第7話 小烈士の武 その7


「――はっ!!??」



 庵の中で飛び起きる烈心の身体には傷一つなく、先程の苦行が夢か何かであったのではないかという気さえした。


 だが、椅子に腰かけてこちらを見ている白づくめの存在で、あれが現実であったと再認識する。


「……あの」


 さっきの暇潰しだか嫌がらせだかの結果はどうなるのか、尋ねようとした烈心の側には、栓のされた竹の水筒が立てられてあった。


「持っていくがいい。あの娘はそれで治る」


 言い終えるとあくびを一つする。


「……御存じでしたか」

「二百里四方ぐらいは吾の掌の内にあると思うがいい。にしてもだ」


 堪え切れなくなった庵主は口元をひくつかせた。


「くくく……未熟極まりないが、気骨だけはあ奴らとどっこいときた。

 お前の様な馬鹿は、ここ二百年程は見ておらんぞ」


 自分の太腿あたりをぺしぺしと叩いて、また笑う。

 しかし目は鋭く、突き刺す様に烈心に向いている。


「心の内と、吐き出す言葉に一つのぶれも揺るぎもない。その年でよう悟っておるわ」


「は、はあ……」


 気を失う前に何を言ったのやら、正直曖昧であった烈心は口ごもる。


「思えばあ奴らは宇宙規模のお人好しだった。吾はそんなあ奴らが羨ましいとすら思ったものよ」

「えっと、どなたの話を?」

「ふむ……お前、曹雄源という男を知っておるか?」

「すみません、全く存じませんが」

「で、あろうなぁ……時が経ち過ぎたわ……」


 悲しげな声色で発した庵主は、顔色だけは隠す様に前で扇を広げ、一拍置いて素早く閉じた。

 すると、扇と庵主の顔の間に薄い黄金色の液体が生じ、あぶくの様に踊って宙に浮いた。自ら光り輝いているようにさえ見える。


「これを飲むとよい。博寿真露よりも効き目は確かだ」

「それは……?」

「吾の血じゃ」

「えっ!?」


 烈心が露骨に嫌そうな顔をしたのを庵主は見逃さず、怒りと共に叩きつけるようにその液体を飛ばした。


「ふごぉぉっ!!!?」


 口内に飛び込んで来たそれは見た目よりも粘度が高く、気道を塞がれかけた烈心は陸に居ながら溺れる様な錯覚に陥った。


「数多の霊薬を上回る代物じゃ。心して飲み下せ」


「ごぶっ!げふっ!!ぶあぁっ!!!」


「いやお前そんな事で死にかけるでないわ」


 自分がそうしておきながら呆れたように言い、足を組み直してふうと息を吐く。

 艶めかしい膝下は女のそれの様にも見えたが、やはりどうも男女の判断がつかない。


「まぁその生き死にの繰り返しが効いておるんじゃろうな」

「……な、なんです?どういう意味ですか」

「お前、今までに何度死にかけた?」

「…………」


 指折り数える烈心の様子を眺めていた庵主の口が段々とへの字に曲がり出す。


「五十から先はちょっとあいまいで」

「多い多い!!!思っとったより大分多いわ!!」


 ぶん投げられた扇が烈心の眉間を直撃する。跳ね返って宙を舞った扇を引き戻しながら、庵主は続けた。


「まあ、その繰り返しがお主の魂魄を鍛えっておったのよ」

「魂魄?武魂ではなくですか?」

「武魂か。あれは魂という字を使っておるが性質が似ておるというだけで魂と関りはない。

 寧ろ本質的には魄の方が近いくらいじゃ。

 ま、それは置いておくとして――つまりじゃ。お主は生死の境に至る度に、無自覚に魂魄を鍛えておったのよ」

「そ、そんな事が?」

「結果が示しておる故仕方がない。恐らく外功が魂魄と肉体の分離を阻害していたのであろうが、他人に真似出来るとも思えん。よう生き延びたものよなぁ……」


 感心半分呆れ半分で、庵主はまたため息交じりに言う。


「結果論に過ぎんが、お前の魂魄は常人の域を超えてしまったのだ。つまり、今のお前の肉体の不均衡は、乏しい内功と優れた外功のみにあらず、そこに並外れた魂魄を加えた三つの要素からなっていたのだ。

 故に、丹田だけを修復したとて望む結果は得られん。魂魄の水準まで内功と外功を引き上げねばならん」

「な、なるほど?」

「そこで吾の血よ!これを飲めば立ちどころに内功は百年に達し外功は絶頂の域に至る。

 素人が飲んでも成纏境地まで一発よ!」

「そ、それほどですか!?」

「うむ。元々錬戴であるお前なら、成纏の後期くらいまでは座していても届くであろうよ」



 腕を組む庵主は自慢げである。なんだか随分と威厳というか風格が削げ落ちて、愉快な人格が透けて見えてきたなと烈心は思ったが、口にはしない。



「まあ、逆を言えばそれ以上の効き目はない。吾の見立て通りであれば、後はお主の魂魄が目を覚ますかどうか――」

「目を覚ます、とは?」

「言うてもわかるまいでなぁ……それに、流石にそろそろ時間じゃ」


 庵主が扇で指さす方には、燃え尽きかけた一本の蝋燭が立っていた。


「ここは外と時の流れが違う。しかし、そろそろ外でも半刻は経つ。

 その間にお前の連れは厄介な事になった様じゃ」

「二人に何が!?」


 烈心は思わず立ち上がったが、何となく体の動きが鈍く感じられる。


「男の方は魔道の達人に捕らえられ、娘の方もそ奴の手の者が探しておる……時間の問題じゃな」

「庵主殿、自分は急ぎます。ここからはどのように出れば?」


 身を乗り出した烈心の動きを制する様に扇を閉じる。


「出るのは容易い。あの滝壺に飛び込めば、向こう側じゃ」


 指し示された滝は、確かにそれだけは向こう側と違わぬ形をしているように見えた。


「……では、自分は行きます。お世話になりました。この御礼はいずれ」

「要らんよ。吾はすぐにここを閉じて引き払う。どうやらここも気取られたようだしのう」

「しかしまたいずれお目にかかります!」

「その時は、曹雄源という男の話をしてやろう」

「では失礼します!」


 水筒を懐に突っ込んで素早く踵を返した烈心は、その勢いのまま川に飛び込み、滝の底を目掛けて猛然と泳いだ。

 水を掻く手が底の石に触れるかどうかで、烈心の体の向きは変わっており、目の前には闇が広がった。

 数秒後、水面に顔を出した烈心は荒くなった息を抑え、水を掻く音に気を配りながら闇にまぎれて岸にたどり着く。


 自分を殺した事になる毒矢を放った弓の使い手が、まだ近くに居るかも知れなかった。

 素早く藪の中に飛び込んだ烈心は、出来得る限り息を殺して、自分以外の気配を探る。


 その感覚が、異様なほどに研ぎ澄まされて冴え渡るようであった。

 目も、耳も、肌の感覚さえも、これまでとは違っている。より遠く、より深く、より緻密に情報を拾えている。


「こ、これは……?」


 自分の感覚の変化に驚くと共に、無意識に抑え込んでいた丹田の中に熱を感じる。

 それが自分の内功だと理解して、烈心は震えた。


「感謝します。庵主殿」


 やがて烈心は闇の中にかすかな光を見た。半里も離れた木の陰で、矢じりがそれを放っている事に気付いたのだ。

 なぜあんな遠くの、あんな小さな光とも言えぬものを見る事が出来るのか。不可思議ながら、それを目印に動く。


 直進はせず、迂回しながら距離を詰める。烈心は逃げる背を討たれるより、制圧する事を選んだ。

 今ならそれが出来るという確信がある。


 内功を得た烈心の軽功は凄まじかった。足運びは変わらずも、その一足で五間を飛び、元居た場所にも移る先にも音を残さない。

 そうしてものの数十秒で距離を詰めた烈心は、いよいよ弓手の背後に迫る。


 しかし相手も相当の境地である。烈心が隠し切れなかったごく僅かな空気の震えを感じてか、素早く身を翻し後ろに向かって矢を放つ。

 至近距離からの矢は避け難く、烈心の胴はまたしても毒矢に抜かれた。かに思われた。



「何っ!?」


 思わず発した弓手の顔面に、烈心の右拳が入る。

 左手は胸の前にあり、それが放たれた矢を掴んでいた。矢じりの先端は服を裂いていたが、皮膚にまでは達していなかった。


「っはぁっ!」


 いつの間にか完全に息を止めていたと気付いた烈心は荒い呼吸をする。

 弓手の鼻骨は原型を止めておらず、一撃で意識が飛んでいる。

 そこまでのつもりはなかった烈心は、繰り出した拳の威力に戸惑った。


「加減が難しくなったな……」


 これまで並以下の、殆ど無に近かった内功が成纏の水準に達しているのなら、今の烈心の力は常人の二十倍程度はある計算になる。


 弓手の口からは息が漏れているので、殺してしまったわけではない様だ。烈心は安心しながらも、容赦なくその襟を引き寄せて弓手の顔を叩いた。


「起きろ!!」

「う、うぅぅ……」


 鼻からだけでなく、口からも僅かに血が垂れる。口がきけない訳ではなさそうだ。


「何者だ?なんで俺を撃った?」

「……」


 意識を取り戻した弓手は恨めしそうな、しかし生気の薄い目で烈心を見ている。


「もう一発食らいたいか」


 気は進まなかったが、必要であればそうする。


「質問を変えるぞ。朴天さん……俺の連れはどこだ」


 庵主の言葉を思い出しながら、拳を作る。烈心の身体から怒気が発せられたのを感じ取った弓手は動揺を見せた。

 なんだこの男は?という疑問がまず浮かぶ。矢を射る前はそこらへんでも見かけられる程度の実力しか感じさせなかったし、実際その程度あったから容易に射殺せた。


 確かに射殺した筈のその男が、猛毒に侵されたはずの身体で反撃に出て来て、今は元梁の境地にある自分を圧倒している。


「三つだけ待ってやる」


「ま、待て……!」


 弓手は兎に角この場をやり過ごす事だけを考えた。


「お、俺は雇われただけだ。細かい事は知らん!

 沈萄の奴が、霊薬の分け前を寄越すからというのでついて来た!俺は兎に角、他の連中は全員射殺してやろうとしただけ――」


 喚き散らされる言葉への嫌悪から烈心の拳に力が入る。悪人には違いなかったが、こいつは確かに魔道を修めた様子が無い。

 魔道に一度手を染めれば、その武は魔気を纏う事になる。これは本来は魔族が用いるもので、人のそれとは違いあまりにも目立ち、誤魔化しようがない。

 都合二度受けた矢から、それが感じられなかった。


「お前の仲間に魔道や魔功を用いる者はいるか?」


「い、居る訳が無い。あんなおっかないもん」


 震えるように顔を左右させ否定する。その様子に偽りはなさそうだが、烈心は襟を絞る方の腕の力を強めた。


「お前の仲間は?赤炎蛮刀と仲良く連れ立って、って訳じゃないよな」

「あ、あと二人来ているが……見当たらん」


 弓手の声色に恐怖の色が含まれているのを感じた。自分に対する物ではない。


「はぐれたんだ。いや、ありゃぁ逸れたというより、消えた――」


 言いかけた弓手の恐怖の色が濃くなり、殆ど恐慌をきたす。


「あっあ、あ……」


 烈心よりも遥か後方へと向いている視線を辿るように、半身を捻って振り向きかける。

 その刹那。烈心の顔の横を紫電が走り、弓手の頭が爆ぜ飛んだ。


 驚愕する間もなく、その紫電の余韻を浴びた烈心は、それこそがまさに魔気であると理解した。

 頭を無くした体が崩れ落ちるのに任せ、烈心は握り込んでいた襟を離して掌を見る。

 僅かに火傷した左掌に、毒気の様な物を覚えた。強い魔気はそれ自体が有害である。一切の武を修めない常人であれば、一瞬晒されただけで昏倒し、数分で死に至る。


 向き直った烈心の視線が、その魔気の主、黒曜魔尊と交わり――



「――何?」



 黒曜魔尊の方から逸らされた。


 顔を背ける様なその仕草を確認して、烈心は跳んだ。

 朴天が捕まったと聞いた時は、何としても連れ戻さねばと思ったが、それが出来るような相手に朴天が敗北する訳がないのが道理である。


 今はこの懐に仕舞った博寿真露を蓮香に届けるのが先決だった。


 凄まじい速度でその場を去っていく烈心の背を見ずに、その動きを捉えながら、後を追わない。

 黒曜魔尊は瞳だけで物を見ない。総身から発せられる魔気は彼の耳であり、目であり、手でもある。


「ああ……あれは――」


 烈心の瞳の奥に見えかけた思い出しながら頭を振り、滝の方に意識を向ける。外套が幽鬼のように揺れた。


「そんな所に空いていたか」


「もう塞ぐところじゃがの」


 黒曜魔尊の身体がべしゃり、という音を発して潰れた。

 赤黒い飛沫が四方に飛び散って、外套の黒い布だけが地面に遺されたように見える。


 その黒い布が風に舞って浮き上がり、空中で雑巾の様に捩じられたかと思うと、一気に元あったように広げられた。

 元の形を取り戻した外套から僅かに見える手足は異変を感じさせず、黒曜魔尊は異様に細長い舌を伸ばして濃い魔気を吐いた。



「当代の魔尊は生臭くてかなわんな」



 見下ろされる側になった庵主だが、そもそもこちらは相手を見てすらいない。

 静かに開かれた扇の紋様がそのまま大きく宙に浮かび上がり、それが解けて無数の光点が宙を舞って術式を構成していく。


 術式を編んだ光の軌跡は、見た事も無い筒状の何かを構造し、その奥でさらにまばゆい光が迸った。


「失せよ」


 黒曜魔尊の身体が光の奔流に飲まれて、その影さえ見えなくなる。光はそのまま天まで伸びるかと思われたが、やがて遥か彼方で九透山の岩肌に激突して大爆発を起こした。

 とは言えこの距離では、人々にはかすかな明滅としてしか見えないだろう。



「やっぱりぶっ放すなら光線に限るの~」


 扇で顔を仰ぎながら、辺りに残った魔気の臭いを払う。


 激しい渦を巻いた滝壺の中から光が飛び出して、庵主の手の中に飛び込んで来る。四寸ほどの透き通った球体であるそれには、内部に先程まで庵主と烈心が居た庵が周囲の景色と共に取り込まれ、圧縮されていた。


「しかし、近頃の連中は吾の寝息と龍穴の区別もつかんのじゃな」


 また嘆息した庵主の身体がふわりと宙に浮かんで、次に向かう方を決めるために風を読む。


「こっちにしておくか」


 と言って消えた庵主の姿が、次には広大な砂漠の真ん中に現れる。日は高く、焼き焦がすような強さの光が注いでいたが、庵主は気にも留めない。

 手にしていた球を放り出せば、少し先にあった砂の山に当たるかどうかという所で光を放ち、砂の山はそれですり鉢状に削られて消え失せた。

 蟻地獄の様な構造となったその底が、今度のねぐらの入り口だった。


「――む?」


 その入り口に入るかどうかの所で、庵主は足を止める。


「吾とした事がしくじったか」


 引き返してやろうかとも考えたが、そこまでの事態ではないかと考え直して歩を進める。


「あの娘にも仕事を残しておいてやろう」


 砂漠の蜃気楼のように溶け行く背中が、そう言い残した。




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