ?」
「いろいろ、ちゃんとしようと思って。
勉強とか、筋トレとか、早起きとか。
それを、三日続けるのも、正直けっこうしんどくて」
師範は少しだけ眉を上げ、それから笑った。
「三日続いたなら、四日目も続く可能性は高い」
「そういうものですか」
「ああ。一日目と二日目の間にある溝より、
二日目と三日目の間にある溝の方が、たいてい深い」
言葉が、妙に胸に刺さった。
「その溝を越えたってことはな、あとは“落ちないように歩くだけ”になる」
「落ちないように、ですか」
「そう。全力疾走しなくていい。走ったり、歩いたり、たまに立ち止まったり。
でも、後ろには戻らない。そういう続け方を覚えればいい」
俺は、ずっと後ろに下がり続けていた。
後ろに下がっている自覚すらないまま、同じ場所をぐるぐる回っていた。
今、三日目の溝を越えかけている。
「……入門、できますか」
気づけば、その言葉が口から出ていた。
「週に何回かしか来れないかもしれないけど、それでも続けたいです」
師範は、じっと俺の目を見た。
14歳の目と、40年分の後悔を抱えた目が、どこかで重なっている。
「名前は?」
「霧島、灯です」
「よし。じゃあ、まずは一ヶ月だ。
一ヶ月続けられたら、そのとき改めて“これからどうするか”を考えよう」
一ヶ月。
三日目の先にある、一ヶ月。
そこまで行けたら、多分もう「元の俺」には戻れない。
「……お願いします」
深々と頭を下げる。
背中を伸ばしたその姿勢は、四十歳のときよりもずっとまっすぐだった。
*
家に帰ったのは、いつもより少しだけ遅い時間だった。
道場の入門手続きの紙をカバンにしまいながら、母に「ただいま」と声をかける。
「おかえり。今日は何してたの?」
「道場、行ってた」
「道場?」
また目を丸くする母。
「格闘技、習おうと思って」
「……ほんとにどうしたの、最近」
呆れ半分、感心半分、みたいな顔でこっちを見てくる。
「悪いことじゃないよね?」
「悪いどころか、いいことだけどさ。
あんた、小さい頃から続かない子だったじゃない?」
図星だ。
「だからまあ、お母さんは一ヶ月だけ信じてあげるわ」
「……短くない?」
「一ヶ月続いたら、そのときちゃんと褒めてあげる」
母のその言葉は、師範の言葉と奇妙に重なった。
――一ヶ月。
現時点では、果てしなく遠く感じる数字だ。
でも、そこに向かって歩き始めてしまった以上、もう戻る気はなかった。
*
夜。
いつも通り、勉強二時間。
道場の時間で少し削られたぶん、集中してやる。
そのあと、筋トレ。
腕立て、スクワット、腹筋。
三日目になると、体が「この時間になるとこういうことをする」と理解し始めている気がした。
もちろん、きついものはきつい。
でも、「初日のあのしんどさ」と比べれば、ほんの少しだけマシになっている。
ノートを開き、三日目のメニューの横に丸をつける。
継続日数の欄の「2」を「3」に書き換える。
数字の3が、やけに頼もしく見えた。
「三日坊主、クリア」
小さく呟く。
まだたったの三日。
でも、この「三日」を越えられなかった過去が何回もある。
今回は越えた。
その事実を、ちゃんと喜んでいいと思った。
布団に入る前、天井を見上げる。
同じシミ。
同じ匂い。
でも、胸の中だけは、三日前とはまるで違う。
「……明日も、ちゃんと起きて走る」
はっきりとそう決める。
夢でも現実でも関係ない。
続けているうちに、きっとどこかで「これはもう現実なんだ」と腹の底から思える日が来る。
その日まで、ただ黙々と積み重ねるだけだ。
目を閉じる。
頭の中で、師範の言葉と、母の言葉と、自分で書いた「二度目の人生計画」の文字が、ぐるぐると回る。
――後ろには、戻らない。
その一文だけを胸に刻んで、俺は三日目の夜を終えた。
世界が、ほんの少しだけこちらを向き始めていることを、まだ半分くらいしか自覚していないまま。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます