第十九話『真赭』
雨がカーテン越しの窓を叩いている。
いつもと変わらない。
変わろうともしない街の呼吸で目を覚ます。
横たわったまま腕を延ばし、カーテンを半分ほど開く。
ちょうど〝鐡道〟が横切り、そのフロントライトが脳を刺激する。
『いつも通り』を確認し、俺はようやく身体を起こす。
しかし――
違和感があった。
三十年と少し、乗りこなしている自分の身体のはずだ。
そのはずだったが、普段よりも重力を感じ、関節が痛み、妙に息苦しく、頭はぼんやりと〝休息〟を求めている。
どうやら体調を崩してしまったらしい。
たぶん風邪だろう。
そう軽く考え、一階へ降り、とりあえず人工サボテンに水をやる。
自分が『開店モード』に切り替えられれば、少しはマシになると思っていたからだ。
だが、俺の脳は思った以上に働かず、カウンターに手をつき佇むほか無かった。
俺は仕方なく体調不良を認め、飲用水瓶を取り出すため冷蔵庫へ向かう。
扉を開き、瓶を一本取り出す。
よく冷えたガラス製の瓶は普段より、俺に冷たさを主張しているように感じた。
無機質なガラス瓶の主張で、俺はようやく、自分の体温が高いことを教えられたような気がした。
体温計もある。
だが、自身の体温をしっかりと確認すればするほど、体調が悪くなる気がする。
〝ああ、俺は今、こんなにも高熱でいるのか〟
そう考えてしまい、先入観から何もできなくなってしまうのだ。
だからこそ、体温を測るより先に『プリヴェンションキューブ』を漁り、適当なビタミン剤を取り出す。
良く冷えた飲用水をグラスに注ぎ、手のひらに出した三錠のビタミン剤を喉の奥へと流し込んだ。
――とりあえず、こんなもんでいいだろう。
熱にやられた脳みそで考えうる『適当な看病』を済ませ、表のホログラムを『TENPORARY CLOSED』と表示させ、その足でそのまま二階へと上がった。
〝風邪で寝込んでるとき、ひとりだと心細いから〟
誰かが言った、そんな言葉が頭の中で響いていた。
ベッドから見える雨は、冷たく窓を濡らし、乱反射するネオンの光がカーテン越しで、色鮮やかに俺を嗤っているような気がした。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
意識を取り戻したとき、最初に時刻を確認した。
時計の針は五時を指している。
思ったよりも眠ってしまったようだ。
そう思うと同時に『思ったより眠ってしまったのに、眠った気がしていない』ことに気付く。
どうやら自分で考えるよりも、体調が良くないようだ。
それでも、夜の常連たちの顔が浮かぶと、俺の足は自然に一階へと続く階段へと向かっていた。
昼から店を閉め、人工サボテン用のLEDしか点灯していない店内は、普段よりも深い黒色をしているように見えた。
年中雲に覆われるこの世界では、建物の中の照明を付けないと常に薄暗い。
行き交う飛行車と、街にきらめくネオン以外に、ほとんど光が無いことを、改めて俺に実感させた。
そうして店内の明かりを点けて回っている最中、昼よりもやや軽快に身体が動いているように感じた――そう思っていたかった。
開店の準備をし、客を待つため、キッチンの準備へ取り掛かろうとカウンターの奥へと足を向ける。
ついでに、奥の扉にある『クエクト=イーター』の様子を見て、燃料は充分に残量があることを確認した。
カウンターの隅に出しっぱなしの『プリヴェンションキューブ』からふたたびビタミン剤を取り出し、飲用水で飲み込む。
――まぁなんとかなるだろう。
いい加減に考えていた。
だがそれは、熱にやられた脳で思考し、辿り着いた答えに過ぎなかった。
〝シュー〟
ほどなくして『アルカリミストゲート』が作動した。
「ちわーっス!珍しく早起きしたんで、今日は早めに来たっス!どうせ最近夜は、マスターんとこの〝伝達〟ばっかりなんで!」
それは今日の〝伝達屋〟の始業を知らせる『ハルカ』の声だった。
彼女は普段夜に起きる。
そして、夜通し働いている。
『競合』が少ない時間に働き、荒稼ぎしているのだと、前に教えてくれた。
「ああ、いらっしゃい。座ってな。苔茶でも淹れてやるよ」
いつものようなやりとりをして、ハルカをカウンターへ座らせる。
「うぃーっス!」
普段と変わらず、カウンターへ座る。
そして、近くで俺の顔を見て、なぜだかぎょっとしていた。
「マスター……顔色悪すぎません?」
そうだろうか?言われてみれば今日、自分の顔を確認していないことを思い出した。
彼女に手招きされ、カウンター越しで近寄る。
射程圏内に入るや否や、彼女は腕を真っすぐに伸ばし、俺の額に触れた。
「えっ!?めちゃくちゃ熱あるじゃないっスか!?なにこれ!?」
驚いた様子で彼女は言う。
「大丈夫だよ。これくらい」
開店した手前、すでに俺の頭の中は、何とか今日一日やり切ろうという考えしか無かった。
「いや!ダメに決まってるでしょ!ほらこっち座って!」
そう言われながら引っ張られ、四人掛けのテーブル席へ座らされる。
彼女は一度入口へ向かい、それから出しっぱなしだった『プリヴェンションキューブ』を手に取り、テーブル席へと向かってきた。
キューブの中から『リカバーシロップ』を取り出し俺に突き出す。
それを飲んでいる間に、首の後ろに『サーモステイ+』を力強く張り付けられる。
いつぞやの逆ですっかり〝お返し〟されてしまった。
のんきにそんなことを考えていた。
「よっし!あとはもう二階で寝てるんスよ!もう店のホログラムも『CLOSE』にしちゃったんで!」
そう言いながら俺に飲用水瓶を二本押し付ける。
受け取ると同時に帰り支度をしていた。
いつ入口のホログラムを操作したんだ。
と口を開く暇もなく彼女は畳みかけるように言う。
「じゃ!なんかあったら呼んでください!」
そうして彼女は、嵐のように去っていった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
眠っていたかどうかも曖昧だった。
俺は言われた通りに、店を閉め、二階のベッドで横になっていた。
そうしなければ、彼女が与えてくれた施しに、応えられない気がしたからだ。
ただ、ぼんやりと瞼だけを動かしていた。
何度目かの瞬きで、色鮮やかに光を吸収していたはずのカーテンが、一色に染まっていた。
『赤色』
その一色の鼓動だけが、街を支配していた。
『
――ハルカは大丈夫だろうか。
ふと、先ほど訪れた少女のことを思い出した。
以前『オンボロちゃん』と呼ぶ、彼女の一人乗り飛行車を修理した話は聞いていた。
だから、大丈夫だろう。
彼女は俺が考えるよりも逞しい。
それ以上、俺の思考は回らなかった。
…………ザ…………………ザ……ザ…
瞬きと、赤色の点滅が、脳の奥を刺激する。
その赤い点滅は、血液の色を思い出させる。
その赤い点滅は、血液を逆流させる。
その赤い点滅は、逆流した血液で脳を回転させる。
その赤い点滅は、俺の、思い出したくもない、昔のことを思い出させていた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
いつの間にか、俺の意識は赤色からモノクロへと変わっていた。
近頃の『毎日』に比べると、本当にあの頃、俺の視界は『モノクロ』だったのだろう。
降り止まぬ灰色をした酸性雨の中。
俺は、ただ、生きていた。
死なないためだった。
生きていれば、それで良かった。
昼も夜もないような、こんな世界で、ただ、過ごしているだけだった。
与えられれば、食べる。
与えられれば、飲む。
死なないために、食べて、飲む。
〝雲の上を見てみたい〟
そう語る『シグ』の瞳の輝きで、黒い世界の中、俺はかろうじて人の輪郭を保っていたような気がする。
俺にはそんな大きな夢はなかった。
〝生〟が楽しいかどうかなど、まして、この先の人生のことなど、考えたこともなかった。
『トール』のところでたまにバイトをした金で、身体を動かすためのものだけを買っていた。
本当に、それだけだった。
なのに。
マーケットで出会った〝缶詰〟から目が離せなかった。
『生きるため』には必要ないはずのものだった。
バイト代のほとんどを使うような金額だ。
なのに、どうしても、その中身が気になった。
気が付けば、俺は缶詰を買っていた。
自分でもどうして、そうしたのか未だにわからない。
でも――
俺に必要なもののような気がしてならなかったんだ。
缶詰のプルに人差し指を掛け、力を込める。
〝ドクン〟
聞いたことがない音がした。
缶詰の音じゃない。
俺の音だ。
更に力を込める。
〝ドクン〟
初めて聞く、自分の心臓の音に、手が震えたのを覚えている。
蓋を開く。
〝ドクン〟
中には『本物の魚』が加工されたものが入っていた。
それを、フォークでひと掬い。
そして、口へ運ぶ。
俺は、初めて『感動』したのかもしれない。
喉を通りすぎ、腹に落ちる。
代わりに上がってくる息には、温度があった。
ネオンが煌びやかに、光っていた。
流れていく雨に、光が反射していた。
頬を撫でる風が、冷たかった。
工場の声が、ビルの隙間で響いていた。
身体の中を流れる血が、熱かった。
――ああ。そうだったんだ。
俺は、生きるために生きることが、辛かったんだ。
……ザ……………ザ……ザ…………………ザ………
――瞼の裏の赤色と、更に赤色をしたネオンが混じり、街が血を流しているような気がした。
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