異界王女メアリーは世界OSのRoot権限を握った ――蛙化の加護で始まる転生革命記――

@ARkn3Jnnb1TVm9

第1話 「二度目の死にかけ方は、蛙まみれだった。」

 最初に死んだときは、驚くほどあっけなかった。


 栗花落紬は、血の匂いの中でそう思った。


 夜の研究棟を出て、いつもの大通りへと足を向けたときだった。冬の空気は冷たくて、吐く息が白い。頬をかすめる風の感触は、いつもと変わらないはずだった。


 なのに——胸の奥に、何か引っかかっていた。


(……また、変な書き込みでも増えてるかな)


 スマホを取り出し、ロック画面を親指で押さえたところで、紬はため息をこらえた。研究室のメンバーから送られたスタンプ通知の横に、見慣れたワードが並んでいたからだ。


 《#デカメガネ》《#高身長女とか無理》《#身の程を知れ》


 紬は、一瞬だけ目を閉じる。


(……まだ、続いてるんだ)


 東京工業大学大学院。人工知能と量子計算の融合アルゴリズムを研究する、修士二年。学会発表もそれなりにこなして、教授たちからの評価も高い。身長一七〇センチ、視力は落ちてメガネ必須。顔は母親譲りの小ささに、父親譲りのきりっとした目元を持ち、どことなく近寄りがたい雰囲気があるらしい。


 ——そんな自分が、好きでも嫌いでもない。ただ、「これが自分だ」と思っているだけだ。


 きっかけは、本当にくだらないことだった。


 同じ院の男子学生が、廊下で紬をこっそり盗撮し、SNSにアップしたのだ。


『デカメガネ発見。女のくせに背が高すぎワロタ』


 最初は、しょうもない悪ふざけだと思った。スクリーンショットを見せてきた友人に「へえ」とだけ返し、特に怒りもしなかった。ただ、迷惑だな、程度に。


 ——父が動くまでは。


 紬の父、栗花落啓司は、十万人規模のIT企業のCEOだった。家にいるときはスウェット姿でソファに沈み、子どもたちとゲームをするただの優しい父親だが、仕事では冷徹な経営者として知られている。


 その男が、娘の名誉を傷つけられたと知ったとき、どうなるか。


 答えは簡単だった。


 即日、弁護士団と協議。大学側、人権委員会に正式抗議。盗撮・名誉毀損として、刑事訴訟法二三〇条を根拠に告訴。警察は動かざるをえず、件の男子学生はあっさり検挙された。


 大学院内では、しばらくざわつきが続いた。


「やりすぎじゃないのか」

「いや、盗撮は普通にアウトだろ」

「でも相手、あの栗花落グループの社長の娘だぜ」


 紬は何度も「お父さん、もういいから」と言いかけたが、啓司は穏やかな声で笑うだけだった。


『紬は何も悪くない。間違っているのは、相手の方だよ』


 その言葉に、紬は何も返せなかった。守ろうとしてくれていることは、分かっていたから。


 ——そして、その“正しさ”が、別の誰かにとっての絶望になることも。


 事件から一週間後の夜、紬は研究室を出て、駅へ向かう道を歩いていた。街灯が等間隔に並び、車のライトが川のように流れていく。ヘッドホンからは、最近お気に入りのインスト曲が小さく流れていた。


 そのとき、ふと視界の端に、見知らぬ男の姿が映った。


 黒いコート。くたびれたジャケット。髪は乱れ、目の下には濃い隈。どこかで見たことのある顔だと気づくのに、一秒もかからなかった。


 ——盗撮した男子学生の父親だ。


 大学側とのやりとりの中で、一度だけ見た。息子の行為を「若気の至り」と庇い、処分を軽くしてほしいと懇願していた男。そのときの彼は、まだ必死なだけの父親だった。


 だが、今、正面から向けられる視線には、はっきりとした憎悪が渦巻いていた。


 背筋が冷たくなる。足が止まる。ヘッドホンの音が遠のき、その代わりに心臓の鼓動がやけに大きく聞こえた。


「……あんたの、せいだ」


 男が呟いた。声は低く、掠れていた。


「全部……あんたと、その親父のせいだ。うちの会社も、信用も、息子の未来も……!」


 男の手が、コートの内側に沈む。


 嫌な予感が、形を持った。


 次の瞬間、その手には光るものが握られていた。街灯を反射する、銀色の刃。


(あ——)


 紬は思った。


(本当に、こんな理由で……?)


 身体が動かない。頭では「避けろ」と叫んでいるのに、足が地面に縫い付けられたみたいに重い。


 男が走り出す。距離が一気に詰まる。


 刃が振り上げられ——そして、落ちた。


 激痛と共に、世界が白く弾けた。


 冷たいアスファルトに背中が叩きつけられ、肺から空気が抜ける。視界がぐにゃりと歪んで、街灯が二重三重にぶれて見えた。


(あ、やば……)


 自分の胸元が赤く染まっていくのを、どこか他人事のように眺めながら、紬はぼんやりと思った。


(死ぬのかな、私……。こんな、くだらない理由で……?)


 悔しさよりも先に、虚しさがこみ上げた。こんな未来は、想定していなかった。博士課程に進んで、AIの研究を続けて、たまに家に帰って、弟とゲームをして、母の料理を食べて——そんな、当たり前の未来。


 それが、盗撮と炎上と逆恨みの末に、こんな形で終わるなんて。


(やだな。納得いかない)


 最後に浮かんだのは、父と母と弟の顔だった。


 ごめん、と心の中で呟いた瞬間——


 世界が、音もなく切り替わった。


***


 そこは、白い空間だった。


 上下左右の感覚もなく、ただ白一色の何もない場所。床も壁も天井もない。なのに紬は、確かにそこに“立っている”感覚だけはあった。


「——ようこそ」


 声が響いた。


 そこには、人間とも神ともつかぬ存在がずらりと並んでいた。古代の衣をまとった男、鳥の頭を持つ神、輝く太陽を背負った存在、槍を持った女神、狐のような笑みを浮かべた細身の人物……そして、その最後列には、光る回路図のようなものまでが、人の形を取って立っていた。


「え、何これ」


 思わず、素の声が漏れる。


「死後説明会?」


「簡潔でよろしい」


 狐のような笑みの存在——ロキと名乗る気配が、口元を歪めた。


「君は死んだ。理不尽にな。だから我々は、君に“再起動”の権利を与えることにした」


「……再起動?」


「別世界だ。崩壊しかけている世界がある。王族が腐り、教会は硬直し、魔素OSは古びてバグだらけだ。そこに、君を放り込む」


「いや、放り込むって……」


「安心しろ。加護も付ける。ほら」


 言うが早いか、彼らは一斉に光の玉を投げつけてきた。


「ちょっ——待っ——」


 アヌ。エンキ。イシス。ラー。ゼウス。アテナ。アポロン。アフロディテ。ロキ。名前を名乗る暇も惜しいと言わんばかりのスピードで、光球が紬の胸に、頭に、魂にめり込んでくる。


 さらにその後ろから、電子音じみた声が続いた。


『AIモジュール、インストール開始』

『ビッグデータ解析権限、付与』

『インターネット接続ポート、開放』


「いらない!!」


 紬は叫んだ。


「勝手にアプリ入れないで!! 許可くらい取って!!」


「否応なしだ」とロキが笑う。「世界の更新は、常にユーザーの同意なしに行われる」


「最悪のサービスだよ!」


 喉が焼けるように熱い。身体が、魂そのものが焼き付くような感覚の中で、紬は必死に意識をつなぎとめた。


(また、理不尽……? また私だけ引きずり回されるの?)


 だが、その問いに答える者はいない。


 最後にロキの声だけが、耳元で囁いた。


「一つだけ、ボーナスをやろう。君が“本気で嫌だと願ったもの”は、この世界で形を変える。例えば——君を殺そうとする連中とか、ね」


 そこまで聞いたところで、視界が一気に暗転した。


***


 次に目を開けたとき、紬は血の匂いではなく、鉄と汗と馬の臭いに包まれていた。


「——王女様!!」


 誰かの叫び声が聞こえる。


 視界の端で、火花が散った。金属がぶつかり合う甲高い音。怒号。悲鳴。土煙。刃が閃き、矢が飛び交い、人が倒れる。


 紬は瞬きした。


 そこは、石造りの城壁の内側だった。狭い中庭のような空間に、鎧をまとった兵士たちがひしめき合っている。その外側から、別の兵たちが雪崩れ込んできていた。城門は既に破られ、味方と思しき兵士たちはじりじりと押し込まれている。


(え、なにこれ。ゲーム? 映画?)


 思考が追いつかない。


 いや、それどころか——自分の手を見て、紬は固まった。


 細いが、白く整った指。レースのついた袖。宝石のついた指輪。胸元には、見たこともない紋章の刺繍。自分の身体ではない。だが、そこにある感覚は、紛れもなく“自分のもの”だった。


「王女様!! お怪我は!? お逃げを!!」


 紬のすぐそばで、銀の鎧をまとった若い騎士が叫んでいた。顔に血を飛ばしながら、必死に剣を振るっている。


「このままでは全滅します!! 早く——」


 その言葉は、頭上から飛んできた石礫に遮られた。


 ゴッという鈍い音がして、世界が揺れた。


 視界が白く弾ける。額に焼けるような痛み。一瞬、意識が飛びかける。その隙間に——別の記憶が流れ込んでくる。


 この身体に生きていた少女、メアリー。王女。父王と、教会と、貴族と、議会の争いの渦中にいる存在。幼い頃から「王族としての責任」を叩き込まれ、微笑みと沈黙を武器に生きてきた少女の、断片的な感情と記憶。


(……やだ)


 紬は歯を食いしばった。


(また、命の危機? 転生した途端、これ? ふざけないで)


 恐怖と怒りが、喉元までせり上がる。目の前で、騎士が敵兵の刃を受け止め、膝をつきかけていた。敵兵たちの目は、明確な殺意でこちらを見ている。


 そのとき——胸の奥で、あの狐の笑い声が聞こえた気がした。


『一つだけ、ボーナスをやろう。君が“本気で嫌だと願ったもの”は、この世界で形を変える——』


(……本気で、嫌だ)


 紬は、心の中で叫んだ。


(私に殺意を向ける人間なんて、全部、消えてしまえばいい!!)


 口が、勝手に動いた。


「ロキ!! 聞こえるなら——」


 世界が、ぴたりと静止したように感じた。


「私に殺意や反抗、陰謀、軽視の意思があるこの国の人たち、全員、蛙にしちゃって!!」


 一秒の沈黙。


 次の瞬間、空気が「弾けた」。


 バチィンッ——!


 耳鳴りのような音と共に、目に見えない衝撃波が中庭を駆け抜けた。敵兵の鎧が一斉にきしみ、剣が手から滑り落ちる。甲冑の継ぎ目から、緑色の光が噴き出した。


「な、なんだ——!?」

「身体が、うごか——」


 言葉は最後まで続かなかった。


 ガラガラと、金属音が一斉に鳴り響く。床に落ちていく剣。崩れ落ちる鎧。その隙間から——


 ぴょん、ぴょん、と。


 無数の蛙が飛び出してきた。


 緑色の、小さな、目をぱちくりさせた蛙たちが、戦場だったはずの中庭を埋め尽くしていく。さっきまで殺意に満ちていたはずの空間が、一瞬で「ぐえっ、ぐえっ」という鳴き声で満たされた。


 沈黙。


 味方の兵士たちが、ぽかんと口を開けて蛙の海を見つめている。


 最前列にいた若い騎士が、震える声で呟いた。


「……こ、これは……神々の、奇跡……?」


 紬——いやメアリーは、その場にへたり込むように座り込み、頭を抱えた。


(……また殺されるかと思った)


 本心からこぼれたそのつぶやきは、風に紛れて誰の耳にも届かなかった。


 彼女の中には、二つの人生の記憶が重なっている。


 理不尽に殺された、AI研究者・栗花落紬。

 王族として生まれ、権力争いに巻き込まれ続けてきた、王女メアリー。


 二度目の死にかけ方は、前よりも派手で、前よりも理不尽で、そして——前よりもややこしかった。


「……王族なんて、面倒くさい」


 蛙だらけの戦場で、転生王女は小さくそう呟いた。

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