恋とレイシスト

えすてい

第1話 俺とれん


 光の速度は秒速二十九万九千七百九十二キロメートル。


 このスピードに追い付けるものはこの世に存在しない。


 風の音さえ飛び越えて、ビルの隙間を掻い潜り、輝く夜景を振り切った。わずかに鳴った鈴の音が、道行く人の耳に留まる。


「いま、何か」

「変な音……」


 聞こえてくるは、間抜けな言葉。過ぎ去る残像、殺した気配。手すりの上に両足乗せて、屋上から身をのりだしてみた。


「ここにいたのか」


 指で輪っかを作ったら、遠くの景色も引き寄せられる。小さくこぼした自分の呟き、風に流れて届くだろうか。


 暗い空に並んだ星が夜を突き抜け広がっていく。見上げるいとまも惜しいほどに胸に響いた早まる鼓動。


「ぜーったい、逃がさないよ」




◆◆◇◆◆




 終業を告げる号令。


 蝉のけたたましい声がまだ遠くに聞こえた。整髪剤と制汗剤の混じった匂い。お昼に残した甘ったるいペットボトル飲料の味が、舌の端にまだ居座っていた。


 制服越しに肩を叩かれ、俺は後ろを振り返る。


「凌くん、帰ろ!」


 愛くるしい声を掛けてきたのは同じクラスの女生徒。俺はいつかこの女に復讐したいと思っている。


 目立つことが苦手だという俺の話を無視してまで、堂々と大きな声で帰路を一緒にしようなどと軽はずみに言ってのけたのだ。


 もし万が一、司法の全権が俺の手に渡ったあかつきには、人間の想像を超えた未知の領域でさえ、恐怖に染めあげるほどの極刑を与えてやろう。


 帰り支度を始めたクラスの喧騒を、ものの見事に両断した白糸のような彼女の一声。


 俺はこれを生涯のトラウマとして、語り継いでいく所存だ。なに、語り継ぐのは来週からだ。


「男だったら、誰でもいいんだぁ」


 教室のどこかでぽつりと落とされた囁き。誰もそれが自分の言葉じゃないと暗に言い聞かせているのか、否定もしなければ肯定もしない。


 自然とそういう空気だけが広がる。

 ありもしない噂が、広がる。


「凌くん?」


 それさえも耳に届いていないのか、それか聞こうともしていないのか、どちらにもとれない彼女の相貌そうぼうは、もう一度俺に声をかけてきた。


 集まってくる注目から逃げるように、鞄を乱暴に担いで教室を出た。

 



「お前さ、ああいうの気にならないわけ?」


 昇降口まで降りた俺は、追いかけてきた彼女に尋ねる。


「待ってよ……急に出ていっちゃうなんて……」


 階段を急いで下ってきた彼女は、少し乱れた呼吸を胸に手をあて整える。


「気になるって……何が?」


 彼女のいたいけな瞳。

 とぼけたような顔をしやがって。


「もういい、あとお前とは帰らねぇ」

「なんでー! 家近いじゃん!」


 かたん、と下駄箱の蓋を静かに閉めた彼女は、外に出た俺に向かって強く叫んだ。


 姫野ひめのれん。バーチャルストリーマーみたいな名前をしたこの女は、俺の近所に住んでいる小学校からの幼馴染だ。


 近所づきあいも多かったせいか、休日でもよく顔を合わせる。「れんちゃんちと今度遊びに行くから、あんた予定空けておきなさい」と母親に言われ、家族ぐるみでキャンプやらスキーやらに連れていかれた。


 楽しかったはずの幼少期の思い出に、ヒョコヒョコとこいつの顔がちらつくのが邪魔でしょうがない。


 見た目はどちらかといえば普通だ。普通の女子高生。光の当たり具合や温度、湿度、気圧とかなんかその辺の諸々の条件が重なり合えば、可愛く見えないこともないし、美人だと感じるときもある……うん。


 いやすまん、それは嘘だ。少し見栄を張った。


 本当のことを言うと、俺はクラスのどの女子よりもこいつの容姿は優れていると思う。その……まあ、か、かわ、かわい、い……とまでは、思わなくもないこともないこともない。


 SNSに流れてくるようなガンガン加工しまくって美人を装う化け……いやこれは俺の意見じゃなくてあくまで一派論だぞ。そう言われてるってだけで他意はない。


 そんな加工をしなくてもふと目を留めてしまうくらいには、れんは綺麗だと思う。大きな瞳も、淡い唇も、明るい笑顔だって、一山いくらではない孤高の美麗さをたたえているのは間違いない。も、もういいだろ!


「お前さ、女子の友達いねぇだろ」

「え、えっと……いるよぉ」

「誰だよ」

「涼子さんとか……」


 俺の母さんじゃねぇか、とツッコミたくなるのを抑えて、軽くため息を吐き出した。


 れんは別に性格が悪いわけでも倫理観が終わってるわけでもない。


 誰かが落とし物をすれば声をかけてあげられる気さくさもあるし、落ち込んでいる人を慰められる慈しみも持っている。


 だけどれんはクラスで浮いていた。

 その理由というのも……。


「そんなことよりも凌くん……今日ひまでしょ? だから、その……おうち……来てほしいな」


 悩ましげな眉、その下にある澄んだ瞳。


 ああ、こいつがほんとに容姿だけ普通の女子高生だったら、どれほどよかっただろうか。


「おい……俺は……」


 できるだけ言葉を選んでやろうとしたんだが、そんな親切はおかまいなしに、れんは俺の腕を引いて走り出した。


 振りほどくこともできず、引きずられることもよしとしなかった俺は、ただれんに引かれるまま彼女の自宅まで連れてこられた。


 ばたん、と勢いよく閉められた扉。よく遊びに来ていたれんの家の匂い。まるで甘い果汁の洪水で浸され、脳の奥がぴりぴりと麻痺するような感覚。


 息せき切ったれんの吐息が間近に迫る。俺は後ずさりした拍子に玄関でつまずき、情けなく尻もちをついた。


「お、おい! 落ち着け! 早まるな!」

「もう待ちきれないんだよ、凌くん、全然その気になってくれないから……」


 手首を掴まれ、ふとももの上に体重をかけられた俺は、身動きが取れないまま接近するれんの顔から目を背けた。


 上気した頬。すいつくような瑞々しさ。ずっと見続けていると、理性に支障をきたしてしまいそうだ。


「やめろ!」


 甘い匂い。細い髪の毛が俺の顔に触れる。


「どうして嫌がるの? こういうの、好きなんでしょ?」


 硬い玄関の床に体を沈み込ませた俺は、無駄だと知りつつも必死の抵抗を見せた。


「好きなわけないだろ! 俺が好きなのは純愛ものだ!」


 何の話をしてるかって? 今はどうだっていいだろそんなこと!


「私の愛が……純粋じゃないって言いたいの?」

「そうだろ! だってお前……!」


 その瞬間、居間に繋がる廊下の戸が開いた。俺とれんは咄嗟に顔を上げる。


 上下さかさまになった視界の先に、涼子さん、じゃなくて俺の母親が立っているのが見えた。


「あ、ごめん、お邪魔しちゃったかしら」


 あなたの息子がよその人様んちで押し倒されているのになんだその反応は。相手が女の子だったら何されてもいいと思っているのか。あながち間違ってはいないけども。


「ご、ごめんなさい! いらっしゃってるとは思わず……!」


 ぴょんと俺の体の上から勢いよく跳び上がったれんは、壁際によって気まずそうに顔を赤らめた。


「いいのよそいつ、奥手だから。たまにはガツンとやっちゃいなさい」

「え、いいんですか?」


 いやだめだろ、何言ってるんだこの人。


「れんちゃん、だめでしょ。凌くんごめんなさいね、はしたない子で」


 母さんの隣からひょっこり顔を出したのは、全然年相応じゃないこの家の主、れんの母親だ。


 れんの顔はこの母親あってのものだろう。そう感じずにはいられないくらい、この親子の顔は整っていて、よく似ている。


「お母さん、今日いないって……!」

「あ、ごめんごめんうっかりしてた。んー今からでも間に合うかしら?」


 俺はその言葉を背中に受けてすでに走り出していた。


 認めない、俺は絶対にこの家族公認幼馴染設定とかいう市場価値の塊しかないれんのことを、認めないからな。


「待って! 凌くん!」


 だって、だってこいつは。


 走る俺の頭上に、うっすらとした影が覆い被さった。


 彼女の細い肢体から伸びる、蝙蝠こうもりのようなギザギザの羽。背後から抱きしめられた瞬間に、頭の奥から甘い匂いが広がっていく。


 幼馴染の姫野れんは、見た目は普通の女子高生だが、男を不思議な力で虜にしてしまう、淫魔サキュバスなのだ。

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