第10話 声を奪われた男
世界は、きれいごとで出来てはいない。
きれいごとで出来ていない世界を、それでもなんとか保つために――
今日もまた、誰にも知られない仕事が、静かに進んでいく。
◆
「……まあ、よかったじゃないですか。仕事も戻れそうなんでしょ?」
居酒屋の半個室。
薄暗い照明と、油の匂いと、こもった笑い声。
佐久間翔は、グラスを指で回しながら、向かいの同僚の顔を見て笑っていた。
「“よかった”ねえ……。まあ、不起訴って言ってもさ、会社的には“当面は様子見”って感じでさ。規模縮小部署に飛ばされるかもだし」
「でもさ、ニュース見たけど、あれ完全に“恋人トラブル”じゃん。“監禁”とか、マスコミが誇張してるだけでしょ?」
同僚のひとりが、串をかじりながら言う。
「女の子もさ、“メンヘラっぽい”ってコメント多かったじゃん。“どっちもどっちだったんじゃない?”って」
「……まあ、あいつも、かなり情緒不安定ではあったけどな」
佐久間は、わざとらしくため息をつき、眉尻を落とした。
「俺もさ、あのときは本当に追い込まれてて。“別れたい”“死にたい”って毎日言われたら、誰だっておかしくなるだろ。……だからって、やったことが消えるわけじゃないけどさ」
自分を責めているような響き。
しかし、その奥にあるのは、「それでも仕方なかった」という言い訳のほうだ。
「マスコミもひどいよなー。“モラハラ男”とか“DV彼氏”とか、好き放題書いてさ。仕事まで失いそうになってんの、こっちなのに」
「ほんとそれ。“被害者様”ばっか守って、男側の人生はどうでもいいのかよって感じ」
同僚たちの言葉は、酒の勢いもあってどんどん先鋭化していく。
佐久間は、否定しない。
ただ、「いやいや」と手を振り、謙遜するふりを続ける。
「俺も悪かったよ。本当に。それはわかってる。だからこそ、反省してる。ちゃんと治療も受けるし、カウンセリングも……」
――「反省している男」の役を、完璧に演じきっている。
彼自身、そのことを自覚してはいない。
ただ、「そうしている自分」に酔っていた。
◆
店を出る頃には、終電が近かった。
寒気が増した夜風が、赤らんだ頬を撫でる。
「タクシー拾ってくわ」
「おう、送ってくれてありがとなー。なんか、話聞いてもらって、少し楽になったわ」
別れ際、佐久間は、わざとらしく頭を下げる。
同僚のひとりが、肩をぽんと叩いた。
「翔は悪くないって。……まあ、悪く“なかった”は言い過ぎか。ちょっとだけ悪かった。でも、それ以上叩かれる必要はないって」
「はは。フォローになってるのかわかんねえけど、ありがと」
軽口を交わして、彼らは散っていく。
駅から少し離れた路地へと、佐久間はひとりで歩き出した。
マンションまでの近道。
大通りより暗いが、その分、信号待ちも少ない。
ポケットの中でスマホが震えた。
――《未読メッセージ:1》
画面には、知らない番号からのSMS。
《東京地検 担当検事の補助者です。先日の事件について、処分に関わる内部説明を、被疑者の方にも共有することになりました。明日以降、短時間で結構ですので、お話を伺える時間を……》
「……は?」
足を止めて、短い文面を読み直す。
続けて、その番号から電話がかかってきた。
着信表示:〈非通知〉。
佐久間は、一瞬迷ってから、通話ボタンを押した。
「もしもし」
『夜分に失礼いたします。佐久間翔さんでいらっしゃいますか』
落ち着いた男の声。
年齢は、三十代後半から四十代前半といったところか。
「そうですけど」
『東京地方検察庁で、事務方をしております、三木と申します』
「……三木さん」
聞き覚えのない名前。
しかし、「東京地検」という言葉に、自然と背筋が正された。
『先ほど、お送りしたメッセージ、ご覧いただけましたか』
「ああ、はい。なんか、“内部の説明”とかって……」
『ええ。今回の不起訴処分についてですね。佐久間さんの側にも、きちんと“どういう評価がなされたのか”をお伝えする機会を設けるように、という話が出ておりまして』
一見、もっともらしい説明だった。
佐久間は、眉をひそめる。
「そんなこと、初めて聞きましたけど」
『通常はやりません。ただ、ここ最近、“性加害”に関する不起訴事案の扱いについて、かなり世間の目も厳しくなっておりまして。内部のガイドラインの一環とお考えください』
「なるほど……」
納得したわけではない。
ただ、「そういうこともあるのか」と思わせる程度の説得力はある。
『もちろん、強制ではありません。ただ、佐久間さんご自身も、“きちんと向き合いたい”とお考えなのであれば、一度お時間をいただければと』
“きちんと向き合いたい”。
会見で自分が口にしたフレーズ。
その言葉を、そっくりそのまま返される。
「……わかりました。いつ、どこに行けばいいですか」
『明日以降でも構いませんが、お時間が合うようでしたら、これから近くの場所で、短時間だけでも』
「今から?」
『はい。検察庁本館は閉まっておりますので、近くの臨時スペースを借りております。個別の事情もありますし、“人目につかない場所”のほうがよろしいかと』
その配慮は、佐久間にとって都合がよかった。
これ以上、メディアに撮られるわけにはいかない。
「……どこです?」
『地検の裏手に、古い事務所ビルがあります。位置情報をお送りしますので、ご確認ください』
ほどなくして、地図アプリにピンが打たれた。
東京地検の裏手の細い路地。
そこに、古びた四階建ての雑居ビルが表示されている。
『入口でお待ちしています。青いネクタイをしている男がいたら、それが私です』
「わかりました」
通話が切れる。
佐久間は、しばらく画面を見つめてから、鼻で笑った。
「……“説明”ねぇ」
心のどこかで、まだ「自分は冤罪ではないか」という思いが燻っている。
不起訴。
無罪ではない。
でも、“クロだと証明できなかった”という意味でもある。
曖昧なまま終わった線引きを、もしかしたら有利に解釈し直せるかもしれない。
(内部資料の扱いとか、情報の残り方とか、うまく聞き出せば……)
彼は、自分の立場を少しでも有利に運べる“何か”を期待していた。
◆
雑居ビルの入口は、夜になるとほとんど人気がなかった。
一階はシャッターの下りたクリーニング店。
二階以上は、テナント名のプレートがところどころ剥がれかけている。
佐久間が近づくと、ビルの脇でひとりの男が立っていた。
黒のコート。
青いネクタイ。
折りたたんだ書類ケース。
――真宮秋也。
ただの“事務官”に見えるように、表情は柔らかく、佇まいは控えめに整えられている。
「佐久間翔さんでいらっしゃいますね」
にこり、と、どこに出しても恥ずかしくない公務員の笑顔。
「東京地検の三木です。お忙しい時間に、ありがとうございます」
「あ……どうも」
佐久間は、頭を下げる。
「場所、ここで合ってます?」
「ええ。簡単な打ち合わせスペースとして、今日だけ管理権をお借りしています。中へどうぞ」
エントランスの鍵を開け、非常階段脇の扉を押し開ける。
薄暗い廊下と、古いエレベーター。
「三階です。少し古い建物なので、お足元お気を付けください」
エレベーターは使わず、階段を上る。
階段の踊り場には、廃棄された事務机が積まれていた。
非常灯だけが、ぼんやりと緑色の光を落としている。
「この建物、昔は法律事務所が入っていたそうですが、今はもうほとんど空でしてね」
「へえ……」
誰もいない階。
人気のない廊下。
佐久間の中に、わずかな警戒が芽生えかけて――
同時に、「まあ、地検が使うならこういう場所か」と自分を納得させる声も湧いてくる。
“地検”という言葉が、それだけで現実味を与えていた。
◆
三階の一番奥のドアが開く。
中は、小さな会議室のような空間だった。
折りたたみテーブルがひとつ。
パイプ椅子が二脚。
壁際には、配線の抜かれたコピー機。
「こちらへどうぞ」
秋也は、先に入ると、部屋の奥の壁にさりげなく背を向けた。
佐久間が中に足を踏み入れた瞬間――
扉が背後で静かに閉まる。
カチリ、と、鍵のかかる音。
「……?」
振り返ろうとしたときには、もう遅かった。
肩口に、冷たい何かが触れた。
次の瞬間――全身が、内側から硬直する。
「――っ……!」
声にならない声が喉に張り付く。
膝が折れ、視界がぐらりと揺れた。
「安心してください。致死的な電流ではありません」
耳元で、静かな声。
さっきまでの柔らかい口調と、ほとんど変わらない響きなのに――
そこから、さっきまでの温度がすべて失われていた。
「少しだけ、動いていただけなくなるだけです」
その言葉どおり、数秒の内に、佐久間の体から力が抜けていった。
腕も、脚も、うまく動かない。
舌も重く、言葉がまともに出ない。
視線だけが、辛うじて動いた。
床に倒れ込んだ自分の側にしゃがみ込む、黒いコートの男。
さっきと同じ顔。
さっきと同じ笑み。
なのに、その目だけが――氷のように冷たかった。
「はじめまして、佐久間翔さん」
静かな自己紹介。
「警視庁捜査一課管理官、真宮秋也と申します」
◆
目が覚めたとき、天井が近かった。
古い建物特有の、低い天井。
蛍光灯の白い光が、ぼんやりと視界の端に滲んでいる。
体を動かそうとして、動かないことに気づく。
両腕と両脚が、何かに固定されていた。
ベルトのようなものが、関節のすぐ上をしっかりと押さえている。
横たわっているのは、簡素なベッド。
病院用にも似ているが、どこか即席の印象がある。
「お目覚めですね」
視界に、スーツ姿の男が入ってきた。
真宮秋也。
淡々とした目つきで、佐久間を見下ろしている。
「……な、に、これ……」
喉から出た声は、自分でも驚くほどかすれていた。
舌がしびれている。
頭の奥が、じんじんと重い。
「少しだけ、薬を使いました。筋肉の緊張を和らげるものと、意識レベルを調整するものです」
秋也は、淡々と説明する。
「恐怖で暴れられると、こちらも困りますので」
「お、前……警察、って……」
「ええ。先ほど申し上げたとおりです」
彼は、自分の胸元の内ポケットから、警察手帳を取り出して開いてみせた。
そこには、正式な身分証明が収められている。
もちろん、佐久間には、本物かどうかを確かめる術はない。
だが、精巧な造りと、迷いなく掲げる仕草だけで――その現実味は十分すぎるほどだった。
「“地検の三木”は?」
「あれは方便です」
あっさりと切り捨てられる。
「あなたをここへ連れてくるための、都合のいい肩書きが必要でした」
「……誘拐、だぞ……これ……」
「ええ」
秋也は、微笑んだ。
「立派な犯罪です」
あまりにも素直な肯定。
佐久間は、一瞬、言葉を失った。
「だったら……警察庁に……いや、マスコミに……」
「どこにも届きませんよ」
穏やかな声が、淡々と現実を告げる。
「ここにあなたがいることを知っているのは、今、この部屋にいる二人だけです」
佐久間の心臓が、どくりと跳ねた。
脳裏に、「最悪の想像」が一瞬で駆け巡る。
「ま、待てって……! 俺、そんな、“殺されるようなこと”は――」
「“殺されるようなこと”ではない」
秋也の声が、少しだけ低くなった。
「“すでに殺したことがある”のです、あなたは」
「……は?」
「あなたの恋人だった女性は、まだ生きています」
静かな一文。
安堵と困惑が、同時に胸に湧き上がる。
「……じゃあ、やっぱり、“大したことじゃない”って――」
「ですが、あなたは一度、“彼女”を殺そうとした」
秋也は、言葉を遮る。
「監禁。暴力。性的な強要。逃げようとしたときの追い込み。そして、自殺に追い込むほどの心理的支配」
淡々とした列挙。
「救命救急の医師にとって、彼女は“自殺未遂患者”かもしれませんが、警察の立場から見れば、あれは“未遂殺人”です」
「未遂、だろ……? 結局、“死んでない”んだ」
佐久間は、荒い息のまま、必死に言い返した。
「だから、ちゃんと反省して――」
「反省?」
秋也が、目を細める。
「あなたは、何に反省しているのですか」
「何って……! 彼女を傷つけたことに……」
「“傷つけてしまったこと”に、ですか」
一語、一語、区切るように。
「それとも、“こんな騒ぎになってしまったこと”に、ですか」
「両方だよ!」
叫んだつもりが、掠れた声でしか出ない。
「俺だって、あんなつもりじゃなかった! あいつがあそこまで追い詰められるなんて思わなかった! だから今、こうして――」
「“だから今、こうして反省している自分”を、必死に守っているだけに見えます」
容赦のない断言。
「あなたは、“悪いことをした”とは思っているでしょう。
ですが、“自分が悪い人間だ”とは、まったく思っていない」
「当たり前だろ!」
反射的な言葉。
佐久間自身、それが本音だと気づいて、口を噤んだ。
「俺は……普通だ。仕事もちゃんとしてる。友達だっている。ちゃんと彼女のこと、好きだった。……ただ、ちょっと、行き過ぎたところがあっただけで」
「“ちょっと”」
秋也は、静かに繰り返した。
「あなたにとっては、“ちょっと”」
胸の奥で、「かちり」と何かが噛み合う音がした気がした。
左目の下まぶたが、さりげなく震える。
「では――最後に、ひとつだけ、お伺いしてもいいですか」
「……なんだよ」
「あなたは、今でも、“本当は悪いのはあの子のほうだ”と思っていませんか」
問われて、佐久間は、一瞬だけ視線を逸らした。
否定しようと口を開き――
言葉が、喉の手前で詰まる。
脳裏に浮かぶのは、彼女の泣き顔。
『ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい』
何度も何度も、自分に謝っていた。
謝らせていた。
あの時、自分は、何を思っていたか。
(やっと、わかってくれた)
(やっぱり悪いのは、お前のほうだろ)
――その“実感”が、あまりにも鮮明に蘇ってくる。
佐久間の口元が、わずかに歪んだ。
「……あいつも、悪かったろ」
かろうじて絞り出した声。
「俺だけが一方的に悪いみたいな言い方、やめろよ。あいつが嘘ついたり、浮気疑ったりしてこなきゃ、俺だってあそこまで――」
「ありがとうございます」
そこで、秋也がふっと表情を緩めた。
「おかげで、はっきりしました」
「……は?」
「あなたに、言葉は必要ありません」
淡々とした、宣告。
◆
秋也は、テーブルの上に置かれた小さなケースを開いた。
中には、極端に細い金属の棒が数本。
先端は尖っているが、鋭利さを感じさせない、医療用の器具。
佐久間は、その意味を理解できずに、ただ目で追う。
「心配なさらなくて大丈夫です。派手なことは、何もしません」
秋也は、道具を一本手に取る。
「あなたのような方には、少しだけ“静かな終わり方”が、似合うと思いました」
「ま、待てって……! お前、自分が何しようとしてるかわかってんのかよ!」
「もちろんです」
秋也は、ベッドの頭側に回り込み、佐久間の顔を覗き込んだ。
「私は今から、“誰にも必要とされていない音”を、この世界からひとつ減らします」
「……は?」
「あなたの声です」
短く、簡潔に。
その意味がわかった瞬間、佐久間の顔から血の気が引いた。
「ふ、ふざけんな……! 俺は悪くねぇ……俺だけじゃねぇだろ、もっとひどい奴だって――」
「そうですね。もっとひどい人間も、世の中にはたくさんいます」
秋也は、あっさりと認めた。
「だから、“あなたを優先して処理する理由はないのではないか”と、少し迷いました」
「なら、やめれば――」
「ですが、“順番”というものが、世の中には存在します」
彼は、静かに続ける。
「あなたは、自分の声で、ひとりの人間を何度も押しつぶした。
謝らせ、責め、泣かせ、追い詰めた。
“お前のせいだ”“お前が悪い”と、何度も何度も」
そのたびに、彼女の中の“自分”が壊れていった。
「あなたの声があったから、あの子は、自分が“生きていてはいけない存在だ”と思うところまで追い込まれた」
軽く、しかし揺るぎなく。
「だから、あなたの声から順番に、消していきます」
「やめろ……」
佐久間の声が震える。
「お前が間違ってる……! 警察だろ、お前! そんなことしていいわけ――」
言い終わる前に。
秋也は、佐久間の首の後ろに手を添えた。
頭を少し持ち上げ、顎を上げる角度を調整する。
「痛みは、最小限に抑えます」
落ち着いた声。
「ただ、少しだけ、“喋れない恐怖”は味わっていただきます」
「やめろって……! 俺は悪くねぇ、あいつが――」
最後の言葉が、喉の奥で途切れた。
ぞくり、と、首筋に冷たいものが触れた感覚。
次の瞬間。
声が――出なくなった。
「……っ、……っ……!」
喉に力を込めても、空気が震えない。
声帯は動いているはずなのに、音にならない。
自分でも驚くほどの静寂。
息だけが、荒く漏れる。
「発声の回路を、少しだけ遮断しました」
秋也は、金属器具を指先で回しながら、淡々と告げる。
「痛みは、それほどではないでしょう。むしろ、“出せないはずの声を出そうとし続ける”苦しさのほうが、大きいはずです」
佐久間は、喉を押さえようとして、拘束具に阻まれた。
口を開き、必死に何かを訴えようとする。
――音にならない。
咳も。
叫びも。
泣き声も。
すべてが、喉の奥で空回りする。
「あなたは、彼女の前で、散々喋りました」
秋也の声だけが、空間を満たしていく。
「“お前が悪い”“お前のせいだ”“俺を怒らせるな”“ちゃんと謝れ”」
佐久間の目に、焦りと怒りと、何か別のものが混ざった色が浮かぶ。
否定したくても、できない。
言葉を武器にしてきた人間から、言葉だけを取り上げられる。
「今度は、あなたの番です」
秋也は、ベッドの横のモニターに目を向ける。
心拍数。
呼吸数。
血圧。
どれも、恐怖に伴って上昇している。
「“自分は悪くない”と叫び続けても、届きません。
あなたの周りには、もう誰もいない。
この部屋の外にも、あなたの味方はいない」
佐久間は、必死に頭を振ろうとした。
だが、その動きも、拘束具によってほとんど封じられている。
目だけが、ぎらぎらと動く。
「安心してください」
秋也は、静かに告げた。
「あなたの“言い訳”を聞いてやる必要がある人間は、もういません」
その言葉は、冷酷な残酷さと同時に――
奇妙なほどの静けさを帯びていた。
◆
時間の感覚が、曖昧になっていく。
佐久間にとって、それが何分だったのか、何十分だったのか、わからない。
喉は焼けるように乾き、胸は苦しく、筋肉は強張っている。
声を出そうとするたびに、出ないことを思い知らされる。
出ない声で「俺は悪くない」と叫び続け――
やがて、その言葉が、自分でも何を意味しているのかわからなくなっていく。
“悪くない”とは、何に対してだ。
“誰と比べて”。
“どこまでが許される範囲で”。
思考は、やがてただの断片になり、意味を失った言葉だけが頭の中をぐるぐると巡る。
(おれはわるくない/わるくない/わるいのはあいつ/でもおれもわるい?/わるかった?/じゃあ――)
――じゃあ、いったい何が“悪い”のか。
その問いに、答えを見つける前に。
心臓の鼓動が、不規則になり始めた。
モニターの波形が、乱れ、跳ね、そして――
ふっと、静かに線へと近づいていく。
秋也は、それを見届ける。
少しだけ時間をかけて。
確実に、戻らないところまで行ったのを確かめてから――
モニターの電源を落とした。
部屋に、静寂が戻る。
最初からここには、ふたりしかいなかった。
そして今は――ひとりだけだ。
◆
処理は、いつも通りだった。
遺体の痕跡が残らないよう、必要な処置を施し、
搬送の経路を綿密に選び、
工房の奥にある設備で、静かに“形”を失わせる。
煙突から出る煙は、近隣の住民にとって、ただの薪の匂いに過ぎない。
翌朝には、ニュースで小さく流れるだろう。
《都内在住の男性、行方不明届け。恋人トラブルで報道された事件の被疑者》
しかし、その続報が大きく扱われることはない。
世間は、別の話題に移っていく。
いつだって、そうだ。
◆
数日後。
工房のテーブルの上。
真宮秋也は、ノートPCを開き、暗号化されたメモアプリにアクセスした。
【No.29 済】
【No.30 済】
【No.31 準備】
カーソルを、【No.31】の行に合わせる。
エンターキーを押す。
『No.31:佐久間翔/発声機能選択的遮断→循環不全死
外部痕跡なし/所在不明案件として処理予測』
短く、事実だけを追加する。
そして、行を更新する。
【No.31 済】
それだけで、すべてが終わった。
彼は、しばらく無言でその文字列を見つめた。
やがて、PCを閉じる。
◆
別の日、別の場所。
病院の小さなカウンセリングルーム。
被害者の女性は、カウンセラーの問いかけに、ゆっくりと頷いた。
「……少しずつですけど、あの人の声を思い出せなくなってきました」
「それは、“忘れてしまいそうで怖い”ですか」
「……少しは。でも……」
彼女は、窓の外を見た。
「……それ以上に、“やっと静かになってきた”って感じです」
“お前が悪い”
“お前のせいだ”
頭の中で鳴り続けていた声が、少しずつ遠ざかっていく。
わずかな罪悪感と、一抹の解放感。
そのどちらも、本来なら彼女ひとりが背負うべきものではない。
◆
世界は、きれいごとで出来てはいない。
誰も、本当の意味では裁かれないまま、終わる事件がある。
誰も、本当の意味では救われないまま、続いていく人生がある。
そのどちらにも、名前は付かない。
だからこそ――
「おはようございます」
工房の片隅で、並んだ陶器たちに向かって、真宮秋也は小さく頭を下げた。
棚の上には、歪んだ形の小さな花瓶がひとつ。
誰も、その由来を知らない。
知る必要もない。
ただ、“そこにある”という事実だけが、静かに積み重なっていく。
光の側に立つ人間たちが、
今日もそれぞれの場所で仕事を続けていられるように。
その光を汚す言葉を、
ひとつずつ減らしていく役割を、誰かが担っていることを――
誰も、知らなくていいのだ。
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