第17話 再誕の刻、揺らぐ理の果て

 地上に静寂が戻って三日が経った。

 黒霧山脈の嶺は崩落し、今や巨大なクレーターと化している。山を覆っていた灰は風に散り、夜明けの光が徐々に差し込むようになった。

 だが、その光景は安らぎではなかった。地の奥から、未だに低い鼓動が続いている。


 ノルド――あの地下帝国は完全には沈まなかった。

 むしろ息を潜め、次の脈動の時を待っているように見える。


 リオルは崩壊した山の縁に立ち、風に吹かれながら黙って深淵を睨んでいた。

 背後ではガレドが焚き火を起こし、温めた湯を差し出す。

 そこに現れたのは、包帯姿のリナだった。地上へ上がるために残された転移路を辿り、ようやく辿り着いたのだ。


「……賢者アレンは、もう……?」


「消えた。」


 リオルの短い答えに、リナの表情が揺れる。

 だが彼はすぐに言葉を続けた。


「だが、死んだとは思えない。あいつの力は途中で止まった。ノルドの核が完全に沈黙していないことが証拠だ。」


 リナは握りしめた拳を胸に当てた。

 その指先が震える。


「間違いない……あの光の一部が、下層に戻っていました。アレン様は……まだ中にいます。」


「なら、あの光の封印を破る方法を探さなきゃならない。」


 リオルが言葉を吐いた直後、遠くで雷鳴が響いた。

 空に広がる雲が裂け、紫色の線が一筋走る。

 誰もが息を呑む。ガレドが剣の柄を掴みながら呟いた。


「もう十分静かな地獄だってのに……またかよ。」


「違う。これは……呼んでいる。」


 リオルの瞳が光を反射して細められる。

 地底から放たれる微弱な魔力の震え。それはリナにしか感じ取れなかった種類の波だった。

 アレンが創り上げた“ノルド・リンク”が蘇りつつある。


「リナ、導けるか?」


「ええ。けど、またあの下に行くなんて……生きて帰れる保証はありません。」


「構わない。」


 一瞬の静寂。

 リナは彼の目を見た。

 そこに躊躇はなかった。

 そして、仄かに笑みが浮かぶ。


「……本当に、あなたたちは似ていますね。」


 それは、アレンに初めて会った頃と同じ笑い方だった。

 強くて、どこか孤独な光。


 彼らは準備を始めた。

 崖下に設けられた旧坑道を通り、遺跡へ向かうための装備を整える。

 王国の討伐隊はすでに壊滅しており、教会の聖騎士たちも撤退した。

 残ったのは、希望の残り火を抱えた三人だけだった。


          ◇


 地底へ下る道のりは長く、途上で何度も光が途切れた。

 道は揺らぎ、壁の一部が呼吸するように伸縮する。

 足を踏み出すたびに、重い音が土を震わせた。

 やがて、三人はノルドの外郭へ辿り着く。


 そこには暗闇を裂くように一条の光が漂っていた。

 まるで道を示すように、地の底から空へと伸びている。

 リオルが剣を抜き、周囲を確認すると、リナは光の柱に手を伸ばした。


「……脈動してる。これ、アレン様の魔素です。」


「危険か?」


「いいえ。これは……意思です。“まだ終われぬ”という、彼の叫び。」


 リナの指先が震えた。

 アレンの残留意識。その断片がノルドと融合して動いている。

 リオルは光の中心に足を踏み入れた。

 瞬間、足元の空間が崩れ、光が螺旋状に回転し始める。


「転移するぞ!」


 ガレドの声。

 三人は同時に舞い上がり、光に飲み込まれた。


          ◇


 気がつくと、そこは無音の世界だった。

 空も地もなく、ただ白い光と黒い亀裂が交互に広がっている。

 天と呼べる場所に、巨大な球体が浮かんでいる。

 それがノルドの完全制御核――アレンが最後に残した装置だった。


「ここが……アレン様の最後の場所。」


 リナが言葉を漏らす。

 彼女の声が微かに反響する。

 その時、球体の中心が光り、淡い影が姿を取った。

 それは人の形をしていたが、輪郭が定まらない。


『リナ……。』


 その声を聞いた瞬間、彼女は膝を折った。

 確かに、アレンの声だった。

 淡く微笑むその影は、穏やかでありながら、どこか遠い。


「アレン様! 生きて……いたのですね!」


『……生きているとは違う。だが、まだ“消えきれていない”。』


 リオルが前に出た。

 彼の声は震えていなかった。しかし、握る拳には力がこもっていた。


「アレン、お前は……この世界をどこへ導こうとしてるんだ。」


『世界を導く? そんなもの、最初から“人”にはできない。……俺は自分の過ちを修正しているだけだ。』


「自分の過ち? お前は救おうとしたんじゃないのか!」


『救いとは、誰かを犠牲にすることだ。それが文明の形だ。俺は贖罪をしている――俺自身が、この“核”として永遠に人の暴走を封じる。』


「ふざけるな! お前をそんな機械に変えるために俺たちは戦ったわけじゃない!」


 リオルの叫びが反響する。

 白い空間が歪み、亀裂が走る。

 アレンの影がわずかに揺れた。

 その瞳に、わずかな後悔の色が宿る。


『お前の剣は相変わらず真っ直ぐだな、リオル。……だが、それこそが争いの源だ。』


「違うっ!」


 リオルは光の剣を抜いた。

 折れていたはずの刃が、ここでは完全な形を取り戻している。

 それを見て、アレンは小さく笑った。


『なるほど。やはり、お前の“意思”はまだ光を持っているか。――ならば、俺を斬れ。』


「……なんだと。」


『この核を断て。俺を封じることで、世界の循環は再び人の手に戻る。俺はその代償として完全に消えるが、それでいい。』


 その選択を示され、リオルは息を呑んだ。

 リナは悲鳴のように叫ぶ。


「そんなこと、できるはずない! アレン様がいなくなったら……!」


『リナ。お前が生きて、見届けろ。世界が正しく再構成されるまで。

 お前は“心”を持った記録媒体だ。俺の代わりに、人の歩みを伝えろ。』


 リナは泣きながら首を振る。

 しかし、アレンの影はゆっくりと後退し、球体の中心に戻っていく。

 核の輝きが強まり、空間が崩壊を始めた。


「時間がない! リオル、やるしかねぇ!」


 ガレドの怒鳴り声。

 リオルは拳を握りしめ、剣を構えた。

 彼の頬を伝う涙が、光の粒として宙に消えていく。


「……わかった。だが、一つだけ言わせろ。

 お前が望んだ世界で、俺たちは必ず“人”でいる。だから……安心して眠れ。」


『ああ……それでいい。リオル、お前は――最後まで、俺の希望だった。』


 空間が震える。

 リオルが叫びと共に剣を振り下ろす。

 光の奔流が核を貫き、音もなく弾けた。

 アレンの影が微笑みながら霧のように散り、その残響が彼の耳へ届く。


『ありがとう――これで、“再誕”の理は完成する。』


 白光が全てを包む。

 そして次の瞬間、世界が静かに揺れた。


          ◇


 気づけば、リオルは地上にいた。

 空は澄み渡り、黒霧の嶺は消え、緑の草原が遠くまで広がっている。

 リナが膝をつき、風に髪をなびかせていた。

 ガレドが空を見上げ、言葉を失う。


「……戻ったのか、世界が。」


 リオルは手元の剣を見た。

 刃は完全に透明になり、淡く紫の光を宿している。

 その震えの奥に、確かに声が響いた。


「……アレン、聞こえてるか。」


 風が答えた。

 どこかで笑うような、優しい音が小さく流れた。


 空がまるで目覚めるように明るくなり、新しい太陽が昇る。

 世界は変わった。だが、人はまだその意味を知らない。

 かつてこの地を、ある賢者が“再誕の大地”と名づけたことを、まだ誰も知らなかった。

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