桜の手紙

大玉寿

第1話 柊二


 高校を卒業して五年。地元男子校の同窓会は一次会で賑やかに終わったが、俺たち三人は誰にも声をかけず、この薄暗い二次会に流れ込んだ。


 エアコンの利き過ぎた居酒屋の個室。

 普通の四人掛けのテーブルに、なぜか最初から「余白」を感じる。

 五年経っても、誰一人として座ることを許されない空席。


「……桜がいないの、やっぱ寂しいな」

 俺がそう言うと、それは儀式のように、楓太がすぐに拾う。

「三年の、夏だったよな」

 まるで、誰も傷つけないように、過去を事実として確認するだけの作業。

「……今さら、その話かよ」

 蓮は、グラスから目を離さない。

 低く吐き出された声は、俺の言葉を「綺麗事」だと嘲笑っているようだった。あいつの苛立ちは、いつもそうやって表に出る。

 桜がいない。それだけで、俺たちはこうも不安定で、五年経っても新しい一歩を踏み出せない。


「桜のことさ……二人に、言っておきたいことがあるんだ」

 空いている席を見る。もちろん、誰もいない。

 それでも、そこにいるはずの桜の姿だけが、なぜか昔よりも鮮明に浮かぶ。

 俺たちが決して触れてはいけない、あの夏の真実。

「一学期の終わり頃からさ……桜、少し変だったんだ」

 グラスの水滴を親指で何度もなぞる。そうでもしないと、言葉が喉の奥で氷のように固まって、何も言えなくなりそうだった。


 四人は一年のときクラスが同じになっただけ、接点のなさそうな集団だった。

 蓮はまんま体育会系、楓太は飄々とした感じ。

 俺は成績も要領もよく、常に中心にいたつもりでいた。

 だけど、本当の中心はいつも桜だった。


 桜は笑うとき、ほんの少しだけ首をかしげる癖があった。

 教科書を胸に抱えたまま、照れたように笑う。

 その仕草は、閉塞した教室の中で、そこだけ空気が変わるみたいに浮かんでいた。

 放課後、四人で歩く帰り道。桜はいつも俺の後ろを歩いていた。俺が時々、成績の話や学校の愚痴を話すのを、いつも笑顔で聞いていた。


「期末前にさ、桜と二人で帰った時、寄り道したいって誘われたんだ」

 その時の桜は”いつもを保とうと必死”で、細い指先を体操服の裾に強く食い込ませていた。

 俺を見上げた目には、助けを求める光が浮かんでいた。それは、単なる「寄り道」をしようという眼差しではなかった。

「桜は助けを求めていたんだと思う」

 俺は、「試験が近い」という正論を振りかざした。

 俺の成績優秀者としての地位を保つための、絶対的な理由。桜は一瞬、表情を凍らせた後、「そうだね、ごめん」と言って、再び俺の後ろを歩いた。

 あの時、俺はすべてを察していた。桜が抱える問題が、「受験や友達関係」といった、俺の理解できる範囲を超えていること。そして、その問題に踏み込めば、俺の何かが壊れるかもしれないという恐怖。

「冷たくしたつもりはなかった。でも……あいつを傷つけたのは、たぶん、俺だ」


「あの頃さ、桜が変だってことは分かってた。いつもの感じじゃないのも。でも、勝手に桜なら大丈夫って決めつけてたんだ」

 水滴がグラスの縁を滑り落ちる。それは、俺が流せなかった涙のようだった。

 俺が自分に噓を言っていることを今ならわかる。

 俺は避けたつもりはなかった。だが、桜のSOSを聞こうともしなかった。

「桜のこと、分かってるつもりだったんだ。でもさ……何も分かってなかった」

 指に力が入る。グラスを傾けても、喉の渇きは消えない。

「あの時さ、何か言えただろ。何かできただろ」

 桜は何を求めていたんだろう。


「九月の新学期。桜がいなくても何も変わらなかった。朝は来るし、授業も、模試の順位も張り出されて……俺は、俺は逃げたんだ」


 三年の二学期が始まる前、桜は何も言わずに引っ越していった。

 行き先も、理由も、誰も知らない。


 目の前の席は、五年経っても、少しだけ広すぎるままだった。目を上げると、そこに浮かぶ桜の笑い方は、許してくれているのかどうかも、今でも分からない。

 あの夏の、首をかしげたままの笑顔だった。

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