氷室汐里・愛憎


 梨乃の足から、赤黒い血が流れ出ていた。太もものあたりを斜めに切り裂かれている。


「梨乃ッ!」

 

 私が叫ぶより先に、桑島が笑った。いつもの女好きの顔じゃない。頬が痙攣し、口角だけが引き攣っている。


『なぁオマエら。俺のこと見下してんだろ゛? 馬鹿にシテンだろ゛?』

 

 言葉の端が濁っていた。とてもじゃないが、人間の声には聞こえない。

 

 床に滴った血が、桑島の足元で黒い煙に変わる。嫌な臭いが鼻を刺した。鉄と腐肉と……焦げた髪の匂い。


「逃げるぞ、梨乃っ……!!」


 咄嗟に掴んだ竹刀で桑島の喉元をつく。およそ、人間にしていいことではないが、コイツはもはや人間ではない。


 あの日の、嫌な記憶の蓋を無理やり押さえつけ、梨乃の肩を掴み駆け出す。

 

 背後で桑島の笑い声が響いた。低く、いびつに。それは人の声の形をした別の何かだった。


 道場を抜けて外に出る。夜の空気が冷たい。月明かりに照らされた砂利道を、梨乃の腕を抱えて進む。

 

 足音が二つ、三つ、四つ──増えている。桑島だけじゃない。影が地面を這い、黒い手のようなものがフェンスを掴んだ。


 肺が焼けるように熱い。


 少し遠くに校舎の明かりが見えた。夜でも空調が入っている管理棟だ。誰か居れば助けてもらえる。そう信じ、二人で転がり込むように中へ。


 しかし、室内は驚くほど静かだった。誰もないことを察し、私はドアを閉め、椅子や机を積んでバリケードを作る。明かりを消し、息を潜め、音を消す。


 ──静寂。

 心臓の音だけが響く。


「……痛ったぁ」


 思わず声が漏れ出る梨乃。当然だ。ナイフに足を抉られたのだから。


 私は声を殺し、梨乃に話しかける。

 

「梨乃、傷の具合は?」

「分っかんない……刺されるのは初めてだから」

「それもそうか……もう少し我慢してくれ。警察には通報してある」

「そう? でもさぁ、これって警察が来てどうにかなるのかなぁ」


 ドアの向こうで、何かが這う音がする。

 金属を引っ掻く音。ガラスを爪で叩くような、細い音。


「……大丈夫だ。いざとなったら私がなんとかする」

「ははは、汐里カッコいい〜。ほんっと…………昔からずっと、格好いいんだから」

 

 軽快な口調で話す梨乃だが、思わず震える手で口を押さえる。その瞳が、涙で揺れていた。


「ねえ汐里。ずっと、言おうと思ってたことがあるんだけど、聞いてくれる?」

「……あとにしてくれ」

「ううん、今じゃなきゃダメ。今言う──私、貴女のことが、ずっとずっと大嫌いだった」

「…………」

「高校の時、元カレがね、別の好きな人できたから別れたいって、言ってきたの。どんなヤツか、ツラを拝んでやろうと思って見に行ったら、それが汐里だった。汐里は昔からそう。真っ直ぐで、カッコよくて、無自覚に私の全部を奪って行く。だから、大っ嫌い」

「……嘘つき」

「嘘じゃないって。本当に本当」

「仮にその話が本当で、梨乃が私のことがずっと嫌いだったとしてもっ!!……この場で梨乃を見捨てる理由にはならないし、私が梨乃のことが大好きなのも変わらない。だから、余計な気を回してんじゃねぇぞ、馬鹿」


 梨乃の本音はわからない。でも、こんな火事場で無駄口を叩くようなヤツじゃないのは知ってる。


 その行動には必ず意図がある。私には、意図的に私に嫌われようとしているように見えた。

 自分はもう走れないから見捨てて逃げて欲しい、と。私にはそう聞こえた。

 

「アハハ、何もかもお見通しじゃん。最後なのにカッコもつけさせてくんないっすか。大した親友だよ、本当」


 僅かに室内へ差し込む月明りが、梨乃の頬を照らす。きらりと、光が反射し、頬を伝って消える。


「大好きとか言うなよ、バカ。まだ……生きたくなっちゃったじゃん」


 生きればいい。そう言葉を返そうとしたその瞬間──前に、ドアの蝶番が軋んだ。

 

 室内に緊張が走る。

 ギィ……ギィ……ギィ……。

 積み上げた机が、少しずつずらされていく。ドアの隙間から、細長い手が入ってきた。皮膚がなかった。赤黒い筋肉だけの腕。


「くそっ、もう一回走るぞ!」


 無理やり梨乃を引き起こす。机を蹴り飛ばして、窓へ向かう。

 

 しかし、その瞬間。ガラスが弾け飛び、黒い塊が飛び込んできた。影が人の形に変わり、何本もの腕が私たちを包み込む。

 

 桑島もその中に混ざっていた。皮膚が崩れ、瞳孔が開ききった顔。もはや死体にしか見えない。


「逃げるぞっ!! 梨乃!!」

「汐里……ありがと──」


 梨乃は伸ばした私に手を振り解き、私の背中を思いっきり突き飛ばした。

 

 次の瞬間、背後から床が砕ける音に混じって、生々しい呻き声が響く。


 すぐに振り返ることができなかった。


 恐ろしかった。自分の想像があたることが恐ろしかった。現実を直視することが恐ろしかった。


 それでも、動きが止まったのは一瞬。一縷の希望に突き動かされ、振り返ると──黒い刃が梨乃の腹を貫いた。


 黒い触手と赤い血が混じり合う。

 梨乃の瞳から徐々に光が消えて行く。

 

 体を流れる血潮の熱を感じる。だというのに、手先がどんどん冷え込んでいくのが分かる。喉は枯れ、視界がぼやけ始め、世界がモザイク掛かっていく。


「梨乃ッ──ッ!!」


 音が消えた。自分の絶叫が酷く遠くに聞こえた。


 ────────

 ふと、思い出した。この世で一番思い出したくない、けれど片時も忘れたことのない記憶。


 私が11歳の頃、氷室家の別邸が妖祀に襲撃された。


 燃え盛る屋敷。血溜まりに斃れる叔母。泣き喚く子供の声。その光景を、私はまるで第三者かのように呆然と眺めていた。


 そして、ふと気づく。泣いている子供は私なのだと。


 なにを泣いている。

 泣いて何になる。

 戦えこのクズ。

 できないなら助けを呼べ。

 止血しろ。

 この世で一番貴重な時間を、この世で一番無駄な行為で消費するな。


 ──あの日、大好きだった叔母が死んだ。凪は行方不明となった。


 退魔師の総本山ともいえる氷室家の襲撃。立ち待ち御家内は慌ただしくなっていくのが分かった。


 しかし、その議論の的は「如何にこの件をなかったことにするか」だった。面目がどうの、権威がどうのと、家の中のどこを歩いてもそんな話ばかりが耳に入る。悲しむ素振りを見せる者は、誰もいなかった。


 そのせいで、叔母の葬式すらまともに執り行われなかった。


 だから、私は退魔師が嫌いだ。


 日頃あれほど威張り散らかし、退魔師以外を人間とも思わない癖に、肝心な時は間に合わない。

 

 「俺たちはお前たちを守っているのだぞ」と言いたげにふるまっているのに、その役割を果たそうともしない。

 

 ヒーローだと自称するのに、権力闘争に勤しむ口先ばかりの屑だ共め。


 退魔師は嫌いだ。


 でも、本当は分かっている。

 

 もっとも忌むべきなのは、現場に居合わせながら泣いてばかりで何もせず、挙句の果てには退魔師に助けられ、今もなおのうのうと生き恥を晒している──私なのだと。


 あの日から、私は一度も泣いていない。

 泣き虫な私とはもう、さようならだ。

 ────────


 気が付けば、私は涙を流していた。


 懐には梨乃の体があった。お腹に大きな穴が開いており、赤い血がとめどなく流れ出ている。


 誰がどう見たって、致命傷だ。内臓すらこぼれ落ちそう。


 普通ならグロテスクで目をそらしたくなる。しかし、私はなぜかその傷から目をそらすことが出来なかった。私の無力さが生んだ結果から、目をそらすことが出来なかった。


 ──凝視。


 ふと、腹部に痛みを痛みを感じた。触れてみると、ドロッとした赤い何かが流れ出ていた。意識を失っている間に攻撃でもされたのだろうか。


 周囲の影たちがざわめき、揺れる。きっとそれに意味などないが、私には笑い声に聞こえて仕方なかった。


 私をいたぶって笑う兄弟たちの笑い声と重なって聞こえた。梨乃の死をあざ笑っているようにしか聞こえなかった。


「五月蠅いっ!!」

 

 すぐ傍に落ちていた椅子を手に取り、怪物に殴りかかった。


 反撃されるとは思わず、驚いたせいか、怪物が少し後ずさる。しかし、私もそこで力が尽き、地面にうなだれる。それでも、最後の悪あがきとして、怪物を


 すると突如、怪物の体から血しぶきが上がった。


『ガアアああああああっ!?』


 直後、廊下の一角が白く弾け、窓ガラスの雨が降った。

 

「ナイスファイト。よく間に合わせた」


 若い男の声がそう言った。煙草を片手に、スーツを纏った男だった。幼いころから嫌でも退魔師を見て育った私には一目でわかった。


 彼は、退魔師なのだと。


『ミ゛■■リ■■ッ!? ジネエエエエええええっ──!!』


 意味の分からない言葉を吐きながら、怪物は彼に向って突進する。


「危ないっ!」


 思わずそう口走った。しかし、当の本人は余裕たっぷりに煙草をくわえ、ジッポーで火をつける。


 カチッ。


 ジッポーの音が鳴ると同時に、怪物の体は火の粉と共に弾け飛んだ。


 揺れ動く炎が夜を照らす。火の粉は舞落ちる。梨乃を殺した怪物は、退魔師の手によってあっさりと退治された。


 夜の静寂はすぐさま回帰した。まるで何事もなかったかのように。

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