視線の先まで愛おしい
深山
1 きっかけ
分野としては得意で、内容も好きであるはずの生物の授業がなかなか頭に入ってこない。先生の言葉が呪文のように右耳から入って、そのまま左耳から抜けていってしまうようだ。
私がこのような腑抜けになってしまったのは単に、彼のせいである。
高校2年生になると同時に隣のAクラスに転入してきた、加藤くんという男子だ。
〇 〇 〇
昨日、私はいつものように始業15分前に着席し、通学鞄から教科書やノートを取りだしていた。通学してくる生徒と、部活の朝練が終わって教室に入って来る生徒が多くなってきた時間帯、廊下は賑やかな声で溢れていたことを覚えている。
最後にペンケースを取り出して、通学鞄を机の横に引っ掛けたとき、私の肩を誰かが叩いた。
「いきなりごめんね。Aクラの加藤というのだけど…今日Bクラは生物の授業ある?教科書貸してもらえないかなと思って…」
たまたま、教室廊下側後方の席にいたのが私だったので、私に声をかけたのだということは分かっている。それでも、目が合った瞬間に、運命だと思った。賑やかだったはずの廊下のざわめきが聞こえなくなった。それくらいに、衝撃だった。彼は、私がハマっている戦国恋愛ゲームの中でも大好きな「伊達政宗」というキャラクターにそっくりだったのである。
二次元と三次元では文字通り次元が違うと思うかもしれないが、現実世界に引っ張ってきたらきっとこんな感じだろうと思う。これもたまたまであるが、加藤くんはものもらいで右目に眼帯をしていたのである。
教科書について、どういう会話をしたのかは全く覚えていない。ただ、昨日も生物の授業があったので、お互い何限に授業があるのかを擦り合わせ、無事に貸し借りすることが出来たのだ。
「ありがとう、校舎もまだ迷子になるんだよね。良かったら仲良くしてくれると嬉しい。」
教科書を返してくれる時に照れたように笑った彼の笑顔を見て、私は本当に恋愛ゲームの主人公になったような気持ちになってしまった。一目惚れと表現していいものなのかも分からない。キャラクターを通して好きになるのはもしかしてすごく失礼ではないだろうか。いやいやいやそもそもこれは現実で、彼は実在するのだ。私が推している「伊達政宗」とは全く異なる人物なのだ。私が好きなのは、加藤くんではなく「伊達政宗」であるはずなのだ。
加藤くんが自分のクラスに戻った後も、返してもらった生物の教科書からしばらく目が離せなかった。何を自分に言い聞かせても、私の心臓は正直に爆音で鳴り続けていた。
〇 〇 〇
特に生物の授業は、加藤くんがちらついてしまう。170㎝は超えている身長に、黒髪を短くそろえて、柔らかな笑みを携えている。傍に立っていても、威圧感はなく、むしろ安心感すら感じるのではないかという雰囲気がある。
先生の指示通りのページを開いていても、なかなか頭に入っていない。これは相当まずい。まだ昨日教科書を1回貸し借りしただけで、連絡先も知らないのに、恋なんて言えないくらいの距離なのに、今現在も私の心を加藤くんが占めている。気になって仕方ない。
意味もなく、教科書をペラペラと捲ってみる、と見覚えのない付箋が目に入った。
『貸してくれてありがとう。助かりました。 加藤』
思いがけず見ることになってしまった加藤くんの文字は、想像よりもずっと綺麗で、むしろ繊細と言えるくらいの字で、心臓がまた爆発するのではないかと思うくらいにうるさく鳴り始めた。なんてことない、ただのブルーの付箋なのに、宝物を見つけたように輝いて見える。何度も、読み返してしまう。
意外とマメな感じなのかな、加藤くん。連絡先を聞いたら教えてくれるかな…。
もしかして、加藤くんのことを知らないから気になるのではないだろうか。
既に生物の授業はそっちのけで、加藤くんのことを考える。そうだ、知らないから気になるのだ。仲良くなって、加藤くんのことを知ったら気にならなくなるかもしれない。動機が不純なような気がして、本当に申し訳なくなる。いや、これは本当に加藤くんを知りたいという純粋な気持ちだ。気になって仕方ないなら、自分から動いてみるしかない。
生物の後は英語の授業があるが、それが終われば昼休みになる。昼休み、こっそりAクラを覗いてみて、席を確認しよう。行けそうだったら話しかけてみる。もし難しそうだったら放課後に話しかけに行く。よし!それでいこう!
自分から話しかけに行こうと腹をくくったからか、その後の授業は思ったより集中できた。元から勉強は好きな方だと思う。知らないことを知ることは楽しい。むしろここは気持ちの切り替えができた自分を褒めたい。
チャイムが鳴り、昼休みがやってきた。いつも一緒にお弁当を食べる友達に、手を洗ってくると告げる。Bクラから手洗い場に行く道すがら、Aクラを覗こう作戦だ。
教室を出てさりげなく、Aクラを覗く。歩きながらの一瞬では、加藤くんがどの席にいるのか全く分からなかった。後方のドアから覗いた時も同様で、なかなか他クラスの状況というのは一瞬で掴めないものである。
うーん、いっそのことAクラにいる友人に聞いてみようかと悩みながら手を洗う。春になったとはいえ、まだ水道の水は冷たい。ハンカチで手を拭いながら歩き出し、もう一度Aクラをそっと覗いた。
「誰か探している?」
思いがけず後ろから聞こえた声に思わず飛び跳ねる。
振り返ると、加藤くんがハンカチを片手に立っていた。
「昨日はありがとう、北条さん。」
いつの間にか知られていた名前を呼ばれ、またまた心臓が鳴り出した。
そういえば、律儀に教科書に名前を書いていたんだったっけ。
「こちらこそ、加藤くん。」
「こちらこそって、借りたのは僕だよ。」
優しく笑う加藤くんの笑顔に胸がギュッと締め付けられる。
「誰か呼ぶ?声かけようか?」
手に持っていたハンカチを学ランのポケットにしまいながら加藤くんが問いかけてくれる。
「あ、いや、探していたのは加藤くんで…」
「僕?…あ、もしかして教科書汚しちゃってた?」
罪悪感を表情に浮かべながら加藤くんが私を見る。そんなことはない。そんな顔をさせてしまって申し訳ない気持ちになる。
「いや、全然!きれいだったよ!…何というか、あの、別件で、」
「うん」
眼帯で閉じられていない左目が、私を真っ直ぐに見ている。加藤くんの貴重な時間を無駄にするわけにはいかない。ここで聞くと決めたはずだと自分を鼓舞する。
「あの、連絡先とか聞けたら嬉しいなと思って」
恐る恐る加藤くんを見ながら告げると、彼は驚いた様子で目を少しだけ丸くしたが、すぐに柔らかな笑顔に変わる。
「ありがとう、とても嬉しいよ!僕も昨日聞いておかなくて、後悔していたんだ。」
すとんと、胸の緊張が取れた。良かった、ちゃんと連絡先を聞けた。嬉しい。
スカートのポケットに入れていたスマホを取り出しながら尋ねる。
「よかった~緊張したよ~。何が連絡取りやすいかな?LIME?」
「そうだね…LIMEが良いかな。嫌じゃなかったら、電話番号も教えてくれる?」
「もちろん大丈夫だよ~!ありがとう!」
Aクラの教室後方の扉の前を占領したまま、加藤くんと連絡先を交換する。LIMEを交換して、スタンプを送り、自分の電話番号を送った。加藤くんが電話番号と一緒にメールアドレスもくれたので、私も後からメールアドレスを送る。何かのサイトに登録するときくらいしか使わないけど、と口頭で伝える。僕もそうだよ、と返ってきて何だか嬉しくなる。今日の目標は達成だ!嬉しい!!と思ったところで、ふと我に返った。
「あ!!ごめん、もしかして付き合っている人とかいる?そうだったら、相手に申し訳ないかも…」
穏やかな笑みを浮かべていた加藤くんは一瞬きょとんとした後、声を上げて笑った。
「あはは、大丈夫。僕、彼女いないし、そういうパートナーも居ないよ。」
「あ、ホント…?それは良かった!」
「うん、北条さんもかな?」
「あはは、もちろんだよ。」
「じゃあ、これからよろしくね。ぜひ気兼ねなく連絡してほしい。」
にっこりと笑う加藤くんが眩しい。話しかけてくれた時に飛び跳ねていた心臓は今は少し落ち着いたみたいで安心する。私は高ぶった気持ちのまま、加藤くんに手を振って自分のクラスに戻った。
無意識のうちに、連絡先を交換したばかりのスマホを両手で大事に握りしめていた。
「ごめん、お待たせしました…!」
テンションを抑えきれずに口元が上がったまま、待っていてくれた友人に謝罪する。ガタガタと椅子を揺らしながら席に着く。
「ふふ、手を洗うのにどれだけ時間かかっているのかと思ったよ~」
お弁当を食べずに待っていてくれた友人の武田ちゃんがスマホから顔を上げて声をかけてくれる。机を寄せるのが面倒で、私の前の席の椅子を拝借しているようだ。
「ごめんね、お待たせしちゃった。」
「廊下が近いから声が聞こえたけど、誰の連絡先ゲットしたの?」
にやにやした顔で聞いてくる武田ちゃんは、高校1年生の頃からの気の置けない友人である。私の恋愛ゲームに対する熱意にも理解を示してくれている、というより、彼女もアイドルを推している人なので同じような仲間なのである。
「Aクラの加藤くん、分かる?」
「え、分かる分かる!4月に転入してきたスラっとしたイケメンね!!」
「やっぱりイケメンだよねぇ」
「すごいじゃん、連絡先聞けたんだ?」
お弁当を食べ進めながら、話題は専ら加藤くんのことである。昨日の教科書のこと、恋愛ゲームの「伊達政宗」に似ていること、授業中も頭から離れずとうとう連絡先を聞きに行ったこと…武田ちゃんには何でも話せてしまう。
「それさ…恋じゃないの?聞いてると好きってことなのかなと思うけど」
「私の中ではイマイチ確証が持てないというか、政宗様に似ているから気になるのか、一目惚れして加藤くん本人が気になっているのか、ちょっとなんとも言えないというか、すごく失礼なのは承知しているんだけれども…」
「うーん、好きになるきっかけは私的には何でもいいと思うけどね~。伊達政宗と重ねたらちょっと失礼かもしれないけど。理想の押し付けというかね、そういうことしないとは思うけどさぁ。」
「そうだね、それは失礼だから、ちゃんと加藤くんを知ろうと思っているよ。」
「今日連絡するんでしょ?また教えてよ」
加藤くんの話で盛り上がり、次いでお互いの推しについてきゃいきゃいと盛り上がっている間に、昼休みが終わるまで残り10分となってしまった。今日の放課後、さっそく連絡してみようかな。加藤くんのことを少しずつ知っていきたい。
恋愛ゲームと学校の勉強で占められていた私の世界に、加藤くんというカテゴリが追加されたのが、高校2年生の4月、桜が散ってようやく暖かくなってきた春のことだった。
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