桜色のシンフォニー ~交わる想い、重なる心~

家守 廃人

第1話

 

 四月の朝。桜ヶ丘学園の正門前には、新入生たちの緊張した表情と期待に満ちた笑顔が入り混じっていた。

 春霞がかかったような柔らかな日差しの中、一人の少女が立ち止まっていた。彼女の名前は水無月澪(みなづきれい)。肩まで伸びた黒髪を風になびかせながら、校門の桜並木をじっと見つめている。

「すごい……」

 澪の口から、思わず感嘆の声が漏れた。満開の桜が作り出すピンク色のトンネル。花びらが風に舞い、まるで映画のワンシーンのような光景だった。

 中学時代、澪は目立たない生徒だった。クラスの隅で静かに本を読み、放課後は美術部の片隅で絵を描く。友達と呼べる人間は、片手で数えられる程度。それでも澪は、自分なりに充実した日々を送っていると思っていた。

 でも、高校は違う場所にしたかった。

「新しい自分になりたい」

 そう決意して、家から少し離れたこの桜ヶ丘学園を選んだ。共学だが女子生徒の比率が高く、芸術系のコースも充実している進学校。澪にとって、新たなスタートを切るには最適な環境だった。

「よし……」

 小さく深呼吸をして、澪は一歩を踏み出した。

 その瞬間だった。

「きゃあっ!」

 突然、背後から悲鳴が聞こえた。振り返る間もなく、何かが澪の背中にぶつかってくる。

「わっ!」

 バランスを崩した澪は、前のめりに倒れそうになった。咄嗟に手を伸ばして桜の木の幹を掴む。なんとか転倒は免れたが、心臓が激しく鼓動していた。

「ご、ごめんなさい! 大丈夫ですか!?」

 慌てた声が背後から響く。

 澪がゆっくりと振り返ると、そこには息を切らせた一人の少女が立っていた。

 時間が、止まったような感覚だった。

 少女の髪は、桜の花びらよりも鮮やかな金色。いや、正確には明るい茶色に近い色だったが、朝日を浴びて黄金色に輝いて見えた。その髪は腰まで届く長さで、慌てて走ってきたのか少し乱れている。瞳は透き通るようなエメラルドグリーン。整った顔立ちは、まるでお人形のようだった。

「本当にごめんなさい! 遅刻しそうで走ってて、前をよく見てなくて……怪我はありませんか?」

 少女は申し訳なさそうに、何度も頭を下げた。その動きに合わせて、金色の髪が揺れる。まるでそれ自体が生きているかのように、柔らかく、艶やかに。

「あ、う、うん……大丈夫」

 澪は、自分の声が少し震えているのに気づいた。動揺している。こんなに動揺したのは、いつ以来だろう。

「よかった……」

 少女は安堵の表情を浮かべると、はっと何かに気づいたように腕時計を見た。

「やばい! もう八時四十分! 入学式、八時五十分開始だよね!?」

「え? あ、そう、だよ」

「走らなきゃ! あの、本当にごめんなさい!」

 少女はもう一度深々と頭を下げると、風のように走り去っていった。金色の髪が春風になびき、桜の花びらが舞い散る中を駆け抜けていく姿は、まるで一枚の絵画のようだった。

 澪は、その場に立ち尽くしたまま、少女の後ろ姿を見送っていた。

 胸の奥で、何かが静かに波打っている。

 この感覚は、何だろう。

「……綺麗だった」

 思わず口に出た言葉に、澪は自分で驚いた。顔が熱くなるのを感じる。

「って、私も急がなきゃ!」

 我に返った澪は、慌てて校舎に向かって走り出した。でも、走りながらも、脳裏にはさっきの少女の姿が焼き付いて離れなかった。

 金色の髪。エメラルドグリーンの瞳。人形のような顔立ち。

 そして、何より印象的だったのは――その慌てた様子の中にも感じられた、明るく、温かな雰囲気。

 澪の高校生活は、こうして始まった。







 体育館での入学式は、厳粛な雰囲気の中で執り行われた。

 校長の長い話も、生徒代表の挨拶も、澪の耳には半分も入ってこなかった。頭の中は、朝の出来事でいっぱいだった。

(あの子、無事に間に合ったのかな……)

 式が終わり、新入生たちは各自のクラスへと移動を始めた。澪は配られたプリントを確認する。

「一年A組……三階の一番奥の教室か」

 呟きながら、人波に紛れて階段を上る。廊下には新入生たちの緊張した空気と、期待に満ちた雰囲気が漂っていた。

 一年A組の教室は、桜の木が窓の外に見える、明るい部屋だった。まだ生徒はまばらで、それぞれが自分の座席を探している。

 澪は出席番号を確認しながら、自分の席を見つけた。窓際の前から三番目。まずまずの位置だ。

「ふう……」

 鞄を机の横のフックにかけ、椅子に腰を下ろす。窓の外を見ると、満開の桜が目に飛び込んできた。花びらが風に舞い、青空に映える。

(綺麗だな……)

 ぼんやりと外を眺めていると、教室のドアが勢いよく開いた。

「はあ、はあ……ぎりぎり間に合った……」

 息を切らせた声。

 澪の体が、反射的に動いた。顔を上げる。

 そして――目が合った。

「……え?」

 教室に入ってきたのは、朝、正門前でぶつかった、あの金色の髪の少女だった。

 少女も澪に気づいたようだった。エメラルドグリーンの瞳が大きく見開かれる。

「あ! 朝の!」

 少女は澪に向かって駆け寄ってきた。クラスメイトたちの視線が集まる。

「ごめんなさい、朝はバタバタしちゃって、ちゃんと謝れなくて。本当に怪我はなかった?」

「う、うん。全然平気だったよ」

 澪は少し戸惑いながらも答えた。こんなに至近距離で見ると、改めて少女の美しさに圧倒される。陶器のように白い肌。長い睫毛。小さく整った鼻。ピンク色の唇。

「よかった……私、本当に焦っちゃって。遅刻したくないって思って走ってたら、周りが見えなくなっちゃって」

 少女はほっとしたように微笑んだ。その笑顔は、まるで春の陽だまりのように温かかった。

「あの……名前、聞いてもいい?」

「え? あ、う、うん」

 澪は一瞬、言葉に詰まった。こんなに綺麗な人から、自分の名前を聞かれるなんて。

「水無月、澪。みなづきれい」

「澪ちゃん……素敵な名前。私は天音沙織。あまねさおり。よろしくね!」

 沙織は、屈託のない笑顔でそう言った。

「あ、天音……さん……」

「さん、なんて堅苦しいのはなし! 沙織でいいよ。それか、さおりん、って呼んでくれても嬉しい」

「さ、沙織……さん」

 澪は精一杯の勇気を振り絞って、そう呼んだ。

「うん! じゃあ、私は澪ちゃんって呼ぶね」

 その時、チャイムが鳴り響いた。ホームルームの開始を告げる音。

「あ、やばい。私の席、どこだろ」

 沙織は慌てて自分の席を探し始めた。出席番号を確認しながら、教室を見回す。

 そして――沙織の顔が、ぱあっと明るくなった。

「あった! ……って、澪ちゃんの隣じゃん!」

「え?」

 澪が驚いて振り返ると、確かに自分の右隣の席に、沙織が座ろうとしていた。

「すごい偶然! これも何かの縁だね」

 沙織は嬉しそうに笑いながら、椅子に座った。

 澪の心臓が、激しく鼓動している。

 隣。

 この美しい少女が、自分の隣の席。

 一年間、ずっと。

「ね、澪ちゃん。お昼ご飯、一緒に食べよう?」

 沙織が、無邪気な笑顔で言った。

「え……いいの?」

「もちろん! 友達になりたいもん」

 友達。

 その言葉に、澪の胸が温かくなった。

「……うん。ありがとう」

「やった! 高校で最初の友達ができた!」

 沙織は本当に嬉しそうだった。その笑顔を見て、澪も自然と微笑んでいた。

(新しい自分になりたいって思ってた)

(こんな素敵な子と、友達になれるなんて)

 澪は、この高校を選んで本当によかったと思った。

 まだ知らない。

 この出会いが、自分の人生をどれほど大きく変えることになるのか。

 この感情が、やがてどんな形になっていくのか。

 ただ、今この瞬間。

 澪の心は、春の陽だまりのように温かく、優しい気持ちで満たされていた。






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2025年12月11日 07:00
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2025年12月13日 07:00

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