2-4【ピアス】

 引っ越してすぐの頃、隣人が家を訊ねてきた。その人は玄関を開けるなり「裏通りの橋本ですけど」と語尾の強い声で名乗った。わたしと同じくらい背が低いのに、他人のつむじを正確に押し潰すような圧力がある。

「あ、裏通りの、」と無意味に繰り返し口にして頭を下げた。わたしには裏通りがどこを指すのかまだわからなかった。

 挨拶も早々に、裏通りの橋本さんは「あなたを自治会の経理に任命します」と言った。どんな仕事かと尋ねると、ここら一帯の家を毎月回って会費を集め、お金の管理をする仕事らしかった。ここら一帯、がどこまでを指すのかもちろんわたしは知らない。

 加えて新入りは月に一度ある集会には必ずお茶菓子と日本酒の一升瓶を持参し、古参の会員をもてなすこと。夫がビール党のため日本酒には詳しくないが、それなりのものを求めれば相応の値段になることは想像がついた。

 うんともすんとも言わないうちに「頼みましたからね」と言って橋本さんは帰っていった。

 夜、そのことを夫に話すと、久しぶりに手のひらが飛んできた。なぜか打たれた頬よりも床についた両手の衝撃をよく覚えていた。酔っていた夫の力はそれほど強くなかったはずなのに、勢いだけの恐怖と連動するようにわたしはそうしろに倒れ込んだ。「俺の金をなんてことに使うつもりだ」と怒鳴り、夫は残りのビールを煽った。

 次の日、また橋本さんが尋ねてきた。裏通りがどこを指すのかわからなかったので、あちらから来てくれたことにわたしはほっとしていた。呼び鈴に返事をして玄関を開けると、わたしを見るなり橋本さんは顔を引き攣らせて固まった。何も言わない橋本さんの代わりに昨日の件を話す。

「あの、昨日のお話のなんですけど、申し訳ないんですけど、お断りできないでしょうか」

 要件を切り出しても、橋本さんは固まったまま目が合わなかった。視線がわたしの背後に送られている。振り返ると、今朝夫が割ったガラスの破片が散らばったままだった。廊下と部屋を区切るガラス戸には大きく穴が空き、中の様子が歪な形に切り取られている。反対側の壁には夫が殴ってできたこぶし大の穴があり、家の中は文字通り穴だらけだった。

 青ざめた視線が部屋の中を逆流し、最後の答え合わせをするように玄関に戻って目が合った。わたしはさっと頬を手で覆ってみたが、橋本さんは何も言わずに帰っていった。とっさに抑えた頬に痺れるような痛みだけが残る。刃物や鈍器とは違い、素手でつけられた傷は翌朝からが本番なのだ。

 あれ以来、外ですれ違っても会釈さえされないのに、時々乾かない傷を見るような視線が頬に感じていた。もうとっくに傷は治ったのに。本当に恐ろしいものは目に見えないものなのかもしれない。

 引っ越しの手続きのために訪れた不動産屋で受付の女性から聞いた。 

「昔からの自治会があって、でもこんな時代ですから、合わなくて引っ越される方も」

「いるんですか」

「まぁ、いることにはいますね」

 歯切れの悪い会話を打ち切って「こちらにお名前と判子をお願いします」と促されると、それ以上聞くことはできなかった。

 いることにはいるし、いないことにはいない。合わない人もいるし、合う人もいる。控え用にとファイルに挟まれた契約書はペラペラで、トートバッグの中でもその存在を全く主張しない。 

 わたしがやらなかった経理の仕事は誰がやったのだろう。

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