第29話 殺意の包囲網
第29話 殺意の包囲網
廃工場の外で鳴り響いたのは、パトカーのサイレンではなかった。
乾いた爆裂音と共に、重厚な鉄のシャッターがひしゃげ、外の光と共に白煙が噴き込んだ。
スタングレネード(閃光音響弾)。
警察のSATやSITが突入時に使う装備だが、この手際の良さと容赦のなさは、人質救出を目的とした部隊のものではない。
「伏せろッ!」
俺は東風の首根っこを掴み、積まれていた巨大な印刷用紙のロールの影に飛び込んだ。
直後、鼓膜をつんざくような轟音と閃光が炸裂する。
視界が真っ白になり、平衡感覚が奪われる。
キィィィィィン……という耳鳴りの中で、複数の足音がザッ、ザッ、ザッと規則正しく侵入してくるのが分かった。
俺は薄目を開け、奪ったSPの拳銃(シグ・ザウエル)を構えた。
白煙の中から現れたのは、黒いタクティカルベストを着込んだ男たち。
だが、その装備には「警視庁」や「POLICE」といったワッペンがない。
無印の特殊部隊。セレスティア・ユニオンが飼っている私兵集団だ。
「……確保の必要はない」
煙の向こうから、冷徹な声が響いた。合田の声ではない。現場指揮官の声だ。
「対象はテロリストだ。全員、その場で処分せよ」
やはりか。
逮捕する気などさらさらない。俺たちをここで皆殺しにし、「銃撃戦の末に死亡した」と発表する気だ。
東風もろともな。
「小野寺! 車のエンジンをかけろ! 東風代表を乗せていつでも出られるようにしろ!」
俺は叫ぶと同時に、牽制射撃を行った。
タン、タン!
二発の弾丸が先頭の男の足元を削る。
男たちは即座に散開し、遮蔽物に身を隠した。訓練されている。
「……排除します」
その男たちの間を縫うように、一つの影が滑り出てきた。
防弾装備も身につけず、黒い給仕服のままで佇む少女――108号。
彼女は、銃弾が飛び交う戦場に、まるでピクニックに来たかのような軽やかさで立っていた。
その両手には、銀色に輝くナイフが握られている。
「また会えましたね、おじ様」
彼女は俺の方を見て、無邪気に微笑んだ。
「今度こそ、かくれんぼは終わりですよ?」
「生憎だがな、俺は鬼ごっこの方が得意なんだよ!」
俺は発砲した。
狙いは彼女の胴体。躊躇いはしない。相手は人間の皮を被った兵器だ。
だが、彼女は引き金を引く直前の俺の筋肉の動きを読んだかのように、紙一重で弾道を避けた。
人間離れした反応速度。
彼女は床を蹴り、壁を走り、三次元的な軌道で距離を詰めてくる。
「速いッ……!」
俺は次弾を撃とうとしたが、すでに彼女は目の前にいた。
銀閃。
ナイフが俺の喉元を薙ぐ。
俺はとっさに銃身でそれを受けた。
ガキンッ!
火花が散る。
重い。細い腕からは想像もできない膂力(りょりょく)だ。
「東風様はどこですか? お首を頂戴しないと、お父様に叱られてしまいます」
彼女は鍔迫り合いの最中でも、涼しい顔で周囲を見渡している。
その視線が、小野寺たちが隠れているセダンの車体を捉えた。
「ああ、あそこですね」
彼女は俺の銃を蹴り上げ、バックステップで距離を取ると、車に向かって疾走した。
「させねぇよ!」
俺は落ちていた鉄パイプを拾い上げ、彼女の背中に向かって投げつけた。
だが、彼女は振り返りもせずにナイフを一閃させ、鉄パイプを空中で弾き飛ばした。
化け物め。
彼女が車のボンネットに飛び乗った。
フロントガラス越しに、小野寺と東風の恐怖に歪んだ顔が見える。
彼女はナイフを振り上げ、ガラスを突き破って東風の喉を狙う構えをとった。
「終わりです」
その時。
ブォォォォォン!!
小野寺がアクセルをベタ踏みした。
車が急発進し、倉庫の奥にある資材搬出用のシャッターへ向かって突進する。
108号はバランスを崩しそうになったが、猫のようにボンネットに爪(ナイフ)を突き立ててしがみついた。
「振り落とせ、小野寺ァ!」
俺は走りながら叫んだ。
小野寺はハンドルを左右に激しく切り、車体を蛇行させる。
108号の体が左右に振られる。
それでも彼女は離れない。それどころか、ナイフを引き抜き、再度フロントガラスに突き立てようとした。
その瞬間、車は積まれていたインクのドラム缶の山に突っ込んだ。
ガシャァァァン!
ドラム缶が弾け飛び、青や赤のインクが爆発したように飛び散る。
視界を遮られた108号が一瞬怯んだ隙に、小野寺は急ブレーキをかけた。
慣性の法則。
108号の体はボンネットから放り出され、前方のシャッターに激突した。
ドゴォン!
凄まじい衝撃音と共に、彼女の体が鉄板をへこませて落下する。
「今だッ! 乗れ赤城さん!」
小野寺が後部座席のドアを開けた。
俺は私兵たちの射撃をかいくぐり、滑り込むように車に乗り込んだ。
弾丸がボディを叩く音がする。
「行け! 突き破れ!」
車は、108号がへこませたシャッターに向かって再加速した。
もう一度激突すれば、強度は限界を超えるはずだ。
バリバリバリィッ!!
金属が引き裂かれる音と共に、車はシャッターを突破し、工場の外へと飛び出した。
そこは湾岸道路。
夕闇が迫る中、俺たちのボロボロのセダンは、煙と火花を上げながらアスファルトを疾走した。
◇◆◇
バックミラーを見ると、工場の出口から黒いワンボックスカーが数台、猛スピードで追いかけてくるのが見えた。
奴らは執拗だ。
ここで逃げ切っても、GPSで追跡されるか、あるいは先回りされる。
空にはヘリの音も聞こえ始めた。報道ヘリか、警察か。
「……赤城さん、このままじゃジリ貧です!」
小野寺がハンドルにしがみつきながら叫ぶ。
隣の東風は、顔面蒼白になりながらも、スマホでニュースをチェックしていた。
「……見ろ。街が大変なことになっている」
東風が画面を見せた。
俺たちの配信を見た群衆が、国会議事堂前やアステリズム本社前に集結し始めている映像だった。
プラカードを持った若者たち。
『天野香菜を返せ』『人殺し政権を許すな』『東風代表を守れ』
警察の機動隊が出動し、騒然となっている。
「民衆が……動いたか」
俺は少しだけ安堵した。
俺たちの告発は、無駄じゃなかった。
この混乱こそが、俺たちの最大の盾になる。
「小野寺、進路変更だ。……人が多い場所へ逃げ込め」
「えっ? 目立ちますよ!」
「目立つのがいいんだ。衆人環視の中なら、奴らも派手なドンパチはできない。……それに、味方がいるかもしれない」
俺たちは渋谷を目指した。
若者の街。そして、アステリズムの本拠地であり、香菜のファンが最も多く集まる聖地。
追っ手のワンボックスカーが体当たりを仕掛けてくる。
ガンッ! 車体が揺れる。
俺は窓から身を乗り出し、後続車のタイヤを狙って発砲した。
パンッ!
右前輪がバーストし、ワンボックスカーは制御を失ってガードレールに激突した。
だが、まだ二台いる。
さらに、その屋根の上には、信じられないものが張り付いていた。
風になびく黒髪。破れた給仕服。
108号だ。
彼女は、走行中の車の屋根に爪を立ててしがみつき、獣のようにこちらを睨んでいた。
その顔はインクで赤と青に汚れ、まるで地獄から這い上がってきた悪鬼のようだった。
「……しつこい女は嫌われるぞ」
俺は残弾を確認した。あと二発。
これで仕留め損なえば、次は俺たちの喉笛が食いちぎられる。
車は渋谷のスクランブル交差点へと差し掛かった。
信号は赤。だが、小野寺はクラクションを鳴らし続けながら突っ込んだ。
歩行者たちが悲鳴を上げて左右に避ける。
108号が、屋根から跳躍した。
俺たちの車のトランクに着地する音。
そして、リアガラスが粉々に砕け散った。
彼女の手が、後部座席の俺の首を掴もうと伸びてくる。
「くたばれッ!」
俺は至近距離から、最後の一発を彼女の顔面に向けて放った。
だが、彼女は首を傾げ、弾丸を頬で受け流した。
皮膚が裂け、白い頬骨が見える。それでも彼女は笑っていた。
「捕まえました」
その指が俺の襟首を掴んだ瞬間。
キキィィィッ!
小野寺がサイドブレーキを引き、車をスピンさせた。
遠心力で108号の体が車外へ投げ出される。
彼女はアスファルトの上を数回転がり、対向車線のトラックの前に飛び出した。
急ブレーキの音。鈍い衝撃音。
トラックが彼女を撥ね飛ばした。
「……やったか?」
東風が息を呑む。
だが、俺は見ていた。
撥ね飛ばされた彼女が、空中で受身を取り、ビルの壁を蹴って着地する姿を。
不死身か、あいつは。
だが、これで距離は稼げた。
俺たちの車は、大混乱の渋谷の雑踏を抜け、路地裏へと滑り込んだ。
エンジンから煙が上がり、もうこれ以上は走れない。
「……降りろ。ここからは徒歩だ」
俺たちは車を捨て、夜の渋谷へと紛れ込んだ。
街頭ビジョンには、まだ俺たちの配信の録画映像が流れている。
街中が天野香菜の歌声と、東風の告発の声で満たされている。
「見ろ、小野寺」
俺は街を見上げた。
ハチ公前広場には、無数のペンライトの光が揺れていた。
香菜のイメージカラーである、淡いピンク色の光。
ファンたちが、彼女のために自然発生的に集まり、追悼と抗議の集会を開いているのだ。
「香菜……」
小野寺が涙ぐむ。
彼女は死んだが、その魂は、こうして数万人の人々を動かしている。
この光景こそが、カルト教団に対する最強のカウンターだ。
「行くぞ。……この光を背に、決着をつけに行く」
俺たちは人混みに紛れ、地下鉄の入り口へと向かった。
目指すは、すべての元凶。
セレスティア・ユニオンの本部施設。
そこには、合田総一郎と、教団代表・金嘉月が待っているはずだ。
反撃の狼煙は上がった。
あとは、敵の本丸を焼き尽くすだけだ。
(続く)
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