『クロノス・ディレイ』―警視庁の「鉄の女」、呪いで幼女化しても5分だけ最強―

希(のぞむ)と紡(つむぐ)

第1話 エース刑事の転落、あるいは10歳の少女への変貌

 雨がアスファルトを叩いている。


 赤と青のパトランプが、濡れた路面で乱反射し、規制線の向こう側の野次馬たちの顔を不気味に照らしていた。


「おい、下がれ! 危険だ!」


「被疑者は刃物を所持している! 応援はまだか!」


 制服警官たちの怒号が飛び交う。その中心で、薬物中毒とおぼしき大男が、肉切り包丁を振り回して奇声を上げていた。


 男の足元には、すでに二人の警官が転がっている。これ以上近づけば、間違いなく被害が出る。現場は膠着し、恐怖が空気を支配していた。


 その淀んだ空気を切り裂くように、硬質なヒールの音が響いた。


 カツ、カツ、カツ。


 リズムは一定。躊躇いも、恐怖の色も、微塵も感じさせない足音だった。


「……おい、あれは」


「捜査一課の……『鉄の女アイアン・レディ』だ」


 警官たちが道を空ける。


 現れたのは、仕立ての良い黒のトレンチコートを纏った長身の女だった。たちばな冴子さえこ。年齢は二十八。


 彼女は凶悪犯が刃物を振り回す現場に、まるでコンビニにでも立ち寄るような気安さで歩み寄っていく。その左耳には、ワイヤレスイヤホンが装着されていた。


「ええ、土岐とき。資料はデスクに置いておいて」


 彼女は通話中だった。目の前の男が「死ねぇ! アマがァ!」と叫びながら突進してくるのを見ても、眉一つ動かさない。


「今日の晩飯? ……そうね、帰りにコンビニで適当なものを買うわ」


 男の包丁が、冴子の喉元へと迫る。周囲の警官が悲鳴を上げた瞬間、世界がコマ送りのように見えた。


 冴子は通話を切ることなく、わずかに半身をずらして刃を回避すると、男の手首を逆手に取った。


 ボキリ、という湿った音。


 男が悲鳴を上げる間もなく、彼女はヒールの鋭利なかかとで、男の膝関節を正確に踏み抜いた。


「ガアアアッ!?」


「……うるさいわね。今、仕事の話をしてるの」


 巨体が崩れ落ちる。冴子は地面に這いつくばる男の後頭部を靴底で踏みつけ、完全に沈黙させた。


 一瞬の出来事だった。


 雨音だけが残る静寂の中、冴子は冷徹な声で通話相手に告げる。


「ごめん、少し騒がしかったわ。……ああ、ゴミ掃除は終わった。すぐに戻る」


 彼女は橘冴子。警視庁で最も優秀で、最も冷酷な、「鉄の女」と呼ばれる刑事。この街の悪を掃除する絶対的な捕食者。


 ――この夜までは、そうだった。


 ◆ ◆ ◆


 日付が変わる頃、冴子は港湾地区にある廃ビルの地下にいた。


 最近多発している「少女失踪事件」。その現場に残されていた微細な青い粉末――人間界のものではない魔力マナの残滓を追い、単独でこの場所へたどり着いたのだ。


「土岐、聞こえるか」


『はい、橘さん。ですが、そこは管轄外です。応援を待ったほうが……』


「待っていたら証拠を消されるわ。回線を開いておいて」


『しかし、単独では危険すぎます! 手順を守ってください!』


 土岐の必死な声を、冴子は鼻で笑った。


「手順? 現場を知らないキャリア組のマニュアルなんて役に立たない。それにね、土岐。この濃度の魔力汚染コンタミネーションに耐えられるのは、一課でも私だけよ」


 彼女はためらいなく、立ち入り禁止のテープをくぐった。


 自分は特別だ。この街の闇を誰よりも理解し、支配しているのは自分だという、絶対的な自負。――それが、致命的な隙であるとも気づかずに。


 廃ビルの奥から、かすかに啜り泣く声が聞こえる。


 「助けて……ママ……」


  冴子の足が止まる。


 (罠だ)


 プロの理性が警告する。魔力反応があるのに、子供の声がクリアすぎる。誘い込みだ。だが、冴子の脳裏に、かつて救えなかった「あの笑顔」がフラッシュバックする。


「……チッ。趣味の悪い誘い方ね」


 彼女は知っていた。踏み込めば危険だと。


 それでも、万が一、本当に子供がいたら? 彼女はセーフティを外し、あえてその暗闇へと足を踏み入れた。


 しかし、部屋の中には誰もいなかった。あるのは、床一面に描かれた巨大な時計の文字盤のような模様と、中央に置かれた椅子だけ。


 いや、違う。


 冴子の肌が粟立った。長年の勘が警鐘を鳴らしている。ここはアジトではない。ここは――捕食者の「巣」だ。


「……ッ!」


 退がろうとした瞬間、背後の扉が轟音と共に閉ざされた。床の文字盤が青白く発光する。


適合者サンプル、確認』


 どこからともなく、無機質な声が響いた。それはスピーカー越しの声ではなく、脳に直接響くような、粘着質な魔力の波動だった。


「誰だ! 姿を見せろ!」


『計測開始。術式、執行クロノス・ディレイ


 冴子は引き金を引いた。だが、銃弾は空中でピタリと静止し、カランと乾いた音を立てて床に落ちた。物理法則が無視されている。


 次の瞬間、視界がぐにゃりと歪んだ。


 激痛。全身の骨がきしむ音。筋肉がねじ切れるような感覚。まるで巨大な万力で全身を圧縮されるような圧力が、冴子の意識を塗りつぶしていく。


「ぐ、あ……ぁぁぁ!!」


 視界がぐにゃりと歪み、床が急速に競り上がってくる。いや、違う。私が沈んでいるのだ。


 右手に握っていた愛用の拳銃が、急激に重くなる。指が、グリップに届かない。トリガーにかかっていた指が滑り落ち、鉄の塊と化した銃が、支えきれずに手からこぼれ落ちた。


 ガシャッ。


 床に落ちた銃が、とてつもなく巨大に見えた。まるで子供が、親の道具を盗み見た時のような、圧倒的なサイズ差。


 意識が、闇に溶ける。最後に感じたのは、誇り高い「鉄の女」のコートが、今の自分には重すぎる毛布のようにのしかかる、情けない感覚だけだった。


 ◆ ◆ ◆


 冷たい。頬に当たる雨の冷たさで、冴子は目を覚ました。


 目を開けると、そこは薄汚れた路地裏だった。鼻をつく生ゴミの臭い。頭が割れるように痛い。


 何が起きた? 私は撃たれたのか?  冴子は身を起こそうとして、よろめいた。


 体が重い。いや、正確には「衣服が重い」。愛用していたオーダーメイドのトレンチコートが、まるで布団のように体にまとわりつき、袖は指先のはるか先まで垂れ下がっている。


「……何よ、これ……」


 口から出た声を聞いて、冴子は息を呑んだ。


 高い。あまりにも幼く、頼りない声。心臓が早鐘を打つ。嫌な予感が全身を駆け巡る。彼女は震える手で、近くの水たまりを覗き込んだ。


 街灯の薄明かりに照らされた水面に、見知らぬ少女が映っていた。黒髪のショートボブ。大きな瞳。真っ白な肌。年齢は十歳前後だろうか。


 その少女は、冴子と同じように呆然と口を開け、冴子と同じタイミングで自分の頬に触れた。


「嘘……でしょ……」


 これが私?  橘冴子? 混乱する思考を、プロの理性が必死に繋ぎ止める。


 状況を整理しろ。魔術的な攻撃を受けた。その結果、肉体が幼児化した。あるいは認識阻害か?  どちらにせよ、ここは危険だ。敵が近くにいるかもしれない。


 警察だ。本庁に戻らなければ。


 冴子はブカブカのコートの裾を引きずりながら、路地を抜けた。大通りに出ると、見慣れたパトカーが赤信号で停車しているのが見えた。中には制服警官がいる。助かった。冴子はパトカーに駆け寄り、窓を叩いた。


「おい! 緊急事態だ! 私は捜査一課の橘だ!」


 自分では叫んだつもりだった。だが、窓を開けて顔を出した警官の反応は、冴子の予想とは違っていた。


「はいはい、どうしたのお嬢ちゃん。迷子かな?」


 警官は、雨に濡れた子犬を見るような、慈悲深く、そして圧倒的に「上から」の目線で冴子を見下ろしていた。


 違う。私はお嬢ちゃんじゃない。刑事だ。


 冴子は警察手帳を取り出そうと懐に手を入れたが、そこには広すぎる内ポケットがあるだけで、手帳も拳銃も消えていた。体と一緒に、装備も失ったのか。


「違う! 警視庁に連絡を……!」


「お母さんは? 怪我はない? とりあえず署でお話聞こうか」


 警官がドアを開け、手を伸ばしてくる。その手が、異常なほど大きく見えた。大人の男の手。かつては容易くねじ伏せてきたはずのその手が、今の冴子にとっては、怪物の爪のように恐ろしく映る。警官の手が、冴子の二の腕を掴んだ。


「――ッ! 離せ! 公務執行妨害だぞ!」


 冴子は抵抗した。関節技を決めようと身を捩る。だが、びくともしなかった。警官は軽く力を込めただけで、冴子のすべての抵抗を封じ込めたのだ。物理的な力の差。圧倒的な質量差。


(嘘だろ……動かない……!)


 恐怖が、理性を塗りつぶしていく。このまま連れて行かれたらどうなる? 身元不明の迷子として保護される? 精神異常者扱いで施設送りか?  それとも、この警官も敵の息がかかっていたら――?


 殺される。この無力な体では、何もできずに殺される。


「嫌だ……離して!!」


 冴子は無我夢中で、警官の手首に噛みついた。全力で。獣のように。


「いっ、たぁぁぁ!!」


 警官が悲鳴を上げ、反射的に手を離した。その隙を見逃さず、冴子は脱兎のごとく走り出した。背後で「待て!」「おい!」という怒号が聞こえるが、振り返らない。


 重たいコートが雨水を吸って足に絡みつく。息がすぐに切れる。心臓が破裂しそうだ。


 路地裏の暗闇に逃げ込み、ゴミ箱の陰にうずくまる。ハァ、ハァ、という荒い呼吸だけが響く。雨に打たれながら、冴子は震える自分の手を見た。小さく、白く、何の力もない手。


(私は……刑事じゃなくなった)


 巨大なビル群が、墓標のように彼女を見下ろしている。昨日まで自分が守ってきた街が、今は巨大な迷宮となり、牙を剥いて襲いかかってくる。彼女は唇を噛み締め、膝を抱えた。


 鉄の女は死んだ。ここにいるのは、ただの無力な獲物だけだ。


 だがその時、雨音に混じって、アスファルトを叩く硬質な足音が聞こえた。警察ではない。もっと軽く、優雅なリズム。冴子が顔を上げると、暗闇の中に人影がたたずんでいた。


「無様だな、橘冴子」


 嘲笑を含んだ、中性的な声。それが、彼女の運命を変える契約の始まりだった。

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