第3話 ナンシーとトルーマン

 車の中でシートに沈み、熱が上がっていることを感じながら、私はしばらくうとうとしていた。夢うつつで、原作でクリスが亡くなる場面を思い出す。


 ラウルだけでなく、メイドのナンシーも、いつも冷静だと描写されていたトルーマンですら、皆が悲嘆にくれて希望のかけらもないエンディング。


 あんなことにしてはいけない。



 信号待ちで停車するわずかな揺れで意識が浮上し、私は我ながら掠れた声でトルーマンに囁いた。


「トルーマン、やりたいことがあるの」

「なんなりと」

 彼の即座の反応にほっとして、私は続けた。


「今日、屋敷に帰ったら、ナンシーに、明後日の企業合併が終わった夜に、ラウルを呼んでもらおうと思っているの」


 原作では、クリスはラウルを避け、心配したナンシーがこっそりと彼に連絡したこともあり、ラウルは屋敷に来る。

 でも、ラウルの来訪がクリスの希望だとしたら、そもそもの理由が変わってくる。

 彼の怒りも多少薄れるのではないか?


 そしてトルーマン自身が、ラウルはクリスに必要だと言っていた。

 察しが良い彼は、私の言葉を聞いて微笑んだ。

 

「では、合併の話は速やかに完了させましょう」

 彼は微笑んだまま、そう言った。



 そして帰宅後、発熱して倒れるようにベッドに横になった私を介抱するナンシーに、私は朦朧としながら言った。

「ナンシーにお願いがあるの……」

 彼女が微笑んだ気配を感じて、私は重いまぶたを開ける。


「明後日の合併協議は外せないの。私は明日は休むけど……明後日の夜、ラウルを書斎に呼んでおいてもらえる?」

 ナンシーは頷く。

「まかせてください、クリス様。ラウルの携帯電話の番号は存じております」

 私は安心して、すうと眠りに落ちてしまう。


 あとはラウルが来てくれることを待つばかりだ。

 原作では、その夜にクリスは倒れる。せめてそれを、少しでも良い方向に向けたかった。



    ◇



 合併協議は滞りなく終わった。


「いつも厳めしいアントニオさまが、終始笑顔でしたね」

 相手方の会社と別れてエレベーターを待っているとき、トルーマンが低い声で言った。

「……私の方が御しやすいと思っていらっしゃるのではないかしら」

 私が言うと、彼も頷く。


 専務で同席していた叔父のアントニオは、たしか、実の兄である父レオナルドを敵視していると原作に描かれていた。犯人はアントニオ叔父だった? 思い出そうとするけれど、霞がかかったように私の記憶は抜け落ちている。



 ……と、高層階でなかなか来ないエレベーター待ちの間に、噂のアントニオ叔父が私たちに声をかけてきた。


「今日の合併成功で、レオナルド兄さんも喜んでいるだろうな、クリスよ」

「そうですね、おじさま」

 私は疲れていたが、なんとか微笑む。


 叔父は笑いながら言った。

「あとは事故の犯人が見つかるだけだな」

 私とトルーマンはそっと目を見合わせる。


 何か車に細工をした犯人がいるという事実は、まだ私とトルーマンだけの秘密のはずだ。

 それを知っているということは。


 トルーマンが、かすかに笑みながら、携帯電話を取りだした。

「……すぐに来てくれ」

 一声だ。


 そして彼は、怜悧な声で叔父に告げた。

「アントニオさま、今後のことについて少しお話しておきたいことが」

 叔父は何も気付いていないようで、笑って頷く。


 エレベーターが開き、そこには階下に待機していた私服警官が数名立っていた。

 朝、トルーマンから聞いていた。

 もしものことがあってはいけないので、警官を数人待機させている、と。


 彼は言った。

「誰も知らないはずの車のことをご存知だった。連れて行って調べてくれ」

「なっ、どういうことだ、トルーマン!」


「では、クリスさま。

 憂いはひとつ取り除きました。心置きなく、ラウルに会いましょう」

 引きずられていく叔父を無視して、トルーマンはそう言って、微笑んだ。

 


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