新・クトゥルフ短編集-03 古びたアパートと隣人の『秘密の趣味』
NOFKI&NOFU
第1話 隣室からのノイズ ― 夕凪荘203号室の夜 ―
夜の街のざわめきが、一本の路地でふっと途切れる。
その先に、古びたアパート「夕凪荘」は沈んでいた。
外壁は風雨に晒されて灰色に変色し、
モルタルの亀裂からは錆びた鉄骨が覗いている。
夜風がベランダの鉄柵を鳴らす音は、
まるで何かが内側から這い出そうとしているようだった。
田中秀樹(32歳、会社員)は、
その薄暗い建物を見上げて呟いた。
「……まあ、安けりゃいいか」
家賃の安さと駅からの距離。
彼がこのアパートを選んだ理由は、
ただそれだけだった。
引っ越し初夜。
ビール缶を片手に、段ボールの隙間から、
見える時計は午前1時を指していた。
古い床板は軽く軋み、外の街灯が弱々しく壁を照らす。
(音、筒抜けだな……)
隣の部屋から、咳払いが聞こえた。
まるで、すぐ隣で誰かが息をしているようだ。
その時――。
「ドスン、ドスン……」
低く、鈍い打音が壁を揺らした。
コンクリートを叩き割るような、重く湿った響き。
まるで、地下の何かを掘り返しているような感触すらあった。
「上の階じゃないな……隣だ」
秀樹は眉をひそめた。
そして次の瞬間、耳を疑う声が、
壁の向こうから流れ出した。
「フングルイ・ムグルナフグ・クトゥルフ・
ルルイエ・ウェレ・カーソヴ……」
ぞっとするほど低く、どこか喉を擦り切るような発声。
人の言葉ではない。
音の連なり自体が、
異様な意味を帯びているように感じられた。
「な、なんだよ……宗教か?」
恐怖より先に、苛立ちが勝った。
秀樹は壁に耳を当てる。
冷たいコンクリートが皮膚の熱を奪い、
心臓の鼓動だけがやけに大きく響く。
詠唱と打音。
そのリズムが、不規則に、しかし確実に――
どこか『意図的』に重なっている。
不快で、だが奇妙に整ったその調和は、
聴く者の理性を薄く削る。
金曜の深夜3時。
「ドスン、ドスン」という音は止む気配がなかった。
「ふざけんな……!」
眠気も怒気も限界を超え、
秀樹はスリッパのまま部屋を飛び出した。
表札に『増田』とだけ書かれた隣室の前で、
彼は荒々しくノックした。
「すみません!隣の田中です!
夜中に何やってるんですか!?」
数秒の沈黙。
やがて、チェーンが外れる小さな音。
ドアが開くと、そこには――
予想外に柔らかい笑顔の男が立っていた。
痩せ型の体に黒縁メガネ、清潔なシャツ。
物腰は穏やかで、声も静かだった。
「ああ、これはご迷惑をおかけして。
増田と申します」
「夜中に『ドスン』ですよ。あと……
変な声。詠唱みたいな。あれ、何なんです?」
増田は苦笑した。
「詠唱……いやぁ、恥ずかしいですね。
それ、私の『集中法』なんです。
木工細工。今、銘木を扱っていましてね。
古い道具を使うと特に、
こういう音が出やすいんです」
「木工細工?この時間に?」
「ええ。硬い素材を使ってましてね、
『音』が出やすいんです。古い道具を使うと特に。
……でも、ご安心を。防音マットをすぐ買います」
頭を下げ柔らかく笑うその仕草には、
敵意など感じられなかった。
だが――何かが引っかかる。
「木工って、何を彫ってるんです?」
「ん? ああ……ちょっとした『像』ですよ。
古い伝承をモチーフにした、海の神様の……。
ハハ、趣味みたいなものです」
その笑顔の裏で、一瞬だけ、増田の目が――
濡れたように光った気がした。
翌日、秀樹はアパートの管理人の老婦人に聞いてみた。
「ああ、増田さん?
礼儀正しい人ですよ。ずっと静かでねぇ」
「……夜中に音、聞こえませんか?」
「昔からよ。前の住人も『何か作ってる』って、
言ってたわ。芸術家なんだって」
「芸術家、ね……」
彼女は、ふと懐かしむように呟いた。
「でもね、時々、あの部屋の前を通ると、
変な匂いがするの。海辺の、腐った藻みたいな。
……あら、ごめんなさいね。怖がらせちゃった?」
その夜。
「ドスン、ドスン……」
相変わらず音は止まない。
詠唱はより明瞭に、より熱を帯びて響く。
「イア! イア! クトゥルフ・フタグン!」
もはや『呼吸法』とは思えなかった。
音は壁の向こうからだけではない。
床下、天井、あるいは――
自分の頭の奥からも聞こえるように錯覚する。
秀樹は壁に耳を押しつけ、息を止めた。
そして気づく。
詠唱の隙間に、
確かに「何かを引きずる音」が混ざっている。
湿った布を床に擦るような……いや、違う。
それは『肉』の音だ。
(……何を彫ってる?)
恐怖と好奇心が入り混じる中、彼はノートを開いた。
音のリズム、単語、詠唱の断片――すべてを記録していく。
やがて、書き出した文字列が奇妙な形を成す。
それは、まるで『何か』を呼び覚ます儀式の設計図のようだった。
そして、午前4時。
壁の向こうから、低く、湿った「笑い声」が聞こえた。
「――フフ、ようやく『目』が開いた」
田中は凍りついた。
壁の下から、じわりと黒い液体が滲み出してくる。
第2話「異臭と覗き見の代償」へ続く
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