第9話 密会
「――な、何いって……」
「颯馬くん、優しいんだもん。
「――っ!」
「こんなに優しくされたの、初めてだった。だからね、好きになれたの。颯馬くんのこと」
「あ、ありがと」
「面倒くさい私のこと、色々助けてくれたでしょ? だからね、これはその時のお礼」
月明かりがカーテンを亡霊のように淡く照らしている。
闇に伏した周囲の音が夜のしじまに溶けていく。
莉乃の顔がよく見えない。
でも見える必要はなかった。
颯馬の頬に添えられる両手。
彼女の想いがくちびるに落ちる。
鼻で鼻を
息をするのも忘れたくなるほど、瞳の奥が熱くなる。
離れた体熱が名残惜しそうに笑う。
「颯馬くん、私と同盟組まない?」
「同盟?」
「そう、私たちふたりで、先生たちの秘密を解き明かすの」
「秘密?」
「ふふっ……実はね、私――ふたりが話しているのをスマホで録音しちゃったの。聴きたい?」
莉乃はスマホを取り出すと左右に振って見せた。
抜け目のなさに舌を巻く。
颯馬は底知れぬ不安と期待の入り混じった興味に、とても平常心ではいられなかった。
「聴きたいけど、今は……」
「えっ ちょっ……颯馬くん?」
颯馬は莉乃の背中に腕を回し、力任せに身体の位置を入れ替える。
その勢いで莉乃の身体をベッドへ押し倒した。
「きゃっ!」
手早な感情。
激しい心音。
このまま本能任せで求めてしまえば、誰も知らないふたりの世界を堪能できる。
「莉乃――」
莉乃はしばらく困惑しながらぼんやりと猫の目で颯馬を見つめていた。
そして、そっと想いを馳せるように瞳を閉じる。
わずかに
抵抗どころか、いまの自分そのものを受け入れようとしている。
欲望の渦が理性を吹き飛ばしていく。
わずかに残された良心のかけら。
心底に朽ち果てることなく理性を繋ぎ止めている。
俺は……
良心の
本当の愛の意味を目の前の彼女に注いでいくように。
「莉乃……」
「颯馬くん……」
莉乃の小さな頭を、優しさの指で
匂い立つ皮脂の残り香に、労いを込めて。
彼女の額にキスをした。
もう、心臓は暴れてはいなかった。
これでいいんだ……これで。
「帰ろう。ご両親が心配しているよ」
「――颯馬くん」
二人は無言でベッドから起き上がる。
スマホライトを頼りにベッドを元の状態に戻すと遮光カーテンに遮られた裏ドアを開けた。
夜の香りが涼やかに流れ込んでくるとそれはすぐさま勢いを増す。
それはポケットのハンカチをベッド脇のカーテンの下へとふわりと落とした。
誰にも気づかれないまま、その微かな音は風の鋭い摩擦にさらわれていく。
前髪を乱す流れが去ると二人はバルコニーへと出る。
さあ、帰ろう――
美しい月と散りばめられた街明り。
思わず目を細めたくなる。
暗闇に染められた二人の瞳は、明るい外の世界にしばし
三日月から視線を下げていくと、反対側の校舎の一端に注がれる。
上空から見れば、コの字の形をした校舎の
コの字の先端部分がミス研部室に位置している。
もう一つの末端部分はヘリポートを兼ねた開けた屋上構造。
そこには白い常夜灯が三秒ごとに点滅を繰り返している。
その屋上ヘリポートに人影が一人、浮遊体を引き連れて立っていた。
えっ 誰……?
こんな時間に屋上ヘリポートに立つ人物など、想像がつかない。
でも、姿・形……先輩に似ているような気がする。
その距離、約三十メートル。
目を細めて見ようとした、その時だった。
カン、カン、カン、カン……
階下から響き渡る異質な音。
「ん? 何の音?」
「金属の音? みたいだけど……」
ある予感に呼吸が止まる。
そんなはずは……
「まさかっ……非常階段の音?」
「間違いないよ。誰か上ってくる……」
「誰かって、一体誰が?」
行き場のない焦燥感が募る。
ど、どうすれば……
カン、カン、カン……
莉乃は颯馬の手を握る。
暗闇の中でも眉根が激しく寄っていくのが、彼女の息づかいから伝わってくる。
指先に戻るあの時の冷たさを宿すように、彼女の手が震えている。
本能が警告する絶対の危機。
バルコニーのコンクリート床に両足が縫い付けられていく。
人間という生き物は極度に緊張すると、こうも動けなくなるのか。
その場に立ち
「颯馬くん、どうしよう……」
「くっ……」
バルコニーから非常階段へは逃げられない。
ならばバルコニー伝いで隣の教室に移るか。
いや、ダメだ。
非常用扉こそないが、その先は二十メートル以内の直線通路で行き止まりだ。
ミス研部室の裏ドアから入られる時に見つかってしまう。
そうなればもう逃げ場はない。
ミス研部室の正面ドアから廊下へ出ても、外側から鍵をかけることはできない。
もし鍵をかけずに出てしまったら……
ここを出入りする人間など颯馬と莉乃以外にいない。
鍵を持たない自分たちが一番怪しまれるだろう。
どうすれば……
金属音が止んだ。
そして裏ドアが回される。
カチャッ
厚手のカーテンが
そして部室中央に二人が闇に溶ける姿で現れた。
颯馬と莉乃は目を見張る。
綾先生と朔夜先輩だった。
❈
莉乃の言葉が蘇る。
『あまり言いたくないけど、いい感じだったと思う』
それを証明するかのように見つめ合うふたり。
暗くてよく見えない。
わずかな隙間から颯馬と莉乃は目を凝らしていた。
「今日は携帯用のシャワールームをつけに来たよ」
「本当? 嬉しい」
「最近なにかと暑いからさ、必要だと思って」
「本当シャワーないと学校泊まれないよ」
颯馬の胸の音が大きくなっていく。
先生、いったい何を言っているんだ?
本当に学校に泊まり込む気なのか?
颯馬の
「好きだよ、綾」
「わたしも……」
決定的だった。
颯馬の心は無惨にも打ち砕かれていく。
見えない先にふたりの距離は無くなっているように見える。
颯馬は莉乃の気持ちも少し解ったような気がした。
それを聞こえよがしに踏みにじるなんて……
やるせない。
怒りで震えてくる。
しかし、どうすることもできない。
無力感に打ち
そのどこか諦めに近い心境。
しかし、その静かに燃え尽きようとしていた心理が急展する。
「ん? なんだこんな時に……」
「どうしたの?」
苛立ちに近い言葉尻が通話を始める。
どうやらスマホに連絡が入ったようだ。
朔夜先輩の通話の声から推測する。
「なんだって? 本当に見たのか?」
颯馬の瞳が大きくなる。
なにやら物々しい雰囲気だ。
ふたりは依然として暗闇の中、ライトひとつ照らさず身を置いている。
「部室の裏ドアから人が出入りするのが見えた? 本当なのか?」
「えっ? ウソ……」
驚きを隠せないのか、思わず言葉が漏れる綾先生。
焦りの色が夜の静けさをかき乱していく。
「バルコニーに生徒らしき人影が二人……そのまま部室に引っ込んだのか? もしそれが本当なら大問題になる……」
「零司くん」
朔夜先輩はいったい誰と話しているのだろう。
おそらく、その通話相手が俺たちのことを見張っていた可能性が高い。
ま、まさか――
俺らがバルコニーに出た時に見た反対側の校舎屋上にいたあの人影……それがいまの通話相手なのか?
その相手がこっちの行動を反対側の屋上から見張っていて、今こうして朔夜先輩に情報を共有しているのなら
なんということだ。
完全に油断した。
部室を裏から出るところを見張られていたなんて。
見張りに俺らの顔がバレていたら、それこそ致命的だ。
「それで、誰なんだ。二人の顔とか名前は……」
「こんな夜に部室に出入りするなんて」
「部室の鍵もないのにこの場所へ入れるのは非常階段のみだ。屋上からは飛行して着陸しない限り不可能。そうだよな、綾」
「えぇ、そうよ。そのルートに変わりはないわ」
「だとしたら誰なんだ。その二人とやらは……」
「もしかして……」
戸惑いの小声が漏れる。
それを聞き逃さない零司。
「綾、心当たりはあるのか?」
「うん。あまり信じたくないけど、ウチの部員かもしれない」
「颯馬と莉乃か?」
「うん、でもそんなことはないと信じたい」
「信じるもなにも、ここに立ち入る理由があるのはミス研の関係者のみだろう。綾、それ以外に考えられるというのかい?」
「たしかに、言われてみればそれ以外にいなさそうね」
「綾、俺はバルコニーをあたる。君は部室を見て回ってくれ」
「わかったわ」
零司は綾に指示を出すと、早速バルコニーに出てその直線ルートに目を
ミス研の部室の隣は空き教室、その隣は物置と続く。
バルコニーの先には、屋上への階段設備を構成する頑丈なコンクリート壁。
大きく立ちはだかるその高さは優に五メートルを超える。
その先へと進むために、はしご無しで自力で登り切るのは不可能だ。
つまり、このバルコニーの直線通路はコンクリートの壁で行き止まりとなっていて、その先には進めない。
零司は入念に調べていく。
「裏ドアはどれも鍵がかかっているな」
バルコニーに逃げた可能性を探るため、空き教室と物置の裏ドアをあたる零司。
しかし、どの教室の裏ドアにも鍵がかけられていて入室は不可能だった。
これらのことから、ふたりはバルコニーに逃げた可能性は否定された。
「ふふっ……なるほどね」
不敵な笑みを浮かべる零司。
綾のもとへと向かう。
部室の中を照らすスマホライトの控えめな光。
室内で合流した零司は部室の照明をためらわずにつける。
網膜を焦がすような痛みを覚える。
「綾、どうだ? いたか?」
「ちょっと!」
綾先生は声の大きさに苛立ちの余韻を滲ませた。
「照明か? 心配いらない。もうこんな時間だ。誰も見ていないさ」
「そうだけど……」
「厚手の遮光カーテンにしたのも、外部へのブラインド効果が期待できるからだよ。で……このようだと部室にもいなかったということかな?」
「うん、たぶん出ていったと思う」
「ほう」
零司先輩は綾先生の返事を待つよりも先に左右の正面ドア合計二箇所の点検を始める。
綾先生が心配な面持ちでこれを迎える。
「鍵が片方あいていたの……あの子たちは部室の鍵を持っていないから部屋を出てから鍵をかけるのは不可能よ」
「うん、たしかに」
先輩は綾先生の言葉に一定の理解を示すも、どこか思念に
「どうしたの? 早く追いかけないと……」
綾先生は焦燥に駆られている。
しかし、零司は冷静だった。
「綾、まさかと思うが……鍵を開けてふたりを逃がしたりは、していないだろうね?」
「疑っているの? ふざけないで。逃がさないわよ。見つけたら承知しないんだから」
虚勢を張るも、零司は動じない。
「フッ……そうこなくっちゃね。ついにコイツの出番かな?」
零司は
コルトパイソン357マグナム4インチ――ステンレスモデル。
銃身は重厚なシルバーで、柄の部分はフィンガーチャネル付きの滑りにくいラバーグリップを採用している。
リボルバーを回し、銃弾が入っていることを入念に確認すると口角を吊り上げる。
――ウソだろ……朔夜先輩……
――そ、颯馬くん……
「零司くん。な、なにを……」
「綾、君を守る護身用のものさ。何も特別な物じゃない」
さも当然のように振る舞う零司。
その操作性に洗練された感覚が宿っているように見える。
「そんなもの、どこで……」
零司の身体は綾先生の言葉をすり抜けるように部室の中央へ。
そこからある一点へと可能性のまなざしを注ぐ。
「綾が逃がしていないとなると、答えはひとつ……」
胸が痛い。爆発しそうだ。
何も考えられない。
目の前の隙間から零司と目が合った。
「ヤツらはまだ、この部屋の中にいる」
「なんですって!?」
綾先生の声が
零司の推測が核心に迫ろうとしている。
「正面ドアの鍵をあけてあたかも逃げ出したように装い、俺たちがここから立ち去るのをこの部屋で待っているのさ」
「そ、そんな……」
「ボクたちのやり取りを耳をそばだてながら身を潜めているんだろ?」
ドガァァァーーーン!!
先輩は名札のないロッカーを殴りつける。
そして怒りに任せて叫び散らす。
「ふざけたマネしやがって! 見つけたらタダじゃおかねぇぞ!」
震え出す莉乃の身体。
心の底から
颯馬はそれを守りの優しさでさする。
「フッ……いいことを教えてあげよう。キミたちは綾からGPSを受け取っているよね」
しまっ――!!
「その反応がロッカーの中から出ているんだよ? ボクのスマホを介してね」
息ができなくなる。
無意識に鳴る喉元。
胃が鉛のように重たくなる。
「フフッ……そこにいるんだろ?」
零司はゆっくりと颯馬のロッカーへと近づいていく。
――くっ……こっちへ来る!!
――そ、颯馬くん!!
「隠れてもムダだぞ」
目の前の隙間から零司が迫ってくるのがわかる。
ロッカーに鍵はかかっていない。
その気になればすべてのロッカーを……
「そこにいるんだろ!?」
ロッカーの取っ手に手をかけて思いっきり開く。
左手には引き金――
「出てこい!!」
バァァァ―――ン!!
開け放ったロッカーの扉。
隣の扉に激しくぶつかる。
―――――!!
「フフッ……やるじゃねぇか」
颯馬のロッカーに残されたGPSの入った巾着袋。
当てが外れてか、零司は不気味に
「どうやら本当に逃げちゃったんじゃない?」
すべてのロッカーをしらみつぶしに開けていくが、遂には見つからなかった。
綾先生の机の下、冷蔵庫の中、ソファーの影、ベッドの周り……
あらゆるところを物色して零司は綾先生に向き直る。
「どうやらネズミは本当に逃げたようだな」
「フッ……そのようね」
再開される通話――
「兄さん、ネズミはいなかったよ。校舎のどこかへ逃げた可能性が高い……」
『了解。すぐ行く』
二人は部室を表のドアから去り、電気を消した。
鍵が閉まる音が聞こえる。
周到な退出だ。
鍵を持たない俺たちが部室から出る手段。
すでにバルコニー側から非常階段で降りるルートに絞られた。
予断は許されない。
恐怖で冷えて凝り固まった身体。
極度の緊張で腕や足に痛みが走り抜けていく。
しばらくしてから颯馬と莉乃は部室に降り立った。
「早くここを出よう」
「うん」
バルコニー側に出てから反対側の校舎屋上を
美しい月光だけが降り注いでいる。
そこにはもう誰もいなかった。
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