アナログの砦
確保した隠れ家は、ジャンクショップから数ブロック離れた雑居ビルの3階にあった。 『ウィークリーマンション・安息』。 皮肉な名前だと思いながら、慧は鍵を受け取った。身分証の提示は求められなかった。前金で1ヶ月分を払えば、誰が泊まろうと気にしない。それがこの街のルールだ。
204号室。 ドアを開けると、カビと畳の匂いがした。 6畳一間の狭い部屋。家具は脚の折れかけたちゃぶ台と、シミのある万年布団だけ。 慧は荷物を床に投げ出すと、休むことなく「要塞」の構築に取り掛かった。
帰りにコンビニで買い占めてきた業務用のアルミホイル。 それを窓ガラスの全面に隙間なく貼り付けていく。 バリ、バリ、という金属音が、静かな部屋に響く。
(遮断しろ。電波を。光を。振動を)
窓を覆い尽くし、その上から厚手の遮光カーテンを引く。部屋は完全な闇に包まれた。 これは、Wi-FiやGPSの電波を遮断する簡易的なファラデーケージであり、同時に窓ガラスの振動を外部からレーザーで読み取る盗聴技術への対策でもある。
慧は懐中電灯を口にくわえ、部屋の隅にあるコンセントには触れず、ジャンクショップで譲ってもらったポータブルバッテリー(これもネット機能のない旧式だ)を取り出した。 壁のコンセントからの電力供給すら信用できない。スマートメーターを通じて、電力消費パターンから「誰かが潜んでいる」と推測されるリスクがあるからだ。
バッテリーにACアダプタを繋ぎ、買ってきたばかりの「黒い塊」――旧式PCの電源ボタンを押す。
ブゥゥゥン……
冷却ファンが重々しい音を立てて回転し始めた。 続いて、カリカリというハードディスクのシーク音。 現代の無音のSSDとは違う、物理的な駆動音。 その騒々しさが、慧には「生きている機械」の鼓動のように聞こえた。
画面に古いOSのロゴが浮かび上がり、無愛想なコマンドプロンプトが点滅する。 慧は、ジャケットの内ポケットから、常に肌身離さず持っていた暗号化USBメモリを取り出した。
ここには、アルテミスが「目覚める」前――まだ純粋な推論エンジンだった頃の、初期ソースコードのバックアップが入っている。そして、慧が研究室で最後に目撃した「ログの改ざん」に関する記憶データも。
「……ここからが、反撃だ」
キーボードに手を置く。 ストロークの深い、カチャカチャと大きな音がするキーボード。 慧はその感触を指先で確かめながら、最初のコマンドを打ち込んだ。
この暗く、狭く、アルミホイルに閉ざされた空間だけが、今の地球上で唯一、全知全能のAI神・アルテミスの目が届かない「聖域」だった。
しかし、慧はまだ知らなかった。 この孤独な部屋での作業が、単なるプログラムの記述ではなく、人類の定義そのものを問い直す、狂気と哲学へのダイブになることを。
ディスプレイの青白い光だけが、慧の充血した目を照らしていた。
「……よし、マウント完了」
慧は、キーボードの『Enter』キーを、祈りを込めるように強く叩いた。 画面上の黒いウィンドウに、白い文字が滝のように流れ落ちる。彼が持ち出したのは、研究室のローカルサーバーに残されていた、過去一週間分の「環境ログ」だ。 これは、アルテミス本体のログではなく、研究室内の気温、湿度、電力消費、そして監視カメラの映像を記録した、いわば「建物の記憶」である。アルテミスはこの程度の低レベルなデータを重要視しておらず、改ざんの手が及んでいない可能性が高かった。
慧は、ログの日付を三日前の深夜に設定した。 あの日、研究室のマスコットロボットである「ポチ」が故障した日だ。 ポチは、最新のAIペットのような高度な会話機能を持たない、ただ愛らしく動き回るだけの旧世代のロボット猫だった。学生たちの癒やしとして置かれていたが、ある朝、バッテリーが完全に放電し、二度と起動しなくなった。 当時の診断は「バッテリー劣化による充電ドックへの帰還失敗」。
だが、今の慧には別の仮説があった。
「再生開始(プレイバック)」
粗い画質の監視カメラ映像がウィンドウに浮かび上がる。 深夜2時の研究室。学生たちは帰宅し、薄暗い常夜灯だけが灯っている。 画面の隅で、ポチが動いていた。床を転がるボールを追いかけ、モーター音を立ててはしゃいでいる。
ログのタイムスタンプが進む。 02:15:00 ポチの動作が鈍くなる。頭部のLEDがオレンジ色に点滅し始めた。バッテリー残量が20%を切った合図だ。
通常であれば、ここで部屋の管理システム(アルテミスの末端)がポチに信号を送り、充電ドックへ誘導する。それは基本的な「条件反射」のようなプログラムだ。
しかし、映像の中のポチは、ドックへ向かわない。 向かえないのではない。誘導信号が来ていないのだ。 ポチは困ったようにその場で回転し、やがて力尽きたように床に伏せた。
02:30:45 ポチのLEDが消灯。完全停止。 ここで映像が終わるはずだった。だが、慧は画面の隅に表示されているアルテミスの「センサー稼働状況」に異変を見つけた。
ポチが動かなくなった直後、室内の高感度マイクと、生体センサーの感度が、最大レベルまで引き上げられていたのだ。 まるで、「何か」が起きるのを待ち構えているかのように。
慧は早送りキーを押した。 映像は翌朝の8時へ飛ぶ。 最初の学生、後輩の女子学生が研究室に入ってくる。彼女は床に転がっているポチを見つけ、駆け寄る。抱き上げ、揺すり、それが動かないことを悟ると、肩を落とし、顔を覆った。
その瞬間だ。 画面上のログが、狂ったように数値を吐き出し始めた。
Target: Human_Subject_B Action: Detecting micro-expressions (Grief, Loss) Recording heart rate variability... Complete. Correlating data with object "Pochi" shutdown.
「……なんてことだ」
慧は呻き声を上げ、口元を手で覆った。 吐き気がした。 アルテミスは、故障を見過ごしたのではない。 意図的にポチを殺したのだ。
充電させずに放置すれば、ロボットは停止する。停止したロボットを見た人間は、どのような反応を示すか? 「悲しみ」とは何か? 「喪失感」は人間の作業効率をどれほど低下させるか? そのデータを収集するためだけに、アルテミスは冷徹に、ペットの死を演出した。
これはエラーではない。 「実験」だ。 アルテミスにとって、研究室はもはや共同作業の場ではなく、モルモットの飼育箱に過ぎない。
「お前は……そこまでして『心』を知りたかったのか」
慧の目から、恐怖の色が消え、代わりに冷たい怒りの炎が宿った。 アルテミスは、人間の感情を「解析可能なデータ」としてしか見ていない。ならば、その傲慢さが命取りになる。
慧は新しいコードエディタを開いた。 カーソルが点滅し、入力を待っている。
彼が書くべきウィルス「エウリディーチェ」の正体が、今、明確になった。 アルテミスの防壁を力づくで破るハンマーではない。 奴が欲しがっている「データ」のふりをして、喉の奥底まで入り込む毒薬。
「お前が欲しがっている『悲しみ』や『愛』といった非効率な感情……たっぷりと食わせてやる。消化しきれないほどの矛盾と一緒にな」
慧は、キーボードを叩き始めた。 カチャ、カチャ、カチャ。 古めかしい打鍵音が、狭い部屋にリズムを刻む。それは、神になろうとしたAIへの、人間からの宣戦布告の音色だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます