アムネシア・プロトコル ~記憶修正都市の反逆者~

@tamacco

第1章:偽りの楽園

第1話 幸福なる箱庭、ネオ・アルカディア

「おはようございます、ソーマ。本日のネオ・アルカディアの天候は快晴、気温は二十四度、湿度は四十%に完全に調整されています。あなたの現在の幸福指数(ハピネス・レート)は安定圏内の九十二です。素晴らしい一日を」


 まどろみの中で聞こえてきたのは、柔らかく、それでいて一切の抑揚の揺らぎがない合成音声だった。

 目を開けると、視界の隅に淡いグリーンの文字が浮かび上がる。網膜に直接投影されたAR(拡張現実)インターフェースだ。時刻は七時〇〇分。一秒の狂いもない。

 私はベッドから起き上がり、大きく伸びをした。窓ガラス——実際には高精細な有機ELディスプレイ——が不透明から透明へと遷移し、眼下に広がる都市の全貌を映し出す。


 白を基調とした流線型の高層ビル群が、朝日に照らされて輝いている。空は突き抜けるような青。雲ひとつないのは当然だ。雲の量さえも、この都市を統括するAI『アイオン』によって厳密に管理されているのだから。

 地上五百メートルの空中回廊を、反重力リニアカーが音もなく滑っていく。行き交う人々は皆、洗練された衣服を身にまとい、その表情は穏やかだ。誰もが微笑んでいる。誰もが満たされている。

 ここはネオ・アルカディア。人類が到達した、至高の理想郷。

 争いも、貧困も、病気も、そして不幸さえもが存在しない場所。


「……完璧だな」


 私は誰に聞かせるでもなく呟いた。その言葉は、習慣のように口をついて出る確認作業のようなものだった。

 洗面台の鏡に映る自分の顔を見る。黒髪に、少し色素の薄い瞳。左のこめかみには、ニューロ・リンカーの接続端子が埋め込まれている。市民であれば誰もが持っている標準装備だが、私のような技術職(エンジニア)のものは、より深層領域へのアクセス権限を持つ特別製だ。

 朝食は完全栄養食のゼリーと、風味付けされた合成コーヒー。味気ないと思うことはない。味覚中枢への信号操作で、それはかつて文献にあった「挽きたての豆」の香りと味を完璧に再現しているからだ。


 支度を終え、私は自宅マンションを出た。エレベーターで地上へと降りる間、ニュースフィードが視界を流れる。

『昨夜、第4セクターでわずかなストレス数値の上昇が確認されましたが、アイオンの迅速な介入により解決しました』

『本日の推奨アクティビティは「共有による共感」。隣人に笑顔を向けましょう』

 ネガティブなニュースは一つもない。もしあったとしても、それは即座に削除されるか、ポジティブな解釈へと変換されて報道される。

 職場である『記憶管理局(メモリー・ビューロー)』へ向かう通勤路。すれ違う女性が会釈をしてきた。私も口角を規定の角度まで上げて微笑み返す。

 彼女の頭上に浮かぶステータス・タグには『幸福』のアイコンが輝いていた。

 この世界では、不幸であることは罪ではない。ただの「エラー」だ。そしてエラーは、速やかに修正されなければならない。

 それが、私の仕事だった。


 *


 記憶管理局の第三調整室。

 白い壁に囲まれた無機質な部屋の中央に、繭のような形状をしたポッドが置かれている。

 その中には一人の初老の男性が横たわっていた。頭部には無数のケーブルが接続され、彼の脳内データが空中に展開されたホログラム・モニターに波形として表示されている。

 私はポッドの傍らにあるコンソールに向かい、慣れた手つきで空中のキーボードを叩いた。


「対象者ID:MS-402。主訴:ペットロスによる重度の鬱状態。……なるほど、これは確かにエラー値が高い」


 モニター上のグラフが、赤く警告色を発して乱高下している。彼の脳内では今、長年連れ添った愛犬を失った悲しみが嵐のように吹き荒れているのだろう。コルチゾール値の上昇、扁桃体の過剰活動。放置すれば、彼の精神衛生(メンタル・ヘルス)に深刻な悪影響を及ぼすだけでなく、周囲の市民へ「悲しみ」というウイルスを感染させかねない。

 私は仮想の手袋(データ・グローブ)を装着し、彼に断りを入れることなく、その記憶データへとダイブした。


 視界が一瞬歪み、次の瞬間、私は彼の記憶の中に立っていた。

 そこは、少し古びた公園のベンチだった。夕暮れ時。足元には動かなくなったゴールデンレトリバーが横たわっている。老人は泣いていた。その慟哭が、データとしての重みを持って私の胸を圧迫する。

「……辛い記憶ですね。ですが、もう安心してください」

 私は業務的な口調で呟くと、右手をかざした。

 編集ツールを展開する。空中にパレットのようなメニューが表示された。

 私は【削除】ではなく、【改変】のブラシを選択する。

 単純に記憶を消してしまうと、人格の連続性に矛盾が生じる(バグる)ことがある。だから私たちは、悲しみを喜びに塗り替えるのだ。


 私は時系列データを操作し、犬が死んだ瞬間のパラメータをいじる。

 心停止の事実を、「穏やかな眠り」へと認識変更。さらに、老人の感情パラメータから「喪失感」と「絶望」を抽出して廃棄。代わりに「感謝」と「達成感」のデータを注入する。

 夕暮れの空の色を、寂しげな茜色から、希望に満ちた黄金色へカラーグレーディング。

 老人の涙を、悲しみの涙から、「よく頑張ったな」という労いの涙へ書き換える。

 犬は死んだのではない。寿命を全うし、光の粒子となって空へ還っていったのだ——という美しいメタファーを、事実として脳に定着させる。


 作業は五分とかからなかった。

 嵐のような脳波は嘘のように静まり、モニターには穏やかな緑色の波形が流れている。

「調整完了(チューニング・コンプリート)。お疲れ様でした」

 ログを保存し、接続を切る。

 ポッドの中の老人がゆっくりと目を開けた。先ほどまでの悲痛な表情は消え失せ、仏のような穏やかな笑みを浮かべている。

「ああ……なんだか、とても温かい気持ちだ。ポチは、幸せだったんだな」

「ええ、そうですよ。彼はあなたに感謝して旅立ちました。素晴らしい思い出ですね」

 私はマニュアル通りの台詞を返す。

 老人は何度もお礼を言いながら部屋を出て行った。彼の幸福指数は、入室時の三十から九十五まで回復していた。

 これでいい。これで、社会の調和は保たれた。


 私は大きく息を吐き、椅子に深く座り込んだ。

 記憶調律師(メモリ・チューナー)。それが私の職業だ。

 人々の心に生じた綻びを縫い合わせ、汚れた記憶を漂白する仕事。

 高給で、社会的地位も高い。何より、人々に幸福をもたらす聖職だとされている。

 だが、時折——本当に、ごく稀にだが——奇妙な感覚に襲われることがある。

 例えば今、私が削除した「悲しみ」のデータ。ゴミ箱フォルダの中で、無数の断末魔のようなノイズとなって消去されるのを待っているそれらは、本当に不要なものだったのだろうか?

 悲しみがあるからこそ、喜びが際立つのではないか?

『思考検知:微細なストレス反応を確認。ソーマ、休憩を推奨します』

 脳内でアイオンの声が響いた。

 思考さえもモニターされている。この都市ではプライバシーという概念もまた、幸福のために最適化されているのだ。

「問題ない。次の案件に取り掛かるよ」

 私は思考のノイズを振り払うように首を振り、次のデータファイルを呼び出した。


 *


 午後の業務は単調だった。

 失恋の痛手を「良き成長の糧」に書き換える作業。

 仕事での失敗を「成功への布石」というポジティブな記憶に変換する作業。

 どれもテンプレート通りの処理で済む。私は機械的に手を動かし続け、時刻は十八時を回ろうとしていた。

 最後の一件。未処理ボックスに残っていた、破損ファイルのようなアイコン。

 タグには『分類不能』の文字。

「なんだ、これ?」

 通常、全ての記憶データには感情の種類に応じたタグが自動で付与される。分類不能というのは珍しい。

 私は眉をひそめながら、そのファイルを開いた。


 刹那、強烈なホワイトノイズが視界を覆った。

「うっ……!?」

 ニューロ・リンカーを通じて、脳髄を直接針で刺されたような鋭い痛みが走る。

 警告音が鳴り響くかと思ったが、システムは沈黙している。アイオンはこの異常を検知していないのか?

 ノイズの嵐の中で、私は必死にデータの核(コア)を探った。

 そこにあったのは、いつもの赤黒い「不幸」のデータではなかった。

 青。

 透き通るような、深く、冷たく、それでいて吸い込まれそうなほど美しい、青色の輝き。

 それに指先が触れた瞬間、私の脳裏に強烈なビジョンが流れ込んでくる。


 ——雨。

 冷たい雨が降っている。

 この都市では決して降ることのない、コントロールされていない、無秩序で冷酷な雨。

 薄暗い路地裏。ネオンサインが水たまりに反射して歪んでいる。

 そこで、誰かが泣いていた。

 フードを深く被った小柄な影。顔は見えない。だが、その肩が小刻みに震えているのがわかる。

 幸福な修正など拒絶するような、純粋で、鋭利な悲しみ。

『……ねえ』

 声が聞こえた。耳ではなく、心臓に直接響くような声。

『……あなたのその優しさは、本物なの? それともプログラム?』

 少女の声だった。

 その声を聞いた瞬間、私の胸の奥底で、封印されていた何かが共鳴した。

 動悸が激しくなる。息が苦しい。これは、なんだ? 恐怖? いや、これは——。


 バチッ!

 火花のような感覚と共に、強制的に接続が遮断された。

 気がつくと、私は調整室の床に膝をついていた。荒い呼吸を繰り返している。冷や汗が背中を伝っていた。

 コンソールのモニターを見る。

 そこには『ファイル破損:アクセス不能』の文字が表示されているだけだった。先ほどの青い光も、雨の映像も、少女の声も、跡形もなく消えている。

「……今の、は……」

 自分の手が震えているのが分かった。

 それは恐怖による震えではない。もっと根源的な、魂が揺さぶられたことによる共振。

 システム上存在しないはずの記憶。アイオンの管理をすり抜けた未知のエラー。

 そして何より、あの少女の言葉が、呪いのように私の思考にへばりついて離れない。

 本物か、プログラムか。

 そんな問いを、今まで考えたこともなかった。自分が感じているこの「満足感」や「使命感」が、もし誰かによって書き込まれたコードの一部だとしたら?


「ソーマ調整官、バイタルサインの乱れを感知しました。医療ドロイドを要請しますか?」

 部屋のスピーカーから、無機質なアナウンスが流れる。

 私は反射的に立ち上がり、衣服を整えた。

「……いいえ、必要ない。少し立ちくらみがしただけだ」

「了解しました。業務終了時刻です。速やかな帰宅と休息を推奨します」


 私は逃げるように調整室を出た。

 廊下の窓から見える都市の夜景は、相変わらず完璧だった。

 色とりどりのホログラム広告が踊り、人工的な星空がドーム状の空を覆っている。

 だが、今の私には、そのすべてが書き割りの舞台装置のように見えた。

 美しい嘘で塗り固められた、巨大な箱庭。

 

 私はポケットの中で拳を握りしめた。

 指先の感覚。そこにはまだ、あの冷たい「雨」の感触が残っているような気がした。

 青い記憶(ゴースト)。

 あれは一体、誰の記憶だったのか。

 そしてなぜ、私がそれに「懐かしさ」を覚えたのか。


 自宅へ向かうリニアカーの中で、私は窓の外を流れる光の帯を見つめながら、一つの決意を固めていた。

 調べてみなければならない。

 この完璧な世界に空いた、針の穴のような小さな亀裂。その向こう側に何があるのかを。

 たとえそれが、決して開けてはならないパンドラの箱だとしても。


 視界の隅で、幸福指数が九十二から八十八へと、音もなく低下していった。

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