第12章「二人と、一人」
第12章「二人と、一人」
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その夜、俺は眠れなかった。
布団の中で、何度も寝返りを打つ。目を閉じても、瞼の裏が妙に明るい。胸の奥に、名前のつかない違和感がこびりついていた。
嫌な予感、というのとも違う。もっと漠然とした——何かが、ずれている感覚。
隣の部屋で、ユナが寝息を立てている。
穏やかな音。いつもなら、それを聞いているうちに眠くなるのに。
今夜は、駄目だった。
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水を飲もうと思って、部屋を出た。
廊下を歩いていると、居間から声が聞こえた。
父さんと、母さんの声だ。
こんな時間に何を話してるんだろう。
足が、勝手に止まった。
「——だから、あたしが——」
母さんの声。いつもと違う。
低くて、硬い。
「——できたって——」
父さんの声。
掠れている。
——背筋が、冷たくなった。
理由は分からない。ただ、体が「聞くな」と叫んでいる。なのに、足が動かない。そこから一歩も、動けなかった。
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「——子ども、できたの」
母さんの声が、はっきり聞こえた。
「……ああ」
「何ヶ月?」
「二ヶ月くらいだと」
——頭が、真っ白になった。
子ども?
誰の?
母さんがまた妊娠したのか? でも、それなら父さんがこんな声で——
「そう」
椅子を引く音。
母さんが立ち上がったらしい。
「顔、上げて」
沈黙。
そして——
パァンッ!
乾いた音が、夜の静寂を切り裂いた。
息が、止まった。喉の奥が詰まる。心臓が、痛いくらいに跳ねている。
今の音は。
平手打ち。
母さんが、父さんを——。
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「これで終わり」
母さんの声が聞こえた。
「叩くのは一回だけ。それ以上は、子どもたちに顔向けできないでしょう」
「……」
「私ね、覚悟してたのよ」
母さんの声は、不思議なほど穏やかだった。
穏やかなのに——その下に、どれだけのものを押し殺しているのか。声を聞いているだけで、分かってしまった。
「あなたが女好きなのは、結婚する前から知ってた。いつかこうなるかもって、どこかで思ってた」
女好き。
いつかこうなる。
——ああ。
分かってしまった。分かりたくなかったのに。
父さんが、浮気をしていた。
相手の女の人が、妊娠した。
「だから、泣かないって決めてた。そういう男を選んだのは、私だもの」
母さんの声が、壁越しに聞こえてくる。
泣かないと言いながら——その声が、僅かに震えていた。気づいたのかもしれない。気づかないふりをしているのかもしれない。俺には、分からない。
「ただし」
母さんの声が、鋭くなった。
「責任は取りなさい。全部。その人と子どもの面倒を見なさい。お金も、生活も。逃げることは許さない」
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気づいたら、壁に背中をつけていた。
いつの間にか、そうなっていた。足から力が抜けて、立っていられなかった。
壁に寄りかかったまま、ずるずると座り込む。
「私は離縁しない。ハルとユナから父親を奪うつもりもない」
俺の名前が出た。
心臓が、ぎゅっと握り潰されるみたいに痛んだ。
「でも、あなたが逃げたら、その時は——、あなたを軽蔑するわ。一生」
沈黙が落ちた。
長い、長い沈黙。
俺は、音を立てないように、自分の部屋に戻った。
——戻ったつもりだった。
でも、手が震えていて、襖を閉める時に微かな音を立ててしまった。
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布団に潜り込んで、目を閉じた。
閉じても、さっきの会話が頭から離れない。
父さんが、浮気していた。
母さん以外の女の人と、関係を持っていた。
その人との間に、子どもができた。
母さんは、平手一発で終わらせた。
——どうして、そんなことができるんだ。
怒りが湧いた。父さんに対して。
でも同時に、母さんへの感情が、分からなくなった。
あれは強さなのか。それとも、諦めなのか。
怒らないことが、許すことになるのか。許さないと言いながら、傍にいることを選んだのか。
分からない。
分からないまま、頭がぐちゃぐちゃになっていく。
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(……父さん)
怒っている。
裏切りだ。母さんを傷つけた。家族を裏切った。
——なのに。
どこかで、父さんの気持ちが分かる自分がいた。
分かってしまう自分が、気持ち悪かった。
父さんは、その女の人のことも好きだったんだろう。
好きになってしまった。止められなかった。
結果、母さんを傷つけた。
俺は——。
目を閉じると、二人の顔が浮かんでくる。
金髪のティナ。
「あたし、負けないから」
黒髪のサヤ。
「足手まといだ」
——二人とも、好きだ。
どっちか一人なんて、選べない。選びたくない。
(……俺は、父さんと同じか?)
胃の底が、冷えていく。
同じだ。二人を好きになっている。どちらかを選んで、どちらかを捨てることができない。
父さんと、何が違う?
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——違う。
違うと、思いたい。
父さんは、隠れてやった。母さんに黙って、別の女の人と関係を持った。だからこうなった。
俺は、そうはしない。
したくない。
でも——じゃあ、どうすればいい?
前世のことを思い出した。
七十二年間、誰にも告白できなかった。
好きな人はいた。何人かいた。でも、振られるのが怖かった。傷つくのが怖かった。だから、何もしなかった。
何もしないまま、七十二年が過ぎて、一人で死んだ。
最後に思ったのは——「ハーレムしたかった」。
馬鹿みたいな願望だ。何もしなかった奴が、何を言ってるんだと思う。
でも、本心だった。
好きな人に囲まれて、愛されて、愛して。
そういう人生が欲しかった。
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今世は、違う。
俺には才能がある。努力もしている。ティナもサヤも、俺のことを見てくれている。
そして——この世界には、前例がある。
力のある男なら、複数の妻を持つことができるという話も聞いた。
前世とは、何もかもが違う。
だから——
だから、何だ?
だから、俺は父さんと違うと言えるのか?
——言えない。
今の俺は、父さんと同じ場所に立っている。
二人を好きになって、選べなくて、どうすればいいか分からない。
でも。
父さんは隠れてやった。俺は、そうしない。
父さんは母さんを傷つけた。俺は——傷つけたくない。
(堂々と、やる)
その考えが、ふっと浮かんだ。
隠さない。誰にも後ろめたくない形で、全員を愛する。
難しいのは分かってる。力がなければ許されない。誰にも文句を言わせないくらい、圧倒的な存在にならなきゃいけない。
でも——
(不可能じゃない)
俺もなれる。なってみせる。
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布団の中で、手を握りしめた。
汗ばんでいる。震えている。
本当にできるのか分からない。
父さんみたいになるんじゃないかと、怖い。
母さんみたいに誰かを傷つけるんじゃないかと、怖い。
——でも。
何もしないよりは、マシだ。
前世みたいに、何もせずに終わるのだけは、嫌だ。
ティナを幸せにする。
サヤを幸せにする。
まだ見ぬ誰かも、幸せにする。
そのために、もっと強くなる。もっと賢くなる。もっと稼げるようになる。
父さんみたいに、隠れてやるんじゃない。
堂々と、認めさせる。
そうすれば——
誰も傷つけなくて済む。
済むと、信じたい。
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窓の外が、うっすら明るくなり始めていた。
一睡もできなかった。
でも、不思議と頭は冴えている。冴えているというより——空っぽになったような、奇妙な感覚だった。
さっきまでの葛藤が、まだ胸の中でくすぶっている。
本当にできるのか。父さんと何が違うのか。
答えは出ていない。
出ていないけど——立ち止まっていたら、何も変わらない。
(今日から、やる)
修行をもっと真剣にやる。ティナとの約束も、サヤとの再会も、全部本気で向き合う。
何年かかるか分からない。何十年かかるかもしれない。
でも、諦めない。
前世の後悔を、繰り返さないために。
好きな人を、一人も失わないために。
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朝になった。
居間に行くと、父さんと母さんがいた。
二人とも、いつも通りに見えた。父さんは少し疲れた顔をしていたけど、母さんは穏やかに笑っている。
——嘘だ。
いつも通りなんかじゃない。
昨夜のことを、俺は知っている。母さんの声が震えていたことも、父さんが黙り込んでいたことも。
でも、二人は俺の前では「いつも通り」を演じている。
俺とユナのために。
「おはよう、ハル。よく眠れた?」
「……うん」
嘘をついた。
でも、聞いていたとは言えない。言うべきじゃない。
二人が俺たちに隠そうとしているなら——俺も、知らないふりをする。
「今日も修行?」
「うん。ティナと約束してるから」
「そう。頑張ってね」
母さんが、俺の頭を撫でた。
その手が、少しだけ冷たかった。
昨夜、眠れなかったんだろう。泣いたのかもしれない。
——でも、母さんは笑っている。
俺のために、笑ってくれている。
喉の奥が、きゅっと詰まった。
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家を出る時、振り返った。
父さんと母さんが、並んで立っている。
二人の間に、昨夜の会話の重さがある。見えないけど、確かにある。
でも、二人は笑っている。
俺とユナのために、笑ってくれている。
(……ありがとう)
心の中で、そう思った。
(俺は、父さんみたいにはならない)
なりたくない。
なるかもしれない。分からない。
でも——なりたくないと思うことだけは、やめない。
俺は走り出した。
ティナが待っている場所へ。
冬の朝の空気が、肺に冷たかった。
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【第12章 終】
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