最弱暗殺者一家の末娘になった元ヤクザの娘

小肌マグロ

はじまり

 


最初に思い出すのは、銃声じゃない。

父さんの背中の温度だ。


冬の夜、雨上がりのアスファルトは黒く光っていた。

車のヘッドライトが並ぶ細い路地で、私は父さんに抱えあげられていた。

「千景、目ぇ閉じてろ」

耳元で低い声がして、そのすぐ後ろで何かが破裂する。


世界がひっくり返るみたいな音がして、

父さんの身体が、ぐらりと揺れた。


温かかった背中が、急に重たくなる。

抱き上げられていたはずなのに、今度は私が下敷きになっていた。

鉄の匂いがした。

雨の匂いに似てるけど、ずっと濃くて、生ぬるい。


「……父、さん?」

声は出ているのに、耳には届かない。

目の前で、誰かが何かを叫んでいる。

その向こうで、また何発か。光と音だけが断片的に見える。


父さんの手が、最後に私の髪を撫でたのを覚えている。

あの人にしては珍しく、震えていた。


―自分を、守れ。


唇がそう動いた気がした。

でも、もう声にはならなかった。

ヤクザの娘に産まれた日からこうなることは何となくわかっていた。


遅れてやってきた衝撃が、私の胸を貫いたとき、

痛みより先に、世界が遠ざかっていった。


ああ、死んだんだな、と妙に冷静に思った。


暗くなる、というより、音が、匂いが、一つずつ剥がれ落ちていく。

最後に残ったのは、雨の冷たさと、父さんの体温の差。



それも、すぐに、わからなくなった。


     ◇


 ――目を開けたとき、知らない天井があった。


白い。やけに白い。

天井も、壁も、カーテンも、眩しいくらいに。


生きてる? いや、そんなはず――


飛び起きようとして、身体の軽さに違和感を覚える。

ベッドのスプリングがひどく安っぽい音を立てた。


「……?」


視界の端に、ベッド。さらにその向こうに、またベッド。

整然と並んだ簡素なベッドが、部屋の奥まで続いている。


そこに、私と同じくらいの年頃の子たちが何人も寝ていた。

みんな同じパジャマを着て、同じような表情で。


ここは、どこだ。


胸に手をあてる。

撃たれたはずの場所には、傷どころか痛みもない。

代わりに心臓だけが、やけに規則正しく動いている。


死んだ?

死んだけど――生まれ変わった?


いやでも、生まれ変わるって、普通は赤ちゃんからじゃないの?


頭の中でそんなツッコミをしながらも、私は呼吸を整える。

パニックになって騒ぎ出すのは、悪手だ。

父さんなら、こういうときほど周りを見ろって言う。


深呼吸を一つして、ゆっくりと上体を起こす。


ベッドのシーツは少し黄ばんでいて、洗剤と消毒液の匂いがした。

窓は高い位置に一つだけ。外の景色は見えない。

壁には花や天使の絵が貼られているけど、どれもどこか薄っぺらい。


それより、なにより――

自分の髪が、やけに長い。


肩よりずっと下まで落ちる黒髪が、さらりと胸元を撫でた。

前世の私はショートカットだった。

ヤクザの娘なんてものをやっていたから、動きやすさ優先で。


指先が震えた。

震えたけど、それをじっと押さえ込む。


落ち着け。状況を整理しろ。


「……起きた?」


かすれた声が、隣のベッドから降ってきた。


顔を向けると、眠たげな目をした女の子がこちらを見ていた。

年齢は、たぶん私と同じくらい。十七歳前後。

腕には薄い痣のようなものがいくつも残っている。


「今日、来た子だよね。気分はどう?」

「……悪くは、ないけど。ここ、どこ?」


反射的に敬語が抜ける。

向こうも気にしてないようで、ぽりぽりと頬をかいた。


「孤児院。名前は……えっと、『光の園』」

そう言って、天井を見上げて小さく笑った。

その笑い方が、少しだけ、乾いている。


孤児院。

なるほど、だからベッドが並んでいるのか。


でも――


「あなたの名前、聞いていい?」

「……なまえ?」


反射的に「千景」と言いかけて、喉の奥で言葉が止まる。

その瞬間、どこからか声がした。


「――リオ」


ゆっくりとした、優しそうな女の声。

振り向くと、入口に立っていた女の人が微笑んでいた。


薄い修道服のような服を着て、胸元に小さな十字架。

一見するとシスターだ。

けれど、その目だけは笑っていなかった。


「あなたの名前は、リオ。覚えてる?」

「……リオ」


口に出してみると、舌の上に違和感と妙な馴染みが同時に乗る。

前世の私じゃない呼び名。

でも、この身体はそれを自分のものだと主張している。


シスターは近づいてきて、私の額に手をあてた。

冷たい指先。

病院で触診されたときと似ているくせに、もっと無機質だ。


「熱はもうないみたいね。よかった。外で倒れていたのを、うちの人が見つけてくれたのよ。覚えてない?」

「……あんまり」


嘘をついた。

覚えているのは、もっと前のことだけど、それは言わない方がいい。


「記憶が混乱しているのね。いいのよ、少しずつで」

女の人は、わざとらしい優しい声で言う。

その目が、私の腕や首筋を、値踏みするように滑っていく。


私は何も言わずに、彼女の顔を見返す。

父さんに鍛えられた「黙って観察する」癖が、自然と出ていた。


視線に気づいたのか、シスターは小さく笑った。


「ここは安全な場所よ、リオ。あなたみたいな子どもを保護して、育てているの。みんな、あなたの新しい“家族”になる子たちよ」


家族、その言葉に、胸の奥がじくりと疼いた。

でも、その痛みはすぐに飲み込んで、私は曖昧に頷く。


「……わかりました」

「いい子ね。今日はゆっくり休んで。明日から、みんなと一緒に“テスト”をしていきましょうね」


テスト。

その言い方だけが、不自然に強調されていた。


     ◇


その夜、私は寝たふりをしながら、部屋の隅々まで観察していた。


消灯時間になるとすぐ、明かりは落とされる。

窓の外には月が出ているはずなのに、分厚いカーテンがそれを遮っていた。

廊下を歩く靴音。

微かな金属音。

子供のすするような泣き声。


孤児院と呼ぶには、音が硬すぎる。


目を閉じて、耳だけを研ぎ澄ませる。

拾える情報はすべて拾え、と父さんが言っていた。


そのとき、聞き慣れない単語が耳に引っかかった。


「――眷属の反応は?」

「精神力の値が足りない。これ以上刺激すれば、壊れる可能性が高い」

「壊れても構わないわ。失敗例もデータになる」


声は、壁一枚隔てた向こう側からだ。

女と男、少なくとも二人以上。

先ほどのシスターの声も混じっている。



眷属。

さっきから何度か、子どもたちの会話の中にも出てきた単語だ。


この世界には魔法はない、とここに来る前――いや、私がいた世界にもそんな物はない。


けれど、この世界では「眷属」と呼ばれるものを誰もが当たり前のように口にしているらしい。


「精神力さえ鍛えれば、眷属は必ず定着するのよ」

「元の素体が弱すぎるんだ。拾い物ばかり連れてくるからだぞ」

「それしか手に入らないんだから仕方ないでしょう? ……それに、さっきの子は少し違うわ」


さっきの子、という単語に、心臓がひとつ跳ねる。


「拾われてきた時点で、基礎値が高い。精神波形も安定している。無改造でも眷属と適合する可能性が高いわ」

「へえ……。じゃあ、少し大事に扱うか。壊したら怒られそうだ」


楽しそうな笑い声。


私は布団の中で、ゆっくりと拳を握った。

その手に汗が滲んでいるのを自覚しながらも、呼吸だけは静かに保つ。


――孤児院なんかじゃない。


ここは、なにかの研究所だ。

精神をいじくって、眷属とやらを無理やりくっつける装置を動かしている。


子どもたちは、患者でも保護対象でもない。

ただの、材料だ。


     ◇


テストは翌日から始まった。


まずは簡単な問診。

名前、年齢、覚えていること。

私は、わざと断片的な答えしか返さない。


「家族は?」と聞かれたときだけ、ほんの少し言葉に詰まった。

「……よく、覚えてません」と言うと、

白衣の男が「解離か」とメモを取った。


次は、薄暗い部屋に通される。

中央に置かれた椅子に座らされ、頭に冷たい金属をいくつも貼り付けられた。


「怖くないわ。少し眠くなるだけよ」

シスターが、にっこりと笑う。


信じるわけがない。


装置が動き出すと、頭の奥にじわじわと何かが流れ込んでくる感覚がした。

電気のような、熱のような、言葉にしづらい感触。


それに混じって、どろりとした何かが、私の意識の外側を這い回る。


 ――おいで。

 ――器になりなさい。


言葉でない声が、耳元で囁いているようだった。

それは、獣のようでいて、人のようで、どこか懐かしい匂いさえする。


もし、ここで受け入れてしまえば。

私の中に、何かが根を張るのだろう。


それが「眷属」なのだと、直感だけは告げていた。


でも私は、その声を拒んだ。


父さんの背中が、ふっとよぎる。

銃弾を浴びながら、最後まで私を抱きしめていた腕。

あの人が守ろうとした「私」の境界を、見知らぬ何かに渡したくなかった。


――来るな。


心の中で、そう言葉にした瞬間、

頭の奥で何かが弾けた。


装置がビリッと音を立てて火花を散らし、白衣の男が慌ててスイッチを切る。


「くそ、なんだ今の反応は」

「大丈夫? リオ」


シスターが駆け寄る。

私は深呼吸を一つして、かすかに頷いた。


「……少し、頭が重いです」

「無理をさせすぎたのね。ごめんなさい」


口では謝りながら、シスターの目は興味深そうに輝いている。

失敗ではなく、面白い玩具を見つけた子供の目。


「眷属は……?」

男が、私の周囲を見回す。


この部屋には、私たち以外に誰もいない。

しかし彼は、何か“影”のようなものを探しているようだった。


「……出てこないわね」

シスターが首をかしげる。

「精神波は十分。適合も一瞬だけ起きている。でも、形になっていない」

「逃げられたか。珍しいタイプだな」


男が舌打ちをする。


私は黙って、それを見ていた。

自分の内側に、何かの気配がまだ残っているのを感じながら。


けれど、それは触れようとすると霧のように溶けていく。


私の眷属は、“まだ”ここにいない。

そういうことなのだろう。


     ◇


日々は、似たようなテストと、子どもたちの変化で満たされていった。


ある子の腕には、蛇のような影が絡みつくようになった。

ある子の背中には、小さな鳥のような光が宿った。


それらを「成功例」と呼び、研究者たちは喜んだ。

眷属を得た子どもは、最初こそ得意げに笑う。

けれど、しばらくするとみんな、同じような目になる。


焦点の合わない、どこか遠くを見ている目。

笑うことを忘れた口元。


失敗例と呼ばれた子は、ある日突然姿を消した。

誰も、どこへ行ったか教えてくれない。


同じ部屋の女の子、最初に声をかけてくれた子とは、自然と仲良くなった。

名前はミナと言った。


髪が肩で切り揃えられていて、笑うとえくぼが浮かぶ。

けれど笑い方にはいつも、諦めが混ざっていた。


「眷属、怖くないの?」と聞くと、

「怖いけど、持ってないとここから出られないんだって」と、淡々と答えた。


「外に出たいの?」

「うん。外には、空があるから」


窓のない廊下を歩きながら、ミナはぽつりと呟いた。

「本物の空、覚えてる?」

「……少し」


父さんと一緒に見た夜空を思い出す。

高層ビルの谷間から覗いた星は、やけに遠くて冷たかった。


「私ね、外に出られたら、青い空が見たい。あと、風をちゃんと感じたい」

そう言って、ミナは私の袖をつまんだ。

「リオも、一緒に行こうよ」


その言い方があまりにも自然で、胸の奥に小さな火が灯る。

この子の望む空を、私も見てみたいと思った。


――だからこそ、数日後の出来事は、遅すぎた。


ミナのテストの日、私は別室で待たされていた。

長く、いやな時間だった。


戻ってきたミナは――

確かに肩に淡い光を帯びていた。

それは、羽根のようにも、小鳥のようにも見えた。


「成功だ」と、白衣の男は満足げに言った。


けれど、ミナの目はもう、私を見ていなかった。


「ミナ」と呼んでも、少し首を傾げるだけ。

えくぼは出ない。


 

「……空、覚えてる?」

そう聞いたとき、ミナはゆっくりと空を見上げる仕草をした。

窓も、空もない天井を。


「そら……って、なに?」


笑いながら、そう言った。


その瞬間、私はこの場所を焼き潰してやりたいと思った。


でも私には、眷属はいない。

武器も、人脈も、何もない。

前世で鍛えられた冷静さだけが、私を辛うじて立たせていた。


――逃げるしかない。


私一人だけでも。

この場を外から壊せるようになるまで。


そう決めた、その夜だった。


     ◇


最初に来たのは、音ではなく“揺れ”だった。


建物全体が、どん、と下から突き上げられたみたいに震える。

ベッドが軋み、壁の絵が一斉に落ちた。


「な、なに……?」

「地震?」


周囲の子どもたちがざわつく。

マットレスから跳ね起きたところで、今度は耳をつんざくような警報音が鳴り響いた。


赤い非常灯が点滅し、廊下から怒号が聞こえる。


「正面の防衛線が破られた!」

「眷属部隊を全部出せ! 子どもどもは後回しだ!」


うろたえる大人たちの声。

その隙間を縫うように、低い唸り声が近づいてくる。


それは、人のものではなかった。


ベッドの間の床が、一瞬陰ったかと思うと――

黒い影が、ぬるりと走り抜けた。


「きゃっ!」

誰かの悲鳴。


次の瞬間、部屋のドアが内側から弾け飛んだ。


破片と煙の向こうから、ゆっくりと一歩、足が現れる。

黒い皮のブーツ。細い足首。

その影に寄り添うように、巨大な何かが身をかがめた。


黒い、獣だった。


光を吸い込んだような漆黒の毛並み。

しなやかな四肢。しなる尻尾。

黄金色の瞳が、薄暗い部屋の中を静かに掃射する。


黒いヒョウ――

それが私の頭に浮かんだ言葉だった。


その背後に、彼女が立っていた。


十代後半くらいの女の子。

癖のない長い髪をひとつにまとめ、黒い軽装の戦闘服を身にまとっている。

その手には刃物も銃もないのに、彼女の周囲だけ空気が張り詰めていた。


「……子どもは何人?」


低く、掠れた声。

彼女の視線は私たちを一瞬だけ撫でて、すぐに部屋の奥――壁の向こうを睨む。


誰も答えられない。

代わりに、黒いヒョウが一歩前へ出た。

その足音だけで、周囲の空気が震える。


「助けに、来たの……?」

誰かがおそるおそる呟いた。


彼女は一瞬だけこちらを見た。

何か言葉を探すみたいに唇を動かして――結局、短く言う。


「ここは、壊す」


廊下から飛び込んできた白衣の男たちに、彼女は背を向けることもなく手を上げた。

黒いヒョウが、その動きに呼応して跳躍する。


獣の影が、廊下に血の花を咲かせた。

誰かの悲鳴。

金属の折れる音。

それらが黒い毛並みに吸い込まれていく。


私は、その光景をただ見つめていた。

恐怖もあったけれど、それ以上に――圧倒的

「強さ」に目を奪われていた。


あのヒョウが、眷属。

彼女の精神力が生み出した、力そのものなのだろう。


世界一弱いと言われる暗殺者一家、という噂を、この世界のどこかで誰かが語っていることを私はまだ知らない。

けれど、この瞬間の彼女を見て、それを信じることは到底できなかった。


ヒョウが廊下の敵を片付けると、彼女はくるりとこちらに向き直った。


金色の目が、一瞬だけ私の目と重なる。

いや、金色なのはヒョウの方だ。

彼女自身の瞳は、夜のように暗いのに、奥が少しだけ揺れていた。


彼女は、子どもたちをざっと見渡す。

その視線はどこか不器用で、でも必死に「言葉の代わり」を探しているようだった。


「出たい奴は、ついてきて」


乱暴な言葉。

だけど、そこには疑いようのない本気があった。


誰かが泣きながら頷き、ベッドから飛び降りる。

別の子は動けずに震えている。

私は、ミナの手を探した。


けれど、ミナはベッドの上で、ただぼんやりと天井を見ていた。

肩に宿る光だけが、かすかに脈打っている。


「ミナ、行こう」

手を伸ばす。

ミナはゆっくりとこちらを向いた。


その目に、私の姿は映っていなかった。


「みな、は……ここ。いなきゃ、だめ」

途切れ途切れの言葉。

眷属の光が、まるで鎖のように彼女をこの場所に縫いとめている。


私はその手を強く握りしめた。

でも、ミナの指は力なくほどけてしまう。


「……ごめん」


それ以上言葉が出なくなった。


そこへ、黒い影が近づいてきた。

黒ヒョウだ。


私とミナを一瞥すると、ヒョウはひどく人間臭い溜息を吐いたように見えた。


その大きな頭が、そっと私の胸元に鼻面を押し当ててくる。


「……え?」


思っていたよりずっと温かい。

心音が、獣の身体から伝わってきた。

それは恐怖ではなく、妙な安心感をもたらす。


 「どうしたの、カゲ」


彼女――黒ヒョウの主が、わずかに眉をひそめる。

黒ヒョウは振り返り、彼女に何かを訴えかけるように喉を鳴らした。


彼女は面倒くさそうに頭を掻き、それからこちらに歩み寄る。


近くで見ると、彼女は思ったよりも華奢だった。

目の下には薄い隈があり、瞳は人見知りする猫みたいに泳いでいる。

さっきまでの戦闘時の気配とは、少し違う顔。


「……その子は?」

「友達、です」


自分でも驚くくらい、すぐに答えが出た。


彼女はミナを一瞥し、肩に宿る光を見て、小さく舌打ちした。


「もう、深く繋がれてる。切ったら壊れる」

「壊れるって、どういう――」

「時間がない」


ばっさりと切り捨てるように言って、彼女は私の手首を掴んだ。


その手は冷たいかと思いきや、微かに震えていた。

怖いのは、彼女も同じなのかもしれない。


「あなた、名前は」

「……リオ」

前世の名前を名乗ることは、なぜかできなかった。


「リオ。こいつが気に入ったみたい」

黒ヒョウがまた喉を鳴らす。

「だから、連れて行く」


それだけ言って、彼女は私の手を引いた。


ミナの方を振り返る。

ベッドの上の彼女は、相変わらず天井を見ていた。

その肩の光が、一瞬だけぱち、と瞬いた気がした。


 「……空、見てね」


自分でも何を言っているのかわからないまま、そう口走る。

ミナは、ほんのわずかに首を傾げた。


「そら、って……なに?」


答えられないまま、私は部屋を後にした。


     ◇


廊下は戦場だった。


暴走した眷属たちが、暴れ回っている。

犬のような、鳥のような、形容しがたい影たちが、壁を引っ掻き、天井を這い回る。


「前を見て、私から離れないで」


彼女の言葉はぶっきらぼうだけど、私の歩幅にしっかり合わせてくれる。

黒ヒョウ――カゲと呼ばれた獣が、その少し前を静かに歩いていた。


暴走した眷属が飛びかかってきた瞬間、カゲの尾が閃く。

影と影がぶつかり合い、音もなく一方が霧散する。


私はその背中を見ながら、眷属という存在をようやく理解し始めていた。


これは、力だ。

精神を削ってまで手に入れる、外側の牙。

でも、それに食われてしまえば、自分で自分を守ることさえできなくなる。


だからこそ――

私は、まだ何も宿していない。


爆発音が近づき、天井の一部が崩れ落ちる。

冷たい夜気が、初めてこの建物の中に流れ込んできた。


外の空気だ。


コンクリートと油と、遠くの土の匂い。

その中に、微かに草の匂いも混じっている。


「……外」

思わず零れた声に、彼女が一瞬だけ目を向ける。


「怖い?」

「怖くは、ないです」

「そう」


会話はそれで終わった。

彼女は不器用に視線を逸らす。

コミュ障、という言葉が頭をよぎる。


でも、その不器用さが妙に安心する。

器用に笑いながら人を弄ぶ大人たちより、よほど信用できた。


最上階から非常階段を駆け下り、やっと外に出る。

夜空が、目の前に広がっていた。


高く、暗く、星は少ない。

それでも、確かに空だ。


ミナの言っていた「空」がそこにある。

胸の奥が掴まれたように痛くなる。


「走れる?」


彼女が問う。

私は頷いた。


研究所の敷地の外には、黒塗りの馬車――に見えるが、その足元には車輪だけでなく、四足の影がうごめいている。

獣と機械の境界が曖昧なそれも、きっと誰かの眷属なのだろう。


「父さんには話を通して…」

彼女がぼそりと呟く。

「……いや、通してないから、後で怒られる」


その自覚はあるらしい。


「あなたは今日から、うちの家族」


あまりにもさらりと言われて、私は思わず彼女の顔を見上げた。


家族。

その単語が、前世と今とを不器用に繋ごうとする。


「うち、って」

「……世界一弱いって言われてる、暗殺者の家」


夜風が、彼女の髪を揺らした。

黒ヒョウの瞳が、月光を反射して細く光る。


世界一弱い暗殺者一家。

弱くたったいい。

あんなところに比べれば。


それに――

この人の眷属は、世界の誰よりも強そうに見える。


「……よろしくお願いします」


そう言って差し出した私の手を、彼女は一瞬だけ戸惑った顔で見つめ、

それからそっと握り返した。


その手は、やっぱり少し震えていたけれど。

私は、それを強く握り返した。


こうして私は、ヤクザの娘として死に、

世界一弱いと言われる暗殺者ファミリーの養子――リオとして、生き直すことになった。


そしてこの時はまだ知らなかった。

この無口で不器用な姉と、変な家族

その先に待つ、たくさんの人たちとの出会いが、

私の眷属を、そして私自身をどんなふうに変えていくのかを。

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