決意のノート

目覚まし時計のベルが、耳元で喚き散らしていた。


 ガンガンガンガン――と、昭和かよってくらい古くさい音。

 スマホのアラームじゃない。

 まずその事実が、まぶたの裏にじわじわ染み込んでくる。


 手探りで時計をつかんで止める。

 指先に伝わる、丸くて安っぽい金属の感触。


 「……ああ、そうだ。戻ったんだったな」


 寝ぼけた頭が、昨日の出来事をゆっくりと思い出していく。


 四十歳の誕生日。

 どうしようもない現実。

 逃げ続けた後悔。

 “戻れたらやる”なんて、子どもみたいな願いをこぼして――


 気づいたら、中学二年のこの部屋だった。


 夢か現実かは、まだ分からない。

 あれから何度も頬をつねったし、水の冷たさも、布団の重さも、匂いも、全部が“本物”みたいだったけど。


 それでも、目が覚めるたびに不安になる。

 「ここ」が消えて、あの四十歳のアパートに戻っているんじゃないかと。


 とりあえず、ゆっくり目を開ける。

 視界に飛び込んでくるのは、見慣れた天井……と、見慣れていなかった頃の天井だ。


 少し黄ばんだ白。

 隅にうっすら広がるシミ。

 中学生の頃、やけにその形に意味を見出そうとしていた記憶がある。


 「……続き、か」


 昨日の続き。

 タイムリープだの転生だの、そういう言葉を使うと急に胡散臭くなるけれど、とにかく「二度目のスタートライン」の二日目だ。


 布団を跳ねのけて起き上がる。

 体が軽い。

 腰も、肩も、どこも痛くない。

 四十歳のときには当たり前になっていた鈍い疲労感が、きれいさっぱり消えている。


 ――これだけでもう、ちょっと泣きそうなんだが。


 枕元の時計を見る。

 針は、まだ登校までかなり余裕のある時間を指していた。

 前の人生なら、ギリギリまで布団にしがみつき、母に怒鳴られてから慌てて飛び起きていた時間帯だ。


 「よし」


 小さく声に出して、立ち上がる。


 まずは鏡だ。


 洗面所に行く前に、部屋の隅に立てかけてある全身鏡を引き寄せる。

 ギイ、と頼りない音を立てて角度を変えた鏡に、十四歳の俺が映った。


 寝癖がひどい。

 前髪はぴょんぴょん跳ねて、ところどころ割れている。

 眉は濃いくせに手入れはゼロ。

 目つきは、眠たそうで、どこか不安げだ。


 「……ひでえな」


 思わず笑ってしまう。


 でも、この笑いは、バカにする笑いじゃない。

 今の俺から見れば、「この程度ならいくらでもどうにでもなる」という確信じみたものがあるからだ。


 四十歳のときの顔に比べたら、伸びしろしかない。


 洗面所に行き、蛇口をひねる。

 冷たい水で顔を洗い、タオルでしっかり拭く。

 ついでに、ちゃんと歯を磨き、櫛で髪を梳かした。


 前の人生では、「男だしどうでもいいだろ」と適当に済ませていた部分だ。

 清潔感ってやつの大事さを、あの歳になってようやく痛感していたからこそ、今ここでやり直せるのは大きい。


 鏡の前に立ち、もう一度自分を見る。


 さっきよりはマシになった。

 寝癖はだいたい収まり、顔色も水で目が覚めたおかげで少しだけシャキッとしている。


 「悪くねえじゃん」


 そう言うと、鏡の中の俺も、少しだけ口元をゆるめた気がした。


 そのとき。


 「灯ー? 起きてるー?」


 廊下の向こうから、懐かしい声が響いた。


 母の声だ。


 中学生の頃、毎朝のように聞いていた声。

 四十歳になった頃には、もう二度と聞けないと思っていた声。


 喉の奥がじん、と熱くなる。


 「起きてる! 今行く!」


 慌てて返事をする。

 声が少し裏返った。


 母は何も知らない。

 ここが夢か現実かなんて関係なく、「今の灯」がどう見えるかだけで俺を判断する。


 前の人生のように、眠そうな顔で、ギリギリの時間に、だるそうに降りていったら――

 また同じ道をなぞることになる。


 それだけは嫌だった。


 *


 階段を降りると、キッチンから味噌汁の匂いがした。


 テーブルの上には、焼き鮭と卵焼き、漬物にご飯。

 「ザ・日本の朝ごはん」みたいなラインナップだ。


 その向こうで、エプロン姿の母が湯気に包まれている。


 「おはよう」


 ちょっとだけ声を張って言ってみる。


 「わ、びっくりした」


 母が振り向き、目を丸くした。

 いつもより早い時間に俺が起きてきたからだろう。


 「どうしたの? 珍しいじゃない、こんな時間に」


 「んー……ちょっと、早く起きてみようかなって思って」


 なるべく自然なトーンを心がける。

 中身が四十歳バリバリです、なんて顔に書いてあるわけじゃないけど、余計な違和感は与えたくなかった。


 「ふうん?」


 母はまだ少し不思議そうにしながらも、笑って味噌汁をよそってくれた。


 「ま、いいことだわ。あ、ちゃんと顔洗った? 寝癖ついてない?」


 「もう洗った。寝癖も直した」


 「やだ、灯がちゃんとしてる……雪でも降るんじゃない?」


 冗談めかして笑うその顔が、やけに眩しく見えた。


 ――これが、当たり前にあったんだよな。


 四十歳のとき、ひとりでコンビニ弁当を食べながら、何度も思い出した光景だ。

 あのときは、もう二度と戻ってこない過去としてしか扱えなかった。


 今、同じ場面が“現在進行形”で目の前にある。


 夢かもしれない。

 現実かもしれない。


 どっちでもいい。

 今この瞬間、この匂いと音と温度をちゃんと味わっておきたかった。


 「……いただきます」


 両手を合わせると、母がふっと柔らかく笑った。


 「はい、どうぞ」


 味噌汁を啜る。

 しょっぱさと温かさが、体の奥にじんわり染みていく。


 ああ、生きてるな、って感じがした。


 「今日、何時に帰ってくるの?」


 「ん、たぶんいつも通り」


 いつも、がどんなだったか、必死に思い出しながら答える。

 部活には入ってなかったから、授業が終わればすぐ帰っていたはずだ。


 「そう。晩ごはんまでには帰ってきてね」


 「うん」


 短いやり取り。

 それだけなのに、妙に胸が温かくなった。


 *


 食べ終わったあと、時間を見て、まだ余裕があることを確認する。


 「……よし、行くか」


 ランドセル……じゃなくて、学生カバンを手に取り、玄関へ向かう。


 靴を履こうとして、ふと止まる。


 前の人生の俺は、玄関で靴を踏んづけるようにしてつっかけていた。

 かかとを踏んで、靴紐も結ばず、だらしないまま外に飛び出していた。


 それを、誰も褒めはしないし、怒りもしない。

 ただ、“そういうやつ”として認識されるだけだ。


 小さなことだ。

 されど、小さなことの積み重ねで人間の印象なんて簡単に決まるってことを、四十まで生きて嫌というほど見てきた。


 しゃがみ込んで、かかとをちゃんと入れ、靴紐を結ぶ。

 二度結びして、ほどけないようにする。


 「いってきます」


 玄関から声をかける。


 「いってらっしゃーい」


 台所から返ってきた声を背中に受けながら、ドアを開ける。


 外の空気は、少しひんやりしていた。


 *


 通学路。


 アスファルトの道路。

 古い家と新しい家が混ざった住宅街。

 脇を流れる小さな用水路。

 遠くから聞こえる踏切の音。


 どれも、懐かしい。

 だけど、今の俺にとっては“初めて”でもある不思議な感覚だった。


 前の俺は、ここをいつも俯きながら歩いていた。

 イヤホンで音楽を流して、周りの声をシャットアウトして、誰とも目を合わせないようにしていた。


 今、イヤホンはない。

 代わりに、耳にはやたらとたくさんの音が飛び込んでくる。


 登校中の小学生のはしゃぐ声。

 どこかの家から漂ってくる洗濯洗剤の香り。

 自転車のブレーキの音。

 犬の吠える声。


 「……世界、狭かったんだな」


 ぽつりとこぼす。


 四十歳になってからの世界は、電車と会社とアパートだけで、妙に窮屈だった。

 それに比べれば、ここは狭いようで広い。


 この通学路の先に、俺はまだ何にでもなれる“可能性”というやつを持っている。


 そう考えたら、足取りが自然と軽くなった。


 角を曲がったところで、前方から同じ制服の男子が二人歩いてくる。

 前の人生でも同じクラスだった顔だが、名前が喉元でうまく引っかかって出てこない。


 すれ違うとき、どうするか。


 今まで通り、俯いてやり過ごすか。

 それとも――


 「……おはよう」


 思い切って、声をかけた。


 大きくもない、普通の声。

 それでも、胸の鼓動は無駄に早くなる。


 男子の一人が、ちらりとこちらを見た。


 「あ、おはよ」


 当たり前みたいに返事が返ってきた。


 それだけだった。

 別に仲良くなったわけでも、会話が弾んだわけでもない。

 向こうはすぐに前を向いて、また友達同士で何か話し始めた。


 それでも、俺の胸の中では、何かが大きく変わった気がした。


 ――なんだよ。挨拶って、こんなもんでいいのかよ。


 ただ「おはよう」と言って、「おはよう」と返ってくる。

 それだけのことが、前の俺にはできなかった。


 できないまま、「俺はコミュ障だから」と決めつけていた。


 小さな一歩だ。

 でも、その一歩を踏み出さないまま四十まで来た結果が、あの孤独なアパート暮らしだ。


 「今日は、これで十分」


 心の中で自分に言い聞かせる。

 いきなりクラスの中心になろうなんて思わない。

 そんな器用さはないし、今やっても絶対に空回りする。


 まずは、「挨拶くらいはするやつ」になること。

 その程度の目標でいい。


 *


 学校に近づくにつれて、人の数が増えてくる。


 昇降口に入ると、靴箱の前に生徒がひしめいていた。

 この光景も、懐かしい。


 自分の番号を探して靴箱を開ける。

 中には、汚れた上履きが入っていた。


 前の人生の俺は、ここで一度も上履きを洗ったことがなかった。

 底が黒ずんで、布の部分も灰色にくすんでいる。


 「……週末、洗うか」


 小さく呟いて、上履きを取り出す。

 靴紐はないタイプだが、ちゃんとかかとまで足を入れる。


 校舎の中は、外より少し暖かかった。

 廊下を歩くたびに、床がきし、と音を立てる。


 教室の前まで来る。


 ドアの向こうからは、笑い声や、椅子を引く音や、机を叩く音が聞こえてくる。

 記憶の中にある「あの教室」の音だ。


 ドアノブに手をかける。

 ほんの一瞬だけ、躊躇した。


 ――ここから、また始まる。


 前の人生では、ここで「どうせ自分なんて」と勝手に端っこに向かっていった。

 今度はどうするか。


 深呼吸を一つして、ドアを開ける。


 「おはようございまーす」


 誰かがそう言いながら通り過ぎていく。

 教室内の数人が、「おはよー」と返す。


 俺は、教室の中を一瞥してから、自分の席へ向かった。


 窓から二列目、後ろから三番目。

 微妙に目立たない位置。

 でも、教室全体を見渡せる悪くない席だ。


 椅子を引き、座る。

 カバンを机に置き、教科書を出す。


 周りのやつらは、もう誰かと話し始めている。

 盛り上がっているグループもあれば、静かに本を読んでいるやつもいる。


 その輪のどこにも、俺の席は用意されていない。


 それは、前の人生と同じだ。

 当たり前だ。

 ここまでの時間軸で、何も積み上げていないのだから。


 でも、それでいい。


 「今日は、ただ“普通に過ごす”だけでいい」


 机の中からノートを取り出しながら、心の中で呟く。


 いきなり人気者になる必要なんかない。

 いきなり話しかけまくって場を凍らせるのも、御免だ。


 挨拶をして、授業をちゃんと受けて、ノートを取って、宿題を出す。

 部活には入らないなら、そのぶん家で筋トレと勉強をする。


 それだけでも、前の俺と比べたら大きな変化だ。


 俺の席の前を、数人が通り過ぎていく。

 誰かがちらりと俺を見る。

 目が合いそうになり、ほんの一瞬だけ視線が絡んだ。


 ……が、そのまま何も起きない。


 それでいい。

無理に何か起こそうとするのは、違う。


 机の上に、真新しいノートを置いた。

 昨日の夜、机の引き出しの奥から出てきた、「まだ一度も使っていないノート」だ。


 表紙を開く。

 一ページ目の一番上に、ボールペンで書く。


 『二度目の人生計画』


 字が少し震えた。

 隣に小さく、日付も書き込む。


 ――この日が、俺の人生が変わり始めた日だった、ってちゃんと言えるように。


 そう思いながら、ペン先を走らせていく。


 ・平日:毎日腕立て、スクワット、腹筋

 ・勉強:まずは定期テストで上位に入る

 ・姿勢:猫背禁止、背筋を伸ばす

 ・話し方:挨拶をする、目を見て聞く

 ・美容:洗顔・整髪を毎日ちゃんとやる

 ・格闘技:近所の道場をあとで調べる


 箇条書きにしていくと、前の人生で「やらなかったこと」「めんどくさい」で済ませたことばかりが並んだ。


 こんなの、本当は中学生でもできたことだ。

 やろうと思えばいつだってできた。

 それを、やらなかった。


 やらないまま四十まで行った結果が、あのざまだ。


 「……もう、あそこには戻らない」


 自分だけに聞こえる声量で呟く。


 チャイムが鳴った。

 先生が教室に入ってくる。

 周りが慌てて席に戻り、ガタガタと椅子の音が鳴り響いた。


 「起立、礼!」


 いつもの号令。

 いつもの朝のホームルーム。


 だけど、俺にとっては“初日”だ。


 立ち上がったとき、意識して背筋を伸ばした。

 胸を張り、前を見る。

 床じゃなくて、黒板を見る。


 たったそれだけで、世界の見え方が少しだけ変わった気がした。


 *


 午前中の授業は、正直言って楽勝だった。


 国語の文章は、何度も見たことがあるような内容だったし、

 数学も、四十歳まで生きていると「こういうところでつまずくから、ここ気をつけろよ」というポイントがだいたい分かる。


 だからといって、なめてかかるつもりはない。


 ノートはきれいに取る。

 大事だと思ったところには線を引き、あとで見返したときに分かるように余白にメモを書く。

 「なんとなく分かった気になる」のではなく、「あとから説明できるくらいには理解する」つもりで聞く。


 途中、何度か頭の中に変な感覚がよぎった。


 ――ここで目が覚めたらどうしよう。


 黒板を見ているふりをしながら、脳裏に四十歳のアパートがちらつく。

 あの薄暗い部屋。

 コンビニ弁当の匂い。

 スマホの画面だけが光っている夜。


 思わず、机の端を指でつねった。

 爪が半分食い込むくらいに力を込める。


 痛い。

 ちゃんと痛い。


 深く息を吸い、ゆっくり吐く。

 今ここにいる。

 少なくとも、この瞬間、この教室に立っている。


 それで十分だ。

 先のことを考えすぎるのはやめよう。


 四十年、先のことをまともに考えずに逃げ続けてきたくせに、こういうときだけ余計な不安を膨らませるのは、いかにも俺らしい。


 「今、目の前のことをやる」

 それだけでいい。


 そう自分に言い聞かせて、またノートに視線を落とした。


 *


 昼休み。


 チャイムが鳴ると、教室は一気にうるさくなる。

 弁当の袋の音、椅子を引く音、誰かの笑い声。


 前と同じように、俺はカバンから給食袋を出した。

 机をくっつける輪の中にも入らず、かといってわざと隅っこに移動することもせず、いつもの席で黙々と食べる。


 これが、今の俺の限界だ。


 いきなり輪の中に飛び込んでいけるほど、社交性は高くない。

 「タイムリープしたからコミュ力無双です」なんて展開は、俺の性格上あり得ない。


だから今日は――観察する日だ。


 誰が誰と仲がいいか。

 誰がよく喋り、誰がよく聞いているか。

 誰が教室の空気を動かし、誰がそれに乗っかっているだけか。


 四十歳まで生きてきたぶん、人間関係の“型”みたいなものは嫌でも見えていた。

 クラスという小さな社会の中にも、それははっきりある。


 この中の、誰かと深く関わる日が、いつか必ず来る。


 まだ、その「誰か」を特定するつもりはない。

 ただ、目に焼き付けておく。


 それだけでも、前の俺とは全然違う。


 前の俺は、自分以外の全員を「ぼんやりした他人」としてしか認識していなかった。

 名前も顔も一致しないまま、三年間をやり過ごそうとしていた。


 今の俺は違う。


 この中の誰かが、将来の俺の人生を大きく変える存在になるかもしれない――

 そう思いながら弁当を食っている。


 この意識の差は、きっとどこかで効いてくる。


 *


 放課後。


 掃除を終え、ホームルームも終わり、「起立、礼」で一日が締めくくられる。


 チャイムと同時に、教室から生徒たちが流れ出ていく。

 部活に向かうやつ、寄り道の相談をするやつ、先生に質問しにいくやつ。


 俺は、カバンに教科書をしまいながら、席に座ったまま一度深呼吸をした。


 「……まずは、帰ってからだな」


 今日は部活に入らない。

 代わりに、その時間を丸々「自分を変えるため」に使う。


 教室を出て、廊下を歩く。

 窓の外には、もう少しで夕方になりそうな陽射しが斜めに差し込んでいた。


 靴箱で上履きを脱ぎ、外履きに履き替える。

 朝と同じように、かかとを踏まず、ちゃんと足を入れる。


 昇降口を出ると、校門のあたりで数人がたむろしているのが見えた。

 その輪に入りたい気持ちがないわけじゃない。

 けれど、今はまだそのタイミングじゃないと、どこかでブレーキがかかる。


 今の俺は、まず「土台」を作る段階だ。


 筋力、体力、学力、生活習慣、コミュニケーション。

 全部、ゼロに近いところからやり直す必要がある。


 その上に、いつか「誰かとの関係」が乗っかってくる。


 順番を間違えると、また崩れる。


 「急がなくていい」


 心の中で呟きながら、校門を出た。


 *


 帰り道、少しだけ遠回りをした。


 家とは反対の方向にある、小さな公園。

 ブランコが二つと、古びた鉄棒が一本。

 砂場は少し固まっていて、誰かが描いた落書きの跡が残っている。


 ここも、よく知っている場所だ。

 中学の頃、部活に入っていない俺が、なんとなく時間を潰すためにふらっと立ち寄っていた場所。


 当時の俺は、ここで何もしなかった。

 座ってぼーっとして、時間だけが過ぎていった。


 今の俺は――ここで何かを“決める”。


 ブランコには座らず、公園の端にあるベンチに腰を下ろす。


 カバンから、朝の「二度目の人生計画」と書いたノートを取り出した。

 さっき書いたページを開き、その下にペンを走らせる。


 『今日からやること(初日)』


 ・腕立て 10回×3セット

 ・スクワット 20回×3セット

 ・腹筋 20回×3セット

 ・勉強 最低2時間(宿題+予習)

 ・明日の朝、また同じ時間に起きる


 書きながら、少しだけ笑ってしまう。


 「小学生かよ」ってくらい、シンプルなメニューだ。

 でも、いい。

 最初からジムに行ってベンチプレスだの、プロテインだの言い出しても、絶対に続かない。


 まずは、「やった」と胸を張って言えるくらいの量を、毎日やること。

 それが一番大事だってことを、四十歳の俺は知っている。


 さらに、ページの隅に小さくメモする。


 ・週末:近所の格闘技道場を調べる

 ・スキンケア:ドラッグストアで洗顔料と保湿クリームを買う


 前の人生では、ぜったいに書かなかった種類の項目だ。


 でも、「それをやっている男」と「やっていない男」では、三年後、五年後にとんでもない差がつく。


 それもまた、四十歳まで生きてきた俺が嫌というほど見てきた現実だ。


 「よし」


 ノートをパン、と閉じる。


 ベンチから立ち上がると、空が少しだけオレンジ色に染まり始めていた。

 時間的に、そろそろ家に帰らないと晩ごはんに間に合わない。


 足取りは、朝よりも軽かった。


 *


 家に着いてからは、決めた通りに動いた。


 カバンを放り出さず、机に向かう。

 まず宿題を終わらせ、そのあとで授業の予習をする。

 教科書を音読し、分からない単語には線を引き、余白に意味を書き込む。


 勉強を二時間。

 時計を見ると、思ったより早く時間が過ぎていた。


 ちょっとした達成感と、妙な物足りなさ。

 今までは、ゲームや動画でしか感じなかった「何かをやった感覚」が、ノートの文字から立ち上ってくる。


 晩ごはんを食べ、母と短い会話を交わし、風呂に入ったあと――

 いよいよ、筋トレの時間だ。


 「……やるぞ」


 部屋の真ん中にスペースを作り、床に手をつく。

 腕立て伏せの姿勢になる。


 「10回、3セット」


 口に出してから、体を上下させる。


 五回目で早くも腕がきつくなる。

 六回目、七回目と数えるごとに顔が赤くなっていく。


 九回目で腕が折れそうになり、十回目で力尽きて床に倒れ込んだ。


 「っはー……やべえ……」


 息が荒い。

 心臓がバクバクいっている。


 それでも、口元が勝手に笑っていた。


 「一セット目、終了」


 誰に報告するでもなく、そう告げてから、少しだけ休む。

 呼吸が落ち着いたら、二セット目。

 三セット目が終わる頃には、腕が自分のものじゃないみたいに重くなっていた。


 続けてスクワット。

 腹筋。


 汗が額から首筋を伝い、シャツが少し肌に張りつく。

 床には、うっすら汗の跡ができていた。


 「……っしゃ」


 最後の一回をやり切った瞬間、小さくガッツポーズをする。


 たかが自重トレ。

 たかが家の中での運動。


 でも、その「たかが」を前の俺は一度もちゃんとやらなかった。


 だから今、こうして初日を終えられたことが、たまらなく嬉しかった。


 机の上のノートを開き、今日やったメニューの横に丸をつける。

 勉強2時間、○。

 腕立て、スクワット、腹筋、それぞれ○。


 全部の行に丸がついているページを見て、胸の奥がじんわり熱くなる。


 「今日は、ちゃんと生きたな」


 そんな言葉が、自然と浮かんだ。


 *


 布団に入るころには、体のあちこちがだるかった。

 いい意味での疲労感だ。

 いつもの「何もしていないのにやたら眠い」とは違う。


 天井を見上げる。


 シミの形は、相変わらず意味もなくそこにある。

 でも今は、そのシミをぼんやり眺めているだけで、「今日のこと」が頭の中に映像みたいによみがえってきた。


 早起きして、顔を洗って、髪を整えて。

 母と普通に会話して、通学路で挨拶して。

 ノートに計画を書いて、授業をちゃんと受けて。

 公園でメニューを決めて、家で筋トレと勉強をやり切った。


 「……夢だったら、もったいないな」


 ぽつりとこぼす。


 もし、今この瞬間に目が覚めて、四十歳のアパートのベッドで目を覚ましたら――

 この一日は、全部消えてしまうのか。


 母の声も。

 通学路の空気も。

 教室のざわめきも。

 ノートの文字も。

 汗の感触も。


 全部、なかったことになってしまうのか。


 考えた瞬間、胸がぎゅっと縮んだ。


 「……だったら、お願いだからさ」


 誰に向かって言っているのか分からない。

 神様でも、運命でも、未来の自分でもいい。


 「明日も、同じ朝をください」


 そう小さく願って、目を閉じる。


 暗闇の中で、体の奥からじんわりとした疲れと、ほんの少しの高揚感が混ざり合っていく。


 夢か現実かは、まだ分からない。

 でも――


 たとえ夢でも、ここまで本気で生きたのは、今日が初めてかもしれない。


 そんなことを思いながら、俺は静かに眠りに落ちていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る