第9話 静かな夜宴と宝箱
ベンチに腰を下ろして、どれくらい時間がたったのか分からない。
背中には冷たい石の感触があって、走った後の足の重さが、じんわりと残っている。
脛のあたりがじんじんして、太ももには、運動後のだるさがまとわりついていた。
胸の奥では、まだ心臓がいつもより少し早いリズムで動いている。
深く息を吸おうとすると、肺の奥がじんと痛む。
それでも、暗い廊下を走っていたときよりは、だいぶましだった。
少し離れたところで控えていたミカが、頃合いを見計らったように口を開く。
「周防様。そろそろ、魔女様のところへご案内いたします」
篝は、ベンチからそっと立ち上がった。
まだ足は重いが、廊下を走っていたときよりはまっすぐ歩ける気がする。
ミカが先に立って歩き出す。
長い廊下をいくつか曲がった先に、ほかの扉より少しだけ装飾の多いドアがあった。
濃い木目の板に、金色の取っ手と、古い紋章みたいな模様が刻まれている。
ほかの扉より、空気がわずかに重たい気がした。
ミカがノックをして、静かに名乗る。
「ミカです。周防様をお連れいたしました」
扉の向こうから返ってきた声は、小さくて、ここまで届くころにはかすかににじんでいた。
「入っていい」
子供のような高さの声。
それなのに、どこか古い本のページから立ち上がってきたみたいな響きがある。
ミカが扉を押し開ける。
中は、それほど広くない部屋だった。
壁一面に、本棚のようなものが並んでいる。
背表紙の文字は読めないが、分厚い本や、箱のようなものが隙間なく詰め込まれていた。
部屋の中央には、小さなテーブルと、その手前に置かれた椅子が一脚。
テーブルの向こう側には、背の低い影がひとつ。
黒いワンピースみたいな服。
白い肌。
年齢で言えば、小学校の高学年くらいに見える女の子。
「あの絵本の、森の奥の人……」
篝の頭のどこかで、そんな連想だけがぼんやりと浮かんでは消えた。
部屋の隅に置かれたランプの光が、その姿を照らしている。
ただ、その影だけが、おかしかった。
床に落ちる影が、ほんの少しだけ伸びたり、ねじれたりする。
細い子供の輪郭の、その外側に、何か別のものが重なっているみたいに。
篝は、まばたきをひとつした。
影は、元のとおり、ただの小さな人の形に戻っている。
女の子は、椅子から立ち上がりながら、あっさりと言った。
「転ばないように、おまじない」
声は、思っていたよりも幼くて、やわらかかった。
同時に、どこか遠くから、小さくざらついた別の声が重なって聞こえた気がする。
おばあさんみたいな、古びた声。
それが本当に耳に届いているのか、それとも頭の中で鳴っているだけなのか、自分でもよく分からない。
気づけば、女の子――魔女は、もう目の前に立っていた。
細い指先が、そっと篝の額に触れる。
ひんやりとした感触が、肌の上をすべる。
続けて、胸元にも、軽く指先が押し当てられた。
心臓の少し上。
鼓動がいちばん強く響いている場所。
魔女は、小さな声で、聞いたことのない言葉をいくつか続けた。
意味は分からない。
でも、その音の並びには、どこか聞き覚えがある気がした。
絵本のページの端に、小さく書いてあった、あの呪文の文字列。
視界の端で、子供のような魔女の姿と、歪んだ影を引く「怖い魔女」の姿が、一瞬だけずれる。
細い腕と、乾いた枝みたいな腕。
小さな足と、床を引きずる長い裾。
二つの像が、一瞬だけ重なって、すぐにひとつに戻った。
篝は、首を振る代わりに、まばたきを何度か繰り返した。
走ったせいで、まだ頭に血が上っている。
そのせいで変なものが見えただけだ、と無理やり思い込む。
額から指が離れる。
胸元からも、そっと手が離れていく。
ふっと、肺の奥に乗っていた重石が、いくらか軽くなった気がした。
ついさっきまで鉛みたいだった足の感覚も、じわじわと薄れていく。
今なら、あの廊下と同じ距離を、もう一度くらいは走れそうだとさえ思えた。
「……気のせい、かな」
思わず、小さく息が漏れた。
魔女は、そのつぶやきを聞いていたのかいないのか分からない顔で、わずかに目を細めた。
「すぐには転ばない。杖、杖。ふふふ」
その言い方の意味までは、篝には分からない。
それだけ言って、魔女は篝から半歩だけ離れる。
入口近くで控えていたミカが、そこでようやく口を開いた。
「……そこまでする必要があるのでしょうか」
声は控えめで、責めるというほど強くはない。
それでも、その一言には「いつものおまじないと違う」というニュアンスが滲んでいるように聞こえた。
魔女は、ミカのほうをちらりとも見ない。
「この子は、よく走るから」
子供のような声と、どこかで耳にした古い声が、やはり薄く重なっていた。
間を置いてから、ミカが慎重に言葉を選ぶ。
「……先ほどの廊下の椅子のことですが。この館には、あのようなものが多数ございます。周防様はともかく、ほかのお客様の前に現れれば、やはり危ういかと」
先ほどランプの下にあった、背もたれだけの椅子の姿が、篝の頭に浮かぶ。
あの椅子一つだけでなく、「ああいう椅子たち」のことを言っているのか。
それとも、この館のどこかにいる、別の「誰か」たちのことなのか。
自分でもよく分からないまま、ぼんやりと想像だけが揺れた。
魔女は、今度は少しだけミカのほうに視線を向けた。
「言っておく。知らない人の前では、遠くで見るだけ」
「あの子たち」という言い方が、椅子を指しているのかどうか、篝には確信が持てない。
魔女は、当たり前のことを確認するみたいに続けた。
「この子は、こっちの子。壊れない箱に入れる」
箱、という言い方が、篝の耳に残る。
ミカは、ほんのわずかに目を伏せてから、深く頭を下げた。
「畏まりました。では、周防様には、あのお部屋を」
椅子に向かって話しているのか、人に向かって話しているのか分からない会話が、そこで途切れた。
魔女は、篝の額と胸元をもう一度だけ、確認するように見てから、踵を返した。
黒い裾が、床の近くでふわりと揺れる。
影は、やはりどこかで歪んでいるように見えたが、今度はあえて目で追わなかった。
扉が閉まる音とともに、部屋の空気がほんの少し軽くなる。
静けさが戻ってきたところで、ミカが篝のほうを向いた。
「周防様。これから、お部屋へご案内いたします。ひとまずお休みいただいてから、軽いお食事をお持ちいたします」
篝がうなずくと、ミカは安心したように小さく会釈した。
ふたたび廊下を歩き、先ほどとは別の曲がり角をいくつか抜ける。
やがて、先ほどの魔女の部屋とは違う、落ち着いた色合いの扉の前で、ミカが足を止めた。
ほかの扉より少しだけ装飾は多いが、取っ手は銀色で、木目も柔らかい色をしている。
先ほどの扉よりも、わずかに「客間らしい」雰囲気があった。
「こちらが、周防様にお使いいただくお部屋です」
扉が開く。
中に足を踏み入れた瞬間、篝は思わず目を瞬いた。
そこは、どこかの物語で見た古い貴族の部屋みたいだった。
分厚い布で覆われた大きなベッド。
足元には暗い色の絨毯が敷かれていて、壁には金色の縁取りの鏡と、油絵のようなものが掛かっている。
窓はなく、その代わりに天井から吊るされた小さなシャンデリアと、壁のランプが柔らかい光を落としていた。
机の上には、使われていない羽ペンとインク瓶。
棚の上には、小さな箱やガラス瓶がいくつも並んでいる。
どれも、今すぐ使われる予定のない「大事なもの」をしまっておく場所みたいに見えた。
この部屋全体が、壊れ物をそっと並べておくための、大きな箱の中みたいだ、と篝は思う。
「こちらのベッドでお休みいただけます。のどが渇きましたら、こちらのお水を。
本来ならきちんとしたお食事をお出しすべきところですが、本日はお疲れでしょうから、軽いものを後ほどお持ちいたします。……本当は、もっとたくさんお出ししたいところなのですが、まずは様子を見させてください」
低い机の上には、ガラスのコップと、水の入ったポットが置かれている。
ミカの「もっとお出ししたい」という響きの中に、騎士たちの食卓をよく知っている人の、控えめな張り切りが混じっているように感じた。
篝がうなずくのを確認してから、ミカは一度だけ頭を下げた。
「少しのあいだ、お一人にしてしまいますが、どうぞおくつろぎください」
そう言って、いったん扉が静かに閉じられる。
足音はすぐに遠ざかっていった。
小さな部屋の中に、篝だけが残される。
ベッドの端に座ったまま、背中をそっと壁にもたせかける。
走っていた足の感覚が、じわじわと現実に戻ってくる。
あのときの「鉛みたいな重さ」ではなく、運動後に残る鈍い痛みと、ほぐれかけの筋肉のだるさが、足全体に広がっていた。
それに、うっすらとした眠気も混じってくる。
どれくらいそうしていたか分からないころ、こんこん、と控えめなノックの音がした。
「周防様。失礼いたします」
ミカの声とともに、扉が少しだけ開く。
手には、小さな盆が乗っていた。
湯気の立つカップと、半分に切られたサンドイッチが、白い皿の上に並んでいる。
「ハーブスープと、簡単なサンドイッチをご用意いたしました。無理のない範囲で、少しだけでもお召し上がりください。明日からは、もう少し多めにお持ちいたしますね」
最後の一言だけが、どこか嬉しそうだった。
篝の前の小さな机に、盆がそっと置かれる。
淡い緑色のスープから、知らない草の匂いがふわっと立ちのぼった。
それでも、鼻につくほど強くはなくて、どこか落ち着くような香りだった。
サンドイッチの切り口からは、薄く切られた野菜と、白いチーズの層が見えている。
「ありがとうございます」
そう言って、篝はカップの取っ手を両手で包むように持った。
指先から、じんわりとした温かさが伝わってくる。
ひと口飲むと、喉の奥から胸のあたりまで、ゆっくりと熱が降りていく。
おまじないで軽くなっていたはずの体に、その熱がもう一枚、柔らかい毛布をかけるみたいに広がっていく。
残っていた足のだるさも、どこか「疲れていて当たり前だ」と許されたように感じた。
ミカは、その様子を確かめるように一度だけうなずくと、静かに口を開いた。
「周防様。これより、少しだけお祈りの時間をいただきます。明日も走っていただくことになりますので、本日はゆっくりお休みください」
お祈り。
さっき魔女に触れられたときの、おまじないの言葉とは違う。
誰かの名前も出さないまま、見えないどこかへ向けて手を合わせるような、静かな儀式の気配だけが、その言葉のまわりにまとわりついていた。
それがこの館のどこに向かっているのかは分からない。
神様なのか、魔女なのか、それともまったく別の何かに対してなのか。
篝がうなずくと、ミカは安心したように小さく会釈した。
「扉の鍵はかけませんので、ご気分が悪くなったときは、廊下に出ていただければすぐに参ります」
最後にそれだけ告げて、扉が静かに閉じられる。
足音はすぐに遠ざかっていった。
小さな部屋の中に、再び篝だけが残された。
ベッドの端に座ったまま、カップをテーブルに戻す。
あの走りの感覚が、またじわじわと現実に戻ってくる。
今度は、走らされた直後の苦しさではなく、布団の中に持ち込んでもいいくらいの疲れ方だった。
まぶたの裏には、ときどき、あの白い部屋の光がちらついた。
良い場所なのか悪い場所なのかなんて、分からない。
分からないまま、まだ少し荒い息を吐きながら、篝はただ胸の上下だけを感じていた。
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