第28話 揺れる想い
穏やかな陽の光がカーテンの隙間から差し込んでいた。
そんな朝の光景とは裏腹に、リアの心は静まらないままだった。
昨日の出来事
──セリオ・ヴァイス。
名乗られたその名も、声も、表情も。
何ひとつ思い出せない。
自分の命の恩人であるというサンティスという名もまた、リアにとっては初めて聞くものだった。
けれど、どうしようもなく胸の奥がざわめいて、苦しくなる。
いつも通り、朝食を終えると、イファは仕事へ向かうために靴を履く。
すっと立ち上がると、リアの方を向き、何か言いたげに見つめていたが、「いってきます」とだけ言い残して扉を開けた。
リアは皿洗いを済まし、ロッキングチェアに寄りかかるマリナに声をかけた。
「すみません。今日の午後、少し、外へ出てきてもいいでしょうか?」
「ええ、もちろんよ。気をつけてね」
「……はい。ありがとうございます」
マリナはふわりと微笑んだ。
「リア、大丈夫よ。あなたの歩く道を信じているわ」
マリナの言葉を胸に、リアは一人、雲ひとつない青空の下、町の通りを歩いていた。
家にいたくなかった。
食事をとっても、家事を手伝っていても、昨日のことをずっと考えてしまう。
苦しかった。
青空の下を散歩すれば、少し気分が晴れるかと思った。
けれど、すぐに人々の視線が、自分に向いていることに気がついた。
「あの子よ、こないだの家事の時にティノくんを助けてくれたって! すごいわねぇ」
「でも、身体が光ったんですって?」
「なんでも、倉庫を燃やし尽くすような火の中から無傷で出てきたらしいわよ! 前から変だと思っていたけど……」
「優しくていい子なんだけどねぇ……記憶がないらしいのよ」
「やだぁ! ヴァストラ帝国のスパイだったりして!」
違う。
私を知らないから怖いだけ。
大丈夫。
リアは自分にそう言い聞かせる。
それでも、耳に勝手に届いてくる声が、影のようにまとわりついてくる。
どこかで誰かが話している、その言葉が、胸の奥をちくりと刺す。
──心が重たく感じる
静かなざわめきが、遠くの方から波のように寄せてくる。
リアは、胸にそっと手を置いた。
何も変わらないはずの自分の胸の音が、少しだけ頼りなく聞こえた。
──私は……何者なの?
逃げ出したくなる衝動を、必死に堪えながらただ、歩く。
青空が見たかったはずなのに、いつの間にか地面ばかり見ていた。
ふと、立ち止まった場所は、図書館だった。
扉を開けると、天井から太陽の光が降り注ぐ。
今のリアには眩しすぎるほどに。
「リア!」
ガタンッと椅子がずれる音とともに、手を振るのはミナだった。
その隣にリゼットもいる。
「よかった! 図書館にいれば会える気がして……こないだここで会ったあと、倉庫のあたりで火事があったって聞いて、心配してたのよ」
「……ミナ、リゼット……」
リアの張り詰めた表情に気づき、ミナは微笑んだ。
「何? 考えごと? リアって本当に真面目よね」
呆れた顔で笑うミナは、言葉を続けた。
「この子、初めて会った時も、ありがとうって何か聞いてきたのよ」
「えぇ! 何それ! 難しい質問だねぇ〜!」
ケタケタと笑うリゼットが、ふと思いついたように言った。
「そうだ! せっかくみんな集まったし、今日はこんなに天気がいいんだもん! みんなでぱーっと遊びに行こうよ! 特別に、私のお気に入りの場所、教えてあげる!」
ね? と可愛らしくリアの顔を覗き込んだ。
リアは二人の明るさにほっとして、小さくうなずいた。
町のはずれにある丘で、リゼットは
「早く早く!」
と、はしゃぎながら、そこに佇む煉瓦色の時計台を指差した。
登り坂をゆっくりと登っていく。
時計台の麓へ着くと、遠くで見るよりも高く感じた。
螺旋状の階段を登る途中、ミナは
「ちょっと……待ってよ……あんたたち、どこにそんな体力があるのよ……」
とぶつぶつ言っていた。
リゼットがふと立ち止まり、
「さぁ! お待たせしました! ここが、私のお気に入りの場所だよ〜!」
と言って、じゃじゃーんっと両手を扉の向こうへ伸ばした。
その先に、リアは一歩足を踏み入れる。
目が眩むほどの眩しさの先に、ノースフィアの町が見えた。
夕暮れが雲の切れ間から差し込み、世界が金色に染まる。
町は淡く光を反射していた。
その周りには、森が広がり、湖が静かに佇む。
小さくて、大きな世界。
「きれい……」
リアがつぶやくと、リゼットは柔く微笑んだ。
まもなくして、息を切らしたミナが隣に並ぶ。
リアは、黙って金色の世界を眺めていた。
世界はただ、そこにある。
目に見えていたものは、とても小さなものだった。
この世界は紛れもなく、美しかった。
しばらくの沈黙が続いたあと、ミナがゆっくりと口をひらく。
「この町はね、世界に比べたら、とても小さいわ。そして、みんながみんな自分に優しいわけじゃない。でも、それでいいと思うの」
リゼットも笑いながら続けた。
「私だって、好きな人と嫌いな人がいるし! 全員に好かれるなんて無理だよ」
リアは、その言葉をゆっくりと反芻する。
「……そっか。リゼットでも無理、なんだね」
「そりゃあねぇ! 人間だもん、仕方ないよね!」
「いろんな人がいるわ。だから、リアもリアでいることをやめる必要はない」
ミナがリアの瞳を捉えて、まっすぐに言う。
その強さに引っ張られるように、ぽつりとリアが言葉をこぼした。
「わたし……自分のこと、何もわからないの。記憶がなくて……。どう生まれて、どう育ってきたか。何を見て、何を大切にしていて、どんなことを感じてきたのか」
ミナは、大きく息を吐くと、ゆっくりと言った。
「人って、自分のことでも全部わかるわけじゃないわ。私だってわからないことだらけよ。それでも……向き合うことはできる」
リゼットも小さく頷く。
「昔がどうとか……私、よくわからないけど、リアは今ここにいるんだから、それでいいんじゃないかな?」
「あら、たまにはいいこと言うじゃない」
リゼットを見てミナはふふっと笑った。
「へへーん!」とリゼットは自慢げに腰に手を添える。
「たまーにね! リゼットはすぐ調子に乗るんだから」
「厳しい〜! 私褒めて伸びるタイプなの! リア、助けてぇ」
リゼットが抱きつくと、リアはようやく、ほんの少しだけ、唇の端を上げた。
「……ミナ、リゼット。ありがとう」
リゾットはにっこりと笑い、ミナも静かに微笑んだ。
「リアは、ちゃんと向き合ってきたよ。自分自身とも、この町とも。ずっと。だから、大丈夫」
ミナの言葉に、リアは小さく目を閉じ、深呼吸した。
胸の中でずっしりと重さを湛えていた何かが、金色の世界に溶けていく気がした。
風が、夕陽に照らされた銀色の髪が揺らす。
刻一刻と変わりゆく景色は、まばゆいほどに美しく輝く世界だった。
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