第6話 正義の最低ライン
世界は、きれいごとで出来ていない。
それでも、人はときどき――
きれいごとにすがりつかないと、立っていられない。
◆
午前七時半。
ニュース番組のテロップが、淡々と“終わった事件”を流していた。
《東條市団地 男性死亡 持病悪化か》
《迷惑動画配信者死亡事故から一か月 再発防止へ鉄道会社が会見》
画面の端で、キャスターが穏やかな声でまとめる。
「いずれのケースも、警察は“事件性は薄い”として、詳しい調べを打ち切る方針です」
リモコンのボタンが押され、画面が暗転した。
真宮秋也は、しばらく黒い画面を見つめてから、立ち上がった。
カーテンの隙間から、朝の街が見える。
通勤の車。
登校中の小学生の列。
コンビニに走り込むサラリーマン。
世界は、何も知らない顔をして回り続けている。
「……そのほうが、いいのかもしれませんが」
自分に聞かせるように呟き、ネクタイを締め直した。
◆
警視庁本庁舎・捜査第一課フロア。
「――以上が、昨日二十四時時点での各係の進捗です」
朝の全体会議。
真宮は、いつものように管理官席から状況を整理していく。
「続いて、新規の殺人事件について。第三係、神田町強盗殺人。氷川警部補、お願いします」
「第三係、氷川です」
氷川真依が立ち上がり、クリップボードを見下ろした。
「昨夜二十二時頃、神田町の路地裏で、六十代男性が頭部から出血して倒れているのを発見されました。財布や所持品がなくなっていたことから、強盗殺人の線で捜査中です」
スクリーンに、現場写真が映し出される。
血痕の位置。
倒れた場所。
防犯カメラの配置図。
「現場周辺のカメラから、被害者と接触したとみられる男を特定済みです。身長一七五前後、パーカー姿。被害者の財布からは、給料日直後で十数万円が引き出されていた形跡があります」
「容疑者の生活状況は?」
真宮が問う。
「日雇いのバイトとネットカジノで生活を回しているようです。複数の借金も確認されています」
「わかりました。――この案件は、証拠の詰め次第で、きちんと“法廷”に乗せられるでしょう」
真宮は、刑事たちをぐるりと見渡した。
「強盗殺人は、最も重い部類の犯罪です。被害者にも、家族がいます。……感情で動く必要はありませんが、数字としてではなく、“人間”の事件として扱ってください」
「了解」
「わかりました」
短い返事がいくつも重なる。
会議が終わり、各係が散っていく中、氷川が真宮のもとに近づいてきた。
「管理官、一ついいですか」
「どうぞ」
「さっきの神田町の件なんですが……。正直、こういう“わかりやすい悪”のほうが、まだ楽ですよね」
「“まだ楽”?」
「はい」
氷川は、ファイルを握る指に力を込めた。
「殴って金を奪って、殺した。動機は金と借金。……最低ですけど、最低なりに、わかりやすい。送検して、有罪にして、刑務所に入れて――“終わり”って線が見えるから」
「なるほど」
「でも、虐待とか、家庭内暴力とか、少年事件とか。ああいうのは、“終わり”がどこにも見えない。犯人を捕まえても、子どもの心は戻ってこないし、家庭も壊れたまま。……ときどき、やりきれなくなります」
吐き出すような言葉だった。
「“これで本当に良かったのか”って、考えちゃうんですよ。法に乗せるだけじゃ、足りてないんじゃないかって」
真宮は、少しだけ目を細めた。
――そう感じるのは、むしろ健全だ。
「“足りていない”と思う感覚は、大事にしてください」
穏やかな声で言う。
「それがある限り、あなたは、きっと線を越えません」
「線?」
「法の外側です」
会議室のガラスに映る自分の姿を、ちらりと見る。
「“法だけでは足りない”と思ったとき、人は二つの方向に進みます。“もっと法を良くしようとする人”と、“法の外で何かをしようとする人”」
「……管理官は、どっちですか?」
「私は――どちらでもありません」
即答だった。
「法を良くするのは、私より優秀な人たちの仕事です。私は、与えられた法の枠の中で出来ることを最大限やる。それが“最低ライン”だと思っています」
「最低ライン、ですか」
「はい。そこを守れないなら、何を語っても正義にはなりませんから」
氷川は、少しだけ笑った。
「……じゃあ、私たちは最低ラインを守る係ですね」
「そうなりますね」
「でも、最低ラインを守っても、救えない人たちがいる」
「います」
真宮は、静かに頷いた。
「あなたがさっき言ったような事件が、その代表です。虐待。家庭内暴力。――裁判で有罪にしても、その人たちの心や未来を“完全に”救うことは出来ません」
「じゃあ、どうすればいいんでしょう」
「どうするべきか、私にもわかりません」
あっさりと言う。
「ただ、ひとつ言えるのは――“自分の感情を正義の名前でごまかさないこと”だけです」
「……ごまかさない」
「“可哀想だから救いたい”“腹が立つから罰したい”」
真宮は、自分の胸に手を当てる仕草をした。
「そういう感情を持つのは、自然なことです。でも、その感情を“正義”と呼び始めた瞬間、何かが壊れ始めます」
「……」
「だから私は、あえて言い換えています」
彼は、どこか遠くを見るような目をした。
「これは“正義”ではない。ただの“因果の整理”だ、と」
氷川は、一瞬だけ息を飲んだ。
その言葉の重さを、完全に理解したわけではない。
それでも、“この人は自分よりずっと遠いところで戦っている”という実感だけは、はっきりとあった。
「――難しい話は、また今度ゆっくり聞かせてください」
そう言って、氷川は歩き出した。
「今は、目の前の“わかりやすい悪”を片付けてきます」
「ええ。お願いします」
真宮は、いつものように柔らかく笑った。
◆
神田町の路地裏。
昼間でも薄暗いその場所に、黄色い規制線が張られている。
鑑識が血痕を採取し、カメラマンが角度を変えながらシャッターを切っていた。
「――ここで殴られて倒れたあと、財布を抜かれて、あっち側に引きずられてる」
氷川が、チョークで残された位置を指し示す。
「打撃の方向と位置から見て、犯人は被害者よりやや高い身長。利き手は右。犯行後、すぐ逃走せずに一度周囲を確認してるカメラもありました」
「余裕があるな」
隣でメモを取っていた若い刑事が呟く。
「強盗経験あり、って感じか」
「もしくは、暴力に慣れている人間ですね」
氷川は、ポケットから資料を取り出した。
「容疑者・村井駿。二十七歳。暴行と傷害での前歴が二件。どちらも執行猶予付きで出てきています」
「また“執行猶予”かよ……」
若い刑事が舌打ちする。
「ほんと、甘くねえか。どうせまた反省してねえだろ、こういうやつ」
「反省していないから、こうして再犯するのかもしれませんね」
氷川は、静かに答えた。
「でも、“だからといって私たちがルールを破っていい理由にはならない”って、真宮管理官は言うと思います」
「真宮さん、そういうとこ、徹底してるよな……」
「ええ。だから、この係が回ってるんです」
彼女は、視線を路地の出口のほうへ向けた。
その先に、真宮が立っていた。
スーツ姿のまま、現場と周辺の人の流れを眺めている。
「具体的な捜査方針ですが――」
氷川は歩き出しながら言った。
「今回は、“きれいに”決めましょう。言い逃れの余地がないくらい、証拠を積み上げて」
「了解」
若い刑事の声に、少し熱がこもる。
「“最低ライン”を守る、ってやつだな」
◆
その日の夜。
都内の小さなバー。
カウンターには、数人の客が静かにグラスを傾けていた。
「お疲れさまです、真宮さん」
「お疲れさまです、マスター」
秋也は、馴染みの店のカウンター席に腰を下ろした。
「いつもの、ノンアルでお願いします」
「はいよ。相変わらず付き合い悪いねぇ」
「仕事柄、酔っている余裕がなくて」
そう言いつつも、口元には微かな笑みが浮かぶ。
ノンアルコールビールが注がれ、細かな泡がグラスの縁まで満ちる。
「――あ、管理官じゃないですか」
入口のほうから、聞き慣れた声がした。
「氷川さん?」
振り向くと、氷川がコートを脱ぎながら入ってきた。
「ここ、来るんですね」
「あなたこそ。残業帰りですか」
「はい。村井の件、供述かなり固まってきました。カメラとスマホの位置情報、借金の履歴、全部揃えて叩きつけたら、さすがに言い逃れ出来なくなったみたいで」
「それは何よりです」
「隣、いいですか?」
「どうぞ」
氷川が隣に座り、ハイボールを注文する。
少しして、グラスが二人の前に並んだ。
「――こういうの、久しぶりです」
「こういうの?」
「仕事の話を、仕事相手と、仕事じゃない場所で話すの」
氷川は、氷をカランと鳴らした。
「さっきの村井の件、正直、すごくスッキリしました。“ちゃんと捕まえられた”“ちゃんと罪に問えた”っていう感覚があって」
「いいことです」
「でも、その一方で……」
少しだけ視線を落とす。
「二度と会えない子どもたちの事件を思い出しちゃって。“あのときも、これくらい証拠があれば”って」
「そうですね」
秋也は、グラスの泡を眺めながら答えた。
「世の中の事件が、すべて“証拠さえ積めば有罪になる”ようなシンプルな構造なら、私たちの仕事は、もう少し楽だったかもしれません」
「でも、現実はそうじゃない」
「はい」
短い沈黙が落ちる。
店内には、小さくジャズが流れていた。
他の客たちは、それぞれ自分の世界に浸っている。
「……管理官、さっき廊下で言ってましたよね」
氷川が、グラスをいじりながら切り出した。
「“自分の感情を正義の名前でごまかさない”って」
「言いましたね」
「あれって、どういう意味なんですか。本当のところ」
「本当のところ、ですか」
秋也は、少し目を細めた。
「そうですね……。たとえば、私たちは、ときどき“遺族のために犯人を捕まえたい”と言います」
「はい」
「それは、本心でしょう。遺族の苦しみを少しでも軽くしたい。そのために、自分の時間も体力も削る。その姿勢は尊いと思います」
「……でも?」
「でも、その気持ちが行き過ぎると、危険です」
秋也は、グラスを指で軽く回した。
「“遺族のため”を言い訳にすれば、どんな捜査の無理も正当化出来てしまう。“あの人は怪しいから”“遺族のためなんだから”と、証拠が足りないまま追い込んでいく。――それは、もう正義ではなく、ただの自己満足です」
「……」
「“社会のため”“子どものため”“被害者のため”。」
言葉を区切りながら続ける。
「その言葉は、とても強い。……そして、とても便利です。自分の怒りや憎しみを、その言葉で包めば、“自分は正しいことをしている”と思える」
氷川は、ハイボールを一口飲んだ。
「じゃあ、管理官は、自分の怒りとか憎しみとか、どう処理してるんですか」
「処理は、していませんよ」
即答だった。
「消そうとするほど、歪みますから」
「じゃあ、どうしてるんですか」
「“切り離す”ようにしています」
グラスの水滴が、カウンターに丸い跡を作る。
「私が感じる怒りや憎しみは、“私個人の感情”です。正義でもなんでもない。ただの感情」
「……それを、正義に使わない」
「はい」
秋也は、小さく頷いた。
「“正義”という言葉を使うときは、出来る限り、それを“最低限のライン”に留めるようにしています」
「最低限のライン?」
「さっきも言いましたが――」
彼は、指を一本立てた。
「“法で決められていることを守る”こと。それだけは、どう取り繕っても、外せません。証拠を捏造しない。自白を強要しない。嫌いな人間だからといって、罪を重く見積もらない」
「……」
「それが守れないなら、どれだけ綺麗な言葉で飾っても、それは“正義”ではない。私は、そう考えています」
氷川は、少しだけ笑った。
「それ、普通のことのようでいて、たぶん全然普通じゃないですよ」
「そうでしょうか」
「“正義”って言葉を出した瞬間、人ってすぐ目が曇るじゃないですか。“自分は間違ってない”って思いたくなる。……管理官は、そこをすごく冷静に見てる気がします」
「冷静でいられるのは、きっと――」
秋也は、一瞬だけ言葉を探した。
「私が、心のどこかで、“自分が正義ではない”と知っているからでしょう」
氷川は、思わず彼の横顔を見た。
「……?」
「私は、正義の味方ではありません。警察官であり、管理官であり、ただの一市民です」
淡々とした口調。
「ただ、“目の前で起きた因果を、法の枠内で整理する役目”を与えられているだけです」
カウンターに、またひとつ丸い水滴が増えた。
「それでも、救えない人たちがいる。救えないまま、終わっていく事件がいくつもある。……そのたびに、“このままでいいのか”と自問はします」
「それで、どうしてるんですか」
「それでも、“最低ライン”からは目を逸らさないようにしています」
秋也は、静かにグラスを置いた。
「その上で、自分が何をするか。何を選ぶか。それは――」
そこまで言って、ふっと口を閉ざす。
「それは?」
「また、いずれ」
曖昧に笑い、話を切った。
氷川は、それ以上追及しなかった。
この人は、きっと自分の中に、誰にも見せない“何か”を抱えているのだろう。
それを無理にこじ開けることが、正しいとは思えなかった。
「……じゃあ、今は目の前の仕事ですね」
「その通りです」
二人は、グラスを軽く合わせた。
◆
深夜。
真宮の自宅兼工房。
窯は冷え、工房の棚には、乾燥中の器が並んでいる。
歪んだ形。
どこか人の顔にも見える、奇妙なフォルム。
その奥の小さな部屋で、秋也はノートPCを開いていた。
暗号領域。
新着メッセージがひとつ。
《児童相談所:日野悠斗くんの件》
開くと、簡潔な報告文が表示される。
『本日、里親候補の夫婦との面談が完了しました。
子どもの意思も確認し、段階的な委託を進めていく予定です。
長期的なケアは必要ですが、職員一同、見守っていく所存です』
文章は、事務的なものだった。
それでも、その一文一文の裏に、何人もの人間の労力と時間と、ささやかな祈りが滲んでいる。
秋也は、ゆっくりと息を吐いた。
「……救われる人も、いる」
誰に聞かせるでもなく、呟く。
画面を閉じ、別のフォルダを開く。
【観察対象 → 執行候補】の一覧。
その中のひとつに、マウスカーソルを合わせた。
【観察対象:坂上 暁 /殺人容疑・証拠不十分】
開くと、調書と状況報告が表示される。
当初、恋人殺害の第一容疑者とされたが――
近隣住民の証言と、防犯カメラの新たな解析により、無実が濃厚になり、嫌疑不十分で釈放された男。
『一時は疑ってしまい、申し訳ありませんでした』
担当刑事のメモが、端に書き込まれている。
秋也は、数秒だけ画面を見つめ、キーボードに指を置いた。
【観察対象 → 執行候補】
のチェックを外し、
【観察継続】
に書き換える。
そして、しばらく迷ってから――
そのファイルを、一覧から完全に削除した。
「……」
静かな部屋に、ハードディスクの微かな音だけが響く。
彼は、背もたれに身を預け、天井を見上げた。
「線を越えるなら――」
低く呟く。
「せめて、自分で自分に刃を向けられるくらいの覚悟は、持っていたいですね」
誰も聞いていない独白。
PCの画面を閉じ、別の暗号フォルダを開く。
【No.19】
【No.20】
……
【No.31】
今日も、一列に並んでいる。
「おはようございます」
いつものように、小さく挨拶する。
「世界は、きれいごとで出来てはいません。……でも、あなたたちがいなくなったぶんだけ、ほんの少しだけ、きれいごとに近づいていると、私は信じたい」
それが傲慢だと知りながらも。
それが自己満足だと理解しながらも。
「正義と呼ぶつもりはありません」
囁くように言い、ウィンドウを閉じる。
「これは、ただの――最低限の整理ですから」
その言葉のどこまでが本心で、どこからが嘘なのか。
自分でも、もう判然とはしない。
それでも真宮秋也は、明日もまた“綺麗な笑顔の管理官”として、警視庁の廊下を歩くのだろう。
世界は、きれいごとで出来ていない。
だから彼は、今日も――最低ラインの上で、ぎりぎりの綱渡りを続けている。
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