1-5【穴】
以前住んでいた借家の一階の和室は、なぜか他の部屋と比べて室温が低かった。夏でも冬でもそれは変わることがなく、和室に入るとすっと肌が冷たくなるのを感じた。通気が良くないにも関わらずいくら掃除をしても乾燥した砂壁から唐草色の粒がぼろぼろと剥がれ、そのくせささくれた畳に素足をつけると少し湿っていた。奥側の押入れは殊更湿気が酷く、異様な匂いさえするような気がした。押入れの中は四方を薄っぺらいベニヤ板に囲まれ、引き戸の裏には以前住んでいた子供が貼ったであろうシールが張り付いたまま黄ばんでいて、いかにも中古物件らしかった。
夫はそこに嫌がる私を押し込み、抵抗する気持ちごと押さえつけるように襖をピシャリと閉めた。遮音性などない壁一枚を隔てた向こう側で夫が何事かを怒鳴ったあと、ガタゴトと襖が揺れた。内側から開けられないようにつっかえ棒をしていたのだ。夫がまた怒鳴るが、何を言っているのかはわからなかった。彼の怒りは言葉よりも行動の方が饒舌だった。
押入れの中は一分の隙もなく暗闇だった。あちこち建付けの悪い家のくせに、和室の押し入れの襖だけはやけにぴったりと閉まった。まるで普段夜だと思っていたものは所詮濃い藍色程度で、これがまさしく闇なのだと見せつけるみたいな。
暗くて狭いところが苦手だった私にとって、あまりに手酷い仕打ちだった。いつ出してもらえるのかもわからない、もしかしたら夫はそのまま眠ってわたしを押し入れに閉じ込めたことなどすっかり忘れてしまうかもしれない。はじめは闇の中でひたすらに怯えていた。
しかし段々と怯えることにも飽き、とにかくこの闇の中でどうしたら気を紛らわせられるかというのがわたしにとって最も切実な悩みになった。
泥水のような緑色に湿気った空気を吸い込む。確か押入れには、今の時期には使わない寝具や衣類が入っていたはず。そう思って恐る恐る左右に手を伸ばすと、しっとりとした木の感触が左手の指先を触った。右手が捉えたのは閉まっておいたカラーボックスのプラスチックらしい軽い冷たさ。身体を小さく畳むと闇だけがわたしを取り囲むけれど、そばには確かに闇以外の何かがある。恐々とでも自分以外の存在を感じている方がいくらかマシだった。肌が空気に触れる面積が大きいほど、なぜか息が苦しいのだ。
女ひとりの細腕では到底襖をこじ開けられないことはすぐにわかった。私はもう一度正面左手側へと手を伸ばす。肘が90度に曲がる前にコツンと指先が当たった。硬いが、金属やプラスチックの硬質さではなく、確かに指がしっとりするような木の柔らかさがある。それすらをも優しさのように感じながら、ぶつかった指先を頼りに今度は手のひら全体をくっつけた。そのままするすると周辺を探っていると、小さな引っ掛かりを見つけた。自分の呼吸の音を聞きながら、私はそれに爪を立てた。
カリカリ、カリカリカリカリ。
べったりと張り付いたシールを剥がす要領で何度も爪を滑らせると、しだいに神経が右手の人差指とひっかき音に集中しはじめた。こうなればしめたものだった。闇は干潮のようにぐいぐいと引いていき、やがて小さくまとまって黒い点になる。実際のところ、その引っ掛かりがどんな形をして、どんな見た目をしているのか私は知らないし、そもそもシールなのかすらも感触でしかわからなかったが、その単調な繰り返しが私を救うのだった。
しかし朝になるか夫の機嫌が直るのを待って押入れから這い出すと、私はそのことをすっかり忘れてしまう。あんなに怖かったのが嘘のように、消しゴムをかけたみたいに記憶の中にぼんやりとした鉛筆の跡が残るだけだった。臭いものに蓋をするように、わたしは怖いものに目隠しをして、和室の押入れを生活の中から追いやったのだ。
そのうち夫は押入れに時々趣味でやる釣りの道具や付き合いのためのゴルフバッグを入れるようになり、自然と闇に押し込められることはなくなった。そしてまもなく神の啓示のように引っ越しを終え、残ったのはあの時の爪先の感触だけになった。
今ならあの引っ掛かりを覗くこともできるかもしれない。そう考えてはみるものの、覗いているうちに後ろからドンと背中を押され、そのまま無慈悲に襖を閉じられてしまうのではないかという妄想が頭から離れなかった。克服するどころか、以前にも増して暗くて狭いところが恐ろしくなっていた。
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