第14話 秘密の聖域

 第14話 秘密の聖域


『みんなー! 今日も来てくれてありがとう! 大好きだよー!』


 画面の中の天野香菜が、満面の笑みで手を振り、ウインクを投げかける。

 コメント欄は『88888(パチパチパチ)』という拍手の弾幕と、赤や金色のスーパーチャットで埋め尽くされている。

 総視聴者数、五万人。

 今日の歌枠配信も大盛況だった。


 OBS(配信ソフト)の「配信終了」ボタンをクリックした瞬間、スタジオ内の「ON AIR」の赤いランプが消えた。


「……ふぅ」


 防音ブースの中から、重たい溜め息が漏れた。

 ヘッドセットを外し、椅子に深く沈み込む少女。

 モニターの中では、キラキラとした銀髪の美少女が微笑んだまま静止しているが、座っている生身の彼女は、魂が抜けたようにぐったりとしていた。


 額には脂汗が滲み、喉は酷使して赤く腫れている。

 トップアイドル、天野香菜。

 それが、彼女の「仕事終わり」の姿だった。


「お疲れ、香菜」


 ミキサールームから出てきた小野寺が、常温の水を差し出した。

 香菜はそれを受け取り、一気に飲み干した。


「……ありがとう、晴斗くん。今日の同接、どうだった?」

「最高記録更新だ。スパチャの総額も、ざっと三百万は超えてる」

「そっか……。よかった」


 香菜は力なく笑った。

 三百万。大金だ。

 だが、二人は素直に喜べなかった。

 その半分はプラットフォームの手数料と税金で消え、残りの半分も、事務所への「借金返済」と「経費」という名目で吸い上げられる。

 彼女の手元に残るのは、コンビニ弁当を買えば消えるような端金(はしたがね)だけだ。


 時刻は深夜一時を回っていた。

 他のスタッフはすでに退勤し、広大なオフィスには警備員が巡回しているだけだ。


「……帰ろうか」

「うん」


 二人は別々のタイミングでオフィスを出た。

 エレベーターも別々。ビルの出口も別々。

 「恋愛禁止」。契約書の第三条に記された鉄の掟が、二人に他人の振りをさせていた。


 ◇◆◇


 一時間後。

 世田谷区にある、小野寺の木造アパート。

 まだゴミ屋敷になる前の、質素だが整えられた六畳一間。


 合鍵を使って先に入っていた香菜が、帰宅した小野寺を迎えた。


「おかえり、晴斗くん」

「ただいま」


 ドアをロックし、遮光カーテンを厳重に閉める。

 ここだけが、世界の監視の目から逃れられる、二人だけの聖域だった。


 香菜は、変装用の帽子とマスクを外し、地味なジャージに着替えていた。

 化粧も落とし、すっぴんの顔。

 世間の人々が崇める「銀髪の天使」ではない。ただの、少し疲れた二十歳の女の子。

 だが、小野寺にとっては、モニターの中の虚像よりも、この無防備な彼女の方が何倍も愛おしかった。


 ちゃぶ台の上には、コンビニのおでんと缶ビールが並んでいる。

 トップアイドルと、その専属エンジニアの、ささやかな深夜の晩餐。


「……また、新しい衣装の話が出たの」


 大根を箸でつつきながら、香菜がポツリと言った。


「今度は水着だって。夏イベント用の3Dモデル。……制作費、二百万円」

「……またかよ」


 小野寺は缶ビールを握り潰しそうになった。

 先月のライブ費用もまだ返済しきれていない。借金の残高は、すでに四千万円を超えていた。


「断れなかったの?」

「うん。合田さんが、『ファンの期待を裏切るのか』って……。それに、断ったら晴斗くんの立場も悪くなるような言い方されて……」


 香菜の声が震える。

 彼女はいつも、自分のことよりも小野寺のことを案じていた。

 小野寺もまた、彼女を守るためにシステムを強化し続けていたが、それが結果的に彼女を縛る鎖を太くしているというジレンマに苦しんでいた。


「ごめん。……俺がもっと甲斐性があれば」

「ううん。晴斗くんのせいじゃない」


 香菜は首を振り、テーブル越しに小野寺の手を握った。

 冷え切った指先。


「……ねえ。抱きしめて」


 彼女が、潤んだ瞳で小野寺を見つめた。

 言葉はいらなかった。

 二人は吸い寄せられるように、万年床の布団へと倒れ込んだ。


 部屋の明かりを消す。

 街灯の光がカーテンの隙間から差し込み、暗闇の中に二人の輪郭を浮かび上がらせる。


 小野寺は、香菜の華奢な体を腕の中に閉じ込めた。

 折れそうなほど細い肩。過労で痩せてしまった背中。

 だが、そこには確かな体温があった。

 0と1のデータではない。温かく、脈打つ、生身の命。


「……あったかい」


 香菜が、小野寺の胸に顔を埋めて呟く。


「配信の時ね、すごく怖くなるの。画面の向こうには何万人もいるのに、私はたった一人で、暗い箱の中にいる。……自分が本物の人間なのか、ただのデータの塊なのか、分からなくなるの」


 彼女の指が、小野寺の背中にしがみつく。


「でも、こうしていると分かる。私はここにいる。晴斗くんが、私を人間にしてくれる」


 小野寺は、彼女の髪を優しく撫でた。

 モニター越しに見る完璧なサラサラヘアーではない。少し汗ばんで、シャンプーの香りがする、現実の髪。


「愛してる。……香菜、愛してるよ」

「私も……」


 二人の唇が重なる。

 最初は優しく、確かめ合うように。やがて、日々の不安や恐怖を打ち消すように、激しく、貪欲に。


 ジャージの衣擦れの音が、静かな部屋に響く。

 素肌が触れ合う感触。

 小野寺は、彼女の肌の白さに目を奪われた。

 モニターの中の、計算された白さではない。血の通った、淡い桜色を帯びた肌。

 その首筋に、鎖骨に、唇を落とすたび、彼女は甘い声を漏らして身を震わせた。


 そこには、ASMR配信で強要されるような、媚びた演技は一切なかった。

 愛する人だけに見せる、無防備で、情熱的な反応。


「……晴斗くん、もっと。……私を壊して」

「馬鹿言うな。……大切にするんだ」


 小野寺は彼女の瞳を見つめ返し、深く、彼女と繋がった。

 互いの境界線が溶け合うような感覚。

 借金のことも、合田のことも、教団の影も、この瞬間だけは消え去った。

 世界には、この六畳一間と、二人しかいなかった。


 激しい愛の営みの後、二人は汗ばんだ体を寄せ合って、静寂の中にいた。

 小野寺の腕枕で、香菜は安らかな寝息を立てている。

 その寝顔は、トップアイドルのそれではなかった。

 ただの、恋する少女の顔だった。


 小野寺は、彼女の額にかかった髪を払いながら、胸の奥で誓った。

 この温もりを、絶対に守り抜く。

 たとえ、世界中を敵に回しても。

 数千万の借金だろうが、合田の脅しだろうが、二人なら乗り越えられると信じていた。


 だが、この時の小野寺は知らなかった。

 この「秘密の聖域」さえも、すでに監視されていたことを。

 二人の密会も、交わした言葉も、そして肌を重ねた事実さえも、合田にとっては二人を追い詰めるための「カード」として記録されていたことを。


 カーテンの隙間から差し込む月明かりが、どこか冷たく、二人の裸体を照らしていた。

 それは、間もなく訪れる、より深く、逃げ場のない闇の予兆のようだった。


 夜明けが近づいている。

 香菜はまた「天野香菜」という仮面を被り、虚構の城へと戻らなければならない。

 そして、その城の主は、彼女に対して、次なる残酷な命令――政治家への『接待』という、魂を汚す儀式を用意して待ち構えていた。


(続く)

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