第3話 正義の温度

 世界は、きれいごとで出来ていない。


 ――それでも、ときどきだけ、きれいごとみたいな奇跡が起こる。


     ◆


 集中治療室の前の小さな家族控え室は、いつ来ても空気が重かった。


 簡素なソファと、古い自販機。壁際には、どこの家族が置いたのか、コンビニのビニール袋と読みかけの週刊誌が積まれている。


 その片隅で、氷川真依ひかわまいは、紙コップのコーヒーを両手で包み込んでいた。


 もう冷めきっている。けれど、温度はどうでもいい。


「……氷川さん」


 控え室のドアが開いて、白衣の女医が顔を出した。


 小児科の担当医。何度も面会して、もう名前で呼ぶ仲になっている。


「今、少しいいですか?」


 その表情がいつもと違うことに、氷川はすぐ気づいた。


 緊張と、それを押し殺したような喜び。


 紙コップをテーブルに置いて、立ち上がる。


「女の子、何か……?」


「ええ。こっちに」


 医師に導かれて、氷川はICUのガラス窓の前まで歩く。


 モニターの光と、人工呼吸器の規則正しい音。


 小さなベッドの上には、痩せた六歳の女の子が横たわっている。胸にはセンサー、腕には点滴。顔の半分はテープで固定された管に隠されていた。


 それでも、以前より、肌の色は良くなっている気がする。


「意識レベルが、少しだけ上がりました」


 医師が、モニターを指差す。


「さっき、呼びかけたら……指を握り返してくれて。まだ開眼は出来てないんですけど、痛み刺激にも反応があります」


「……本当に」


 喉の奥から、ことばが漏れた。


 氷川は、ガラスに額がつきそうになるくらい近づいて、女の子の手元を見つめる。


 小さな指。その一つひとつに、薄いガーゼとテープ。


 ベッドの脇には、母親らしき女性が座っていた。クタクタに疲れた顔。それでも、子どもの手を握る指は、今にも泣きそうなほど震えている。


 氷川は、何度も尋問室で見たあの母親の姿を思い出した。


『階段から、落ちただけです』


 震える声で、そう繰り返していた母親。


 あれが真実だったのか、それとも嘘だったのか。いまだに判断しきれない。


 ――でも、少なくとも。


「助かる、かもしれないんですね」


 氷川は、かすれた声で言った。


「ええ。まだ予断は許せませんし、後遺症の可能性もゼロではありません。でも、少なくとも、“今夜”死ぬ心配は、もうほとんどないと思います」


 医師の言葉に、胸の奥の何かが、やっと少しだけ緩んだ気がした。


「……よかった」


 本当に、それしか出てこない。


 現場で遺体を見ることには慣れているつもりだった。血も、傷も、折れた骨も。


 けれど、六歳児のICUのベッドの前では、その慣れが何の役にも立たない。


 この小さな命に比べれば、自分の正義感も怒りも、全部どうでもよくなる。


「警察の方が、あの子のことをこんなに気にかけてくださるの、珍しいですよ」


 医師が、くすりと笑う。


「普段は、“事件の被害者”って枠でしか見てないのかと思ってました」


「そういう人も、多いかもしれませんね」


 氷川も、少しだけ笑った。


「でも、私にとっては、“事件”とか“数字”とかじゃなくて、“あの子”なんで」


 ガラス越しに、小さく手を振ってみせる。


 もちろん、意識はまだ戻っていない。けれど、いつか目を開けたときに、自分以外にも、自分の生還を喜んだ人間がいたのだと知ってほしい。


「……なあ、真宮さん」


 心の中で、もう一人の顔に、問いかける。


 柊木廉介は、“所在不明”になった。母親は実家に戻り、児童相談所が介入し、女の子は病院の保護下。


 その原因の一部が、あの男にあることを――氷川は、知らない。


 ただ、結果だけは、確かにここにある。


 死なせずに済んだ命が、一つ。


 そのことが、彼女自身の正義感を、やっとぎりぎりのところで支えていた。


     ◆


 昼過ぎの捜査一課フロアは、いつも通りの騒がしさだった。


 電話が鳴り、コピー機が唸り、誰かの怒鳴り声が遠くで上がる。


 その喧噪の中で、管理官室のドアをノックする音だけは、控えめだった。


「どうぞ」


 中から、落ち着いた声。


 氷川がドアを開けると、真宮秋也は、疲れ一つ見せない笑顔で顔を上げた。


「お疲れさまです、氷川警部補」


「今、病院から戻りました」


「そうでしたか。女の子のほうは、いかがでした?」


 当然のように状況を把握している。


 氷川は、少しだけ嬉しくなった。


「意識レベル、上がってきてるみたいです。まだ目は開いてないですけど、呼びかけに反応して、指も握り返してくれて」


「それは、よかったですね」


 秋也の目が、やわらかく細められる。


「医師の先生も、“奇跡的だ”って。正直、あの状態からここまで回復するとは、思ってなかったって言ってました」


「……奇跡、ですか」


「はい」


 氷川は、少しだけ息をついた。


「“正義の味方”なんて言葉、現場にいると笑っちゃいますけど。でも、“誰かを助けられた”って実感だけは、捨てたくないですね」


 自分でも、少し青臭いことを言っている自覚はあった。


 けれど、今この瞬間だけは、その青臭さを恥ずかしいと思いたくなかった。


「正義って、結局、“救えるかどうか”だと思うんですよ」


 言葉が転がり出る。


「犯人を捕まえるのも、事件を止めるのも、“誰かの被害を減らすため”。今回の件だって、起訴は出来なかったけど、“見てる”って示し続けたことで、何かが変わって……。結果的に、あの子が生きられるんなら」


 ――やってきたことは、全部無駄ではないのだと信じたい。


 そこまで口にしてしまえば、泣き出しそうだったから、飲み込む。


 秋也は、しばらく黙って氷川の話を聞いてから、ゆっくりと頷いた。


「そうですね」


 短い相槌。


「私も、同じ考えです」


「本当ですか?」


「ええ」


 秋也は、少しだけ遠くを見る目をした。


「我々がどれだけ頑張っても、救えない人のほうが、きっと多いでしょう。証拠が足りなかったり、制度の限界だったり、運だったり……。理不尽のほうが優勢な世界です」


「ですね」


「それでも、“救えた命がある”という事実は、消えません。それは、理不尽に対する、ささやかな――本当にささやかな、勝利です」


 言葉の端に、何かを噛みしめるような響きが混じっていた。


「それを、私は正義と呼びたいですね」


「……」


 氷川は、不意に胸が熱くなるのを感じた。


 この人は、たぶん、自分の知らないところで、どれだけの“救えなかった現場”を見てきたのだろう。


 それでもなお、「正義」という言葉を、照れずに口に出来る。


 その強さが、羨ましくて、眩しかった。


「真宮さんは、壊れないんですか」


 思わず出た言葉だった。


 秋也が、少しだけ目を瞬かせる。


「壊れないように、気をつけています」


「どうやってです?」


「……簡単ですよ」


 少しだけ冗談めかした笑みが浮かぶ。


「怒りや悔しさを、全部仕事に使うことです」


「またそれですか」


 氷川は、苦笑した。


「会議のあとも、そんなこと言ってましたよね。“怒りは捜査の精度に変換するのが健全だ”って」


「本心ですよ」


 秋也は、肩をすくめる。


「私は、聖人ではありませんから。感情を完全に捨てることは出来ません。ただ、それを誰かにぶつけるのではなく、“次に救えるかもしれない誰か”のために使う。その積み重ねだけが、少しずつ“マシな世界”を作ると信じています」


 それは、教科書的なきれいごとでもあった。


 けれど、その奥に、もっと濃い何かがあることを、氷川は薄々感じていた。


 この人は、どこかおかしい。


 普通の警察官より、ずっと優しくて、ずっと冷たい。


「……壊れそうになったら、ちゃんと愚痴ってくださいね」


 冗談半分で言う。


「一応、部下なんで。少しくらい聞きますよ」


「そのときは、頼りにさせていただきます」


 秋也は、きちんと頭を下げた。


 机の上のPCは、まだ業務用システムの画面を開いたままだ。


 その裏に、誰も知らない暗号領域があることを、このフロアの誰も知らない。


     ◆


 夜。


 街の光がほとんど届かない郊外の一角で、小さな工房の窓だけが、ぼんやりと明かりを放っていた。


 土の匂いと、薪の焦げる匂い。


 陶芸用のろくろと棚、奥には古びた登り窯。壁には、素人にしては整いすぎている器たちが、静かに並んでいる。


 真宮秋也は、防塵マスクを首にかけたまま、釉薬の瓶をひとつひとつ取り出していた。


 透明、白濁、青磁、飴色――。


 ラベルには、一般的な釉薬名に混じって、小さな記号が手書きされている。数字とアルファベットの組み合わせ。それを見て、彼だけが意味を理解する。


 棚の隅では、中型の雑種犬が丸まって寝ていた。


 灰色の毛並み。右前足に、古い怪我の跡。


「……起きなくていいですよ、パズズ」


 秋也は、振り返りもせずに言った。


 犬は、片耳だけぴくりと動かしたが、そのまま寝息を立て続ける。


 ホームレス殺人事件の現場で、汚れた首輪もないまま震えていた犬。殴られ蹴られ、それでも人間の匂いを追い続けていたあの夜。


 「連れていきますか?」と所轄が笑いながら言ったとき、秋也は、ほとんど迷わず頷いた。


 それ以来、ここが新しい寝床になっている。


「今日は、いい日でした」


 誰にともなく呟く。


 窯の中には、すでに数点の皿と花瓶が入っている。温度計の針は、ゆっくりと狙った値に近づいていた。


 昼間、氷川から来たメッセージを思い出す。


『女の子、意識レベル上昇。反応あり。完全回復はまだわからないけど……正直、ダメだと思ってた。奇跡ってあるんですね』


 短い文面。絵文字も顔文字もない。


 その文字の向こうに、あのまっすぐで不器用な笑顔が浮かぶ。


 ――救われた命がある。


 その事実は、どれだけ世界が汚れていても、消せない。


 秋也は、釉薬の瓶をひとつ手に取った。


 飴色に焼き上がるタイプ。ラベルには、ごく小さく「a-29」とだけ書かれている。


「あなたのおかげでも、あるんですよ」


 瓶の中の液体に向かって、静かに話しかける。


「あなたがいなくなったから、あの家は動いた。母親は逃げ、行政は介入し、医師は最善を尽くした。……あなたが殴り続けていた子は、まだ、生きようとしている」


 もちろん、それは事実の一面でしかない。


 柊木廉介は、自分の手で殺した。陶芸窯で焼かれ、骨も肉も灰になった。


 その行為が“正しい”とは、秋也自身、少しも思っていない。


 ――ただ、彼がいない世界のほうが、“マシ”ではある。


 それだけは、確信していた。


「俺は、正義が好きなわけじゃないんですよ」


 釉薬を竹べらでゆっくりと混ぜながら、ぽつりと言葉が落ちる。


「世の中が全部“正しい”方向に進むなんて、初めから信じていません」


 土とガラス質の粉末が、粘度の高い液体に溶けていく。


 照明の下で、琥珀色が静かに揺れた。


「だから――自分がやっていることを、“正義”なんて呼ぶ気はないんです」


 窯の中の器を、一つだけ取り出す。まだ素焼きの段階の、小さな皿。


 それに、先ほど混ぜた釉薬を、丁寧に刷毛で塗っていく。


 液体が陶土に吸い込まれ、表面に薄い膜を作る。


「俺はただ、“マシなほう”を選んでいるだけです」


 誰かが死ぬ世界と、誰かが生きる世界。


 どちらも、不公平で、理不尽で、誰かにとっては地獄だ。


 そのどちらかを選べと言われたとき、何もしないで傍観しているほど、彼は器用ではない。


「誰かが線を引かなければならないのなら」


 刷毛の動きは、乱れない。


「法の内側で出来ることは、警察に任せればいい。法の外側でしか出来ないことが、どうしても残る」


 それを、誰かが引き受けなければならない。


 そして、その“誰か”は、決して褒められない人間でなければならない。


「……俺は、善人じゃない」


 秋也は、自分自身に言い聞かせるように続けた。


「復讐をしたいわけでも、世界を救いたいわけでもない。悪人の絶望をコレクションして、器に焼き付けている――趣味の悪い怪物です」


 棚の上には、いくつもの皿や花瓶が並んでいる。


 一見、素人の趣味にしては少し出来のいい陶芸作品。


 けれど、釉薬の色合いは、不思議な深みを持っていた。


 赤にも茶にも見える飴色。透明釉の下で揺れる、どこか血のような光。黒の縁取りに混ざる、ごく小さな白い斑点。


 それが何なのか、知っているのは、彼一人だけ。


「それでも」


 釉薬を塗り終えた皿を、そっと置き場に戻す。


「この手で殺したあとに――“救われた命が一つありました”って、誰かが言ってくれるなら」


 昼間のメッセージが脳裏に浮かぶ。


『奇跡ってあるんですね』


 あの短い一文に込められた温度。


 それだけで、彼の世界は、ぎりぎりのところで軋まずに済んでいる。


「それを、拠り所にしてもいいでしょう?」


 誰もいない工房の中で、問うように笑う。


「神様や裁判所が許さなくても。……俺だけは、自分を許し続けてやらないと、やってられませんから」


 パズズが、寝返りを打って、小さく鼻を鳴らした。


 秋也は、その頭を軽く撫でる。


「お前はどう思う?」


 犬は、答えない。


 代わりに、窯の中の炎が、ぱちぱちと爆ぜる。


 それで十分だった。


     ◆


 工房の片隅に置かれた小さなラジオが、ノイズ混じりのニュースを垂れ流していた。


『――続いてのニュースです。人気社会派コメンテーターの澤田智さん(四十六)が、三日前から行方不明になっている件で――』


 秋也は、釉薬の刷毛を洗いながら、耳だけを傾ける。


『自宅マンションの防犯カメラには、最後にエレベーターに乗る姿が映っていましたが、その後の足取りは不明で――』『警視庁は事件と事故の両面で捜査を進めるとともに――』


 ラジオの向こうで、誰かが「心配ですねえ」と嘆いている。


 スタジオの笑い声。


 画面の中で、“冷静な第三者”を名乗っていた男の最期の表情が、ふと脳裏に浮かぶ。


 声にならなかった謝罪。


 届かなかった言葉。


「裁く資格があるのは、冷静な第三者だけ、でしたか」


 秋也は、蛇口をひねりながら、ぽつりと呟いた。


「あなたの言葉は、もうどこにも届きません。……それでも、あなたのせいで死んだ人たちのことは、彼ら自身の中でしか裁かれない」


 正義とは、なんなのか。


 世界を一度すべて解体して組み直さなければ、答えが出ないような問いだ。


 彼は、その答えを求めてはいない。


 ただ、自分の手の届く範囲で、“マシなほう”に傾けるだけだ。


 ラジオが、次のニュースに切り替わった。


『――続いて、SNS上で炎上している“迷惑動画配信者”の話題です。電車内での痴漢騒ぎを撮影・配信し、結果として人身事故を引き起こした疑いが――』


 そこまで聞いたところで、秋也の左目の下が、微かに痙攣した。


 刷毛を置く。


 防塵マスクを、静かにつけ直す。


「……忙しいですね」


 誰にともなくそう言って、彼は窯の温度計に視線をやった。


 炎は、まだ静かに燃え続けている。


 世界は、きれいごとで出来ていない。


 だからこそ、誰かが汚れ役を引き受けなければならない。


 その役を担う“綺麗な悪”として、真宮秋也は、今日も静かに息をしている。

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