永遠のふりをして、君との距離を測っていた

@tamacco

第1話 プロローグ:五月の風は、いつかと同じ匂いがした

 教室の窓から吹き込んだ風が、白いカーテンを大きく孕ませて、午後の気配を連れてくる。

 五限目の物理の授業。チョークが黒板を叩く乾いた音と、遠くのグラウンドから聞こえる運動部の掛け声。それらが混ざり合って、眠気を誘う心地よいノイズになっていた。

 私は頬杖をついたまま、ぼんやりと黒板の数式を眺めるふりをして、視線を少しだけ右にずらす。


 そこには、近くて遠い背中があった。


 少し猫背気味の姿勢。窓からの光を透かして茶色がかって見える黒髪。白シャツの袖を乱雑に捲り上げた腕と、シャープペンシルを回す細長い指。

 そのすべてを、私は痛いくらいに知っている。


 湊。

 湊、と心の中で呼ぶ。声に出すことは、もう何年もできていない。


 私の席は、教室の窓際から二列目の後ろから三番目。そして、私の右隣、一番窓側の席に座っているのが彼――相原湊(あいはら・みなと)だ。

 四月のクラス替えでこの配置表が張り出された時、私の心臓は口から飛び出しそうになった。神様はなんて残酷な悪戯をするんだろうと思った。

 よりによって、一番気まずい幼なじみと隣の席になるなんて。


 私たちは、家が隣同士だ。

 幼稚園から中学校までずっと一緒で、親同士も仲が良くて、夕飯のおかずを行き来させるような、そんな典型的な「幼なじみ」だった。

 小学校の時は、毎朝一緒に登校した。放課後は私の家の庭で、日が暮れるまで宿題をしたりゲームをしたりした。彼が風邪を引けばプリントを届けたし、私が熱を出せば彼がお見舞いに来てくれた。

 それが当たり前だった。空気のように、そこにいるのが自然な存在だった。


 だけど、中学二年生の夏。ある些細な出来事をきっかけに、私たちは会話を失った。

 喧嘩をしたわけじゃない。決定的な別れの言葉があったわけでもない。

 ただ、思春期特有の自意識と、周囲の心ない冷やかしと、そして私自身が抱き始めていた「名前のつかない感情」を持て余して、私たちは示し合わせたように距離を置いたのだ。


 それから三年。

 高校二年生になった今、私たちの間にあるのは、分厚くて透明な壁だ。

 挨拶もしない。目も合わせない。用事があるときは、他の誰かを介して伝える。

 家が隣同士だから、登下校のタイミングが被ることもあるけれど、そんな時はどちらかが時間をずらす。あうんの呼吸で、私たちは「他人」を演じ続けている。


 なのに。

 こうして隣の席になって一ヶ月。私は毎日、半径一メートル以内の距離で彼の存在を感じなければならなかった。


 ふと、湊の手が止まったのが視界の端に入った。

 彼は教科書の端を親指で弾きながら、小さく息を吐いたようだ。退屈しているのだろうか。それとも、難解な物理の法則に頭を悩ませているのだろうか。

 以前の私なら、迷わず声をかけられた。

『ねえ、ここ分かんないんだけど』

『しょうがないな、貸してみろよ』

 そんな軽口が、かつては息をするように自然に出ていたはずなのに。今では、その一言を発するための声帯が錆びついてしまったかのように動かない。


 風がまた強く吹いて、私の机の上のノートをめくった。

 パラパラという音が、静かな教室に不釣り合いなほど大きく響く。

 私は慌ててノートを押さえた。その拍子に、机の端に置いてあった消しゴムに肘が当たってしまった。


 コトッ。


 小さな音を立てて、白い消しゴムが通路に転がり落ちる。

 コロコロと転がったそれは、あろうことか、湊の椅子の脚元で止まった。


 ――最悪だ。


 心の中で悲鳴を上げる。

 授業中に席を立って拾いに行くのは目立つ。かといって、そのままにしておくわけにもいかない。

 どうしよう。私がフリーズしていると、視界の端で湊が動いた。


 彼は黒板を見たまま、上半身を少し傾けることなく、長い腕をだらりと下げた。そして、自然な動作で私の消しゴムを拾い上げる。

 一連の動作に淀みがない。まるで、それが自分の落とし物であるかのように。


 ドクン、と心臓が跳ねた。


 彼はそのまま、ノールックで私の机の端――私が手を伸ばせば届く絶妙な位置に、コトリと消しゴムを置いた。

 視線は一度も私に向けられない。言葉もない。

 ただ、その指先が微かに私の教科書の端を掠めただけだ。


 私は喉の奥が熱くなるのを感じた。

「……っ」

 ありがとう、と言おうとした。

 でも、声が出なかった。

 ここで私が小声で礼を言えば、周囲の生徒が「あいつら喋ってる」と気づくかもしれない。そんな自意識過剰な恐怖が、私の唇を縫い合わせてしまう。


 私は小さく頭を下げることしかできなかった。

 彼がそれを見ていたかは分からない。彼はもう、頬杖をつき直して、窓の外の雲を眺めていたから。


 机の上に戻ってきた消しゴムを見つめる。

 まだ新品に近い、角の尖ったプラスチック消しゴム。

 それを拾い上げてくれた彼の指先には、シャープペンシルの芯の汚れが少しついていた気がする。

 そんな些細な情報だけで、私の胸は苦しいほどに締め付けられた。


 優しい人なのだ、彼は昔から。

 困っている人を放っておけない。転んだ子供がいれば真っ先に駆け寄るし、捨て猫を見れば飼い主が見つかるまで雨の中で傘を差してやるような、不器用な優しさを持つ人だった。

 今の行動だって、深い意味なんてないはずだ。隣の席の女子が消しゴムを落としたから拾った。ただそれだけ。クラスメイトとしての親切心。


 分かっている。分かっているけれど。

 その「特別じゃない親切」が、私には何よりも残酷で、そして甘美だった。


 チャイムが鳴り、五限目の終了を告げる。

「はい、じゃあ今日はここまで。日直、号令」

 物理教師の気のない声と共に、教室の空気が一気に弛緩する。

「起立、礼」

 ガタガタと椅子を引く音が響き渡り、生徒たちが一斉に動き出す。休み時間の喧噪が戻ってくる。


 私は逃げるように教科書を鞄にしまい込んだ。

 隣では、湊もゆっくりと片付けを始めている。

 彼の周りに、男子生徒たちが集まってきた。

「おい相原、購買行こうぜ」

「腹減ったー。パン残ってるかな」

「ああ、行く」

 湊が短く答えて席を立つ。

 その時、ふわりと風が鼻先を掠めた。


 柔軟剤の香り。

 清潔な石鹸のような匂いに、少しだけ汗の匂いと、初夏の青葉の匂いが混じっている。

 それは、記憶の中にある匂いと同じだった。

 小学生の頃、泥だらけになって遊んだ帰り道。中学生の頃、部活帰りに並んで歩いた夕暮れ。

 ずっと隣にあった、私の好きな匂い。


 彼は私のすぐ横を通り過ぎていく。

 ほんの一瞬、視界の端で彼の視線がこちらを向いたような気がした。

 けれど私が顔を上げるより早く、彼は友人の肩を叩いて笑いながら教室を出て行ってしまう。

 その笑顔は、私にはもう向けられることのないものだ。


「……はぁ」

 彼がいなくなった空間に向かって、私は深く息を吐き出した。

 胸の奥に溜まっていた熱が、ため息と共に溶け出していく。


「紬(つむぎ)、どうしたの? なんか顔赤いよ」

 前の席の友人が、不思議そうに振り返った。

「えっ、うそ。なんでもないよ、ちょっと暑いだけ」

 私は慌てて両手で頬を包み込む。掌に伝わる熱は、確かに平熱よりも少し高い気がした。

「そっかー。もう五月だもんね。夏服にすればよかったかな」

 友人は納得したように笑って、また別の子とお喋りを始める。


 私は窓の外に目を向けた。

 五月の空は高く、薄い青色がどこまでも広がっている。

 校庭の隅に植えられた桜の木は、もうすっかり緑の葉を茂らせて、風に揺れていた。


 この季節が来るたびに、思い出す。

 まだ私たちが「私たち」だった頃のことを。

 境界線なんてなくて、永遠にこの関係が続くと思っていた頃のことを。


 机の上の消しゴムを、もう一度手に取る。

 彼が触れた場所を、親指でそっとなぞってみる。

 そこにはもう、彼の体温は残っていないけれど。


 ――好き。


 封じ込めたはずの言葉が、音にならない形をして喉元までせり上がってくる。

 認めてしまえば楽になるのだろうか。それとも、認めてしまえば、この微妙な均衡さえも崩れてしまうのだろうか。


 私は「お隣さん」で「幼なじみ」で、今はただの「クラスメイト」。

 その名前のついた箱の中に感情を押し込んで、蓋をする。

 でも、今日の風は少し強すぎて、うっかり蓋が開きそうになるのだ。


 いつかと同じ匂いのする風が、またカーテンを揺らした。

 止まっていた時計の針が、微かに音を立てて震えたような気がした。


 これは、そんな予感から始まる、高校二年生の五月のこと。

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