第3話「庭師の規則」
朝、目覚めると、舌に土の味がした。
昨夜、カモミールの茶以外は何も口にしていない。では、この土の味はどこから来たのか。答えは簡単だ。夢の中で、私は土を食べていた。両手で掬い、口に運び、噛んで、飲み込んだ。土は砂のようにざらついていたが、同時に滑らかで、チョコレートのように舌の上で溶けた。
これは狂気の兆候だろうか。それとも、新しい知覚の目覚めだろうか。
鏡を見る。顔は普通だ。しかし「普通」という言葉の定義が、少しずつずれている気がする。昨日までの普通と、今日からの普通は、同じ言葉でも別の意味を指している。
服を着替え、階段を降りる。台所に行く前に、私は裏口から庭へ出た。
朝の庭は、夜とは別の生き物だった。夜の庭が獣なら、朝の庭は鳥だ。軽やかで、明るくて、しかし油断ならない。鳥は突然、方向を変える。予測できない角度で飛び去る。庭も同じだ。見ているつもりでも、本当は見られている。
ローズマリーの木の前に立つ。
「おはよう」
私は声に出して言った。返事は期待していなかった。しかし、木の枝が微かに動いた。挨拶を返したのか、それとも偶然か。偶然という言葉は便利だ。説明できないことを、全て偶然に押し込めることができる。しかし偶然が積み重なると、それは必然になる。
木の根元を見る。昨日見た足跡は、完全に消えていた。土が平らで、何の痕跡もない。
私は膝をつき、土に手を置いた。
瞬間、世界が裏返った。
◇ ◇ ◇
私は他人の目で見ている。
空が低い。いや、私の背が低いのだ。子供の背丈。五歳くらいだろうか。手を見ると、小さくて、泥だらけだ。嬉しい。泥は友達だ。泥で遊ぶのは、雲で遊ぶのと同じくらい楽しい。
「そこで何してるの?」
祖母の声だ。若い。三十代くらいの声。私は顔を上げる。祖母が庭の入り口に立っている。エプロン姿で、手にはじょうろ。
「土と話してるの」子供の私——いや、この子供は誰だ?——が答える。
「土は何て言ってる?」
「嬉しいって。誰かに触ってもらえて」
祖母は近づいてきて、隣に座る。一緒に土を触る。二人の手が、土の中で出会う。
「土はね」祖母が言う。
「この世界で一番、記憶力がいいの。雨の音も、足音も、涙も、全部覚えてる。だから土に触れる時は、丁寧にね。土は、あなたのことも覚えるから」
「ずっと?」
「永遠に」
祖母は微笑む。しかしその微笑みには、悲しみが混ざっている。悲しみと微笑みは、本来、水と油のように混ざらないはずだ。でも祖母の顔では、それらは完全に溶け合っている。
「おばあちゃん」子供が訊く。
「死んだ人も、土は覚えてる?」
祖母の手が、一瞬止まる。
「ええ。特に、死んだ人は」
「じゃあ、土を掘れば、会えるの?」
「会えるかもしれない。でもね——」祖母は子供の顔を見る。
「会えても、戻れない。それでもいい?」
子供は答えない。答える前に——
◇ ◇ ◇
視界が元に戻る。
私は庭に膝をついたまま、汗をかいている。心臓が激しく打っている。あれは誰の記憶だったのか。祖母は確かに祖母だった。では子供は? 私の母だろうか。それとも、全く別の誰か。
土の表面を見る。私の手の形が、土に刻まれている。手のひらの線まで、くっきりと。まるで、土が私の掌紋を読んでいるような。
もう一度、触れてみるべきだろうか。
いや、今日はこれ以上、過去を覗くべきではない。過去は甘い毒だ。少量なら薬になるが、過剰摂取すれば、現在から離れられなくなる。
私は立ち上がり、庭の手入れを始めた。
草を抜く。雑草ではなく、必要ない場所に生えた草。草に罪はない。ただ、場所を間違えただけだ。しかし場所を間違えるとは、存在を間違えることだ。私は丁寧に根を掘り起こし、別の場所に移植する。殺すのではなく、引っ越しを手伝う。
枯れた葉を集める。枯れるとは、色を失うことではない。枯れるとは、別の色になることだ。緑から、茶色へ。生から、死へ。しかし死は終わりではなく、変容だ。この葉はやがて土になり、新しい命を育てる。円環は閉じない。螺旋を描きながら、上昇する。
水をやる。じょうろを傾けると、水が糸を引いて落ちる。水滴は土に触れる直前、一瞬、空中で止まる。重力と表面張力が拮抗する、奇跡の一瞬。そして、水は土に吸い込まれる。土は喉が渇いていたのだ。
三時間が経過した。
私の手は泥だらけで、爪の中に土が入り込んでいる。膝は濡れ、額に汗が流れる。しかし不思議なことに、疲れていない。それどころか、エネルギーが満ちている。まるで、土から何かを吸収したように。
庭の端に、物置がある。
木製の小さな建物で、扉は半分開いている。私は今まで、中を見ていなかった。なぜなら、見る必要がないと思っていたから。しかし今、突然、見なければならないと感じる。これは理由のある衝動ではなく、理由そのものが衝動である感覚。
物置の扉を開ける。
中は薄暗く、埃の匂いがする。しかし埃の匂いの奥に、別の匂い。紙の匂い、インクの匂い、そして——時間の匂い。時間には匂いがある。古い時間は、甘く、重く、少し苦い。
棚には道具が並んでいる。スコップ、鋤、鋏、手袋。どれも使い込まれていて、持ち手の部分が滑らかだ。祖母の手の形に磨かれている。
奥の隅に、木箱がある。
箱の上に、埃が積もっている。しかし箱の一部だけ、埃がない。長方形に。まるで、最近まで何かが置いてあったように。
私は箱を開けた。
中には、ノートが三冊入っていた。茶色い革の表紙、金色の留め金。留め金に、小さな鍵穴がある。しかし鍵はかかっていない。私を待っていたように。
一冊目を取り出し、開く。
最初のページに、祖母の字で書いてある。
《庭師の規則》
第一条:土に触れる前に、許可を求めよ
土は生きている。無断で触れることは、眠っている人を叩き起こすことに等しい。
第二条:植物の名前を呼ぶな
名前は呪いだ。名前をつけた瞬間、それは分類され、理解され、支配される。彼らを自由にしておけ。
第三条:月の夜には、庭に出るな
月は別の太陽だ。月の光の下では、別の世界の規則が適用される。
第四条:枯れた植物を哀れむな
枯れるとは、次の形への移行だ。哀れみは、その移行を妨げる。
第五条:決して、血を土に落とすな
血は契約だ。一滴でも土に触れれば、あなたは庭の一部になる。
---
それ以降のページは、全て暗号だった。
いや、暗号ではない。これは別の言語だ。文字ではなく、記号。記号ではなく、図形。図形ではなく——何かもっと根源的なもの。見ていると、意味がわからないのに、何かが伝わってくる。脳ではなく、体が理解する。
最後のページに、一行だけ、普通の文字で書いてある。
---
『ローズマリーの根元に、全てがある』
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私はノートを閉じた。
手が震えている。恐怖ではない。興奮だ。それは、長い眠りから覚める時の、あの体の震えに似ている。
物置を出て、ローズマリーの木の前に戻る。
「あなたの根元に、何がある?」
私は木に訊いた。声に出して。もう、植物に話しかけることを恥じていない。恥は、他人の視線が作る感情だ。ここには他人がいない。いるのは、私と、木と、土だけ。
木は答えない。しかし、風が吹く。風は枝を揺らし、葉を震わせ、一枚の葉を落とす。葉は回転しながら落下し、根元の特定の場所を指す。
そこを掘れ、と。
私は物置からスコップを取り、指定された場所に刃を入れた。
土は柔らかかった。すでに誰かが掘り返したかのように。いや、土自体が退いてくれているかのように。私は深く掘った。膝まで、腰まで、胸まで。
そして、スコップが何かに当たった。
金属音。
私は手で土を払う。出てきたのは、小さな扉だった。十センチ四方。青銅製で、表面に文様が刻まれている。文様は、祖母のノートの暗号と同じだ。
扉には、取っ手がある。小指ほどの細いリング。
私は躊躇した。
開けるべきか。この扉の向こうに何があるのか、私にはわからない。しかし、わからないからこそ、開けなければならない。知らないことは、空白ではなく、可能性だ。
私はリングを掴み、引いた。
扉が開く。軽く、音もなく。
扉の向こうは、暗闇だった。しかし暗闇の奥に、微かな光。そして、階段。石でできた、狭い階段が、地下へと続いている。
階段は、私の体が通れるほど広くはない。しかし、縮めば通れるかもしれない。いや、縮むのではなく——私が小さくなる。
そう思った瞬間、体が軽くなった。
私は扉に足を踏み入れた。最初の一段を降りる。
瞬間、背後で音がした。
振り返る間もなく、扉が閉まった。
暗闇の中に、私は一人きりだった。いや、階段の下から、何かの気配がする。呼吸の音。それは、土が呼吸する音だ。大地の肺が、ゆっくりと膨らみ、縮む。
私には二つの選択肢がある。
引き返すか。しかし扉は閉まっている。
進むか。しかし先に何があるか、わからない。
結局、選択肢は一つしかなかった。
私は階段を降り始めた。
一段、二段、三段。
数えるのをやめた。数えると、距離を意識してしまう。距離を意識すると、恐怖が増す。
ただ、降りる。足を前に出す。それだけを繰り返す。
そして、十段目——いや、二十段目だったかもしれない——で、階段が終わった。
足が、平らな地面に触れる。
私は暗闇の中に立っている。目を凝らすと、微かに見える。
広い空間。天井が見えないほど高い。そして、植物だ。
無数の植物が、暗闇の中で光っている。
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