メアリー・スカイで夜噺を

✿ 夜桜 ‪𝓐𝓵𝓲𝓬𝓮 ☪︎

第一夜《メアリー・クリスマス》

プロローグ 《夜噺のはじまり》


恋が壊れるその刹那は、宇宙の真理さえ霞むほどの甘美――。


『ふふっ……今宵は長くなりそうね……


“夜噺”の時間よ。』




《第一夜 メアリー・クリスマス》開幕。






✞✟✞✟






『これは――

S(すこし)F(ふしぎな)恋物語。』



――薄闇と白光が溶け合う“境界”がある。


ここは、この世と黄泉の国の狭間。

生きる者も死せる者も、

まだ“選ばなかった選択”を抱える魂だけが迷い込む場所。


その中央に、ぽつんと一軒のバーが佇む。

闇に沈んだ境界の世界で、ただひとつ――


ぼう、と灯がともった。


小さな明かりが、夜の底をゆっくりと押し広げる。

その光に照らされて、看板が静かに浮かび上がった。



店の名は――

《Mary Sky(メアリー・スカイ)》



その灯りは――

まるで呼吸でもするかのように、

微かな光を脈打たせていた。


暗闇の中、店だけが静かに生きている。

そんな錯覚を覚えた瞬間だった。


ギィィ……ッ。


軋む音が静寂の中で不気味に鳴り響く。


まるで――


誰かが来るのを知っていたかのように。


そして――


扉が、ゆっくりと開いた。




温度を奪うような風とともに、彼女は現れた。


黒髪ロングが闇に溶け、

夜空を閉じ込めたような瞳がこちらへ向けられる。


その微笑みは優しいのに、どこか“人間ではない”静けさが漂っていた。



『……ごきげんよう、旅人さん。』


耳ではなく、胸の奥で響いた。

声が届くより先に“意味”が脳に染み込んでくるような、

そんな奇妙な感覚。



『私の名前はメアリー・クラウン。


 このバーの管理人であり――

 人間の“不幸”と“転落”の瞬間を蒐集する観察者(オブザーバー)よ。』


彼女はグラスの氷を転がしながら愉しげに笑う。

それはどこか不気味で体温を感じさせない笑みだった。



『安心して。

 私はね、誰かの人生を奪ったり、願いを曲げたりはしないわ。』


『ただ――

 ひとつの出来事がより“純粋な形”で現れるよう、

 ほんの少しだけ舞台を整えるだけ。』


『人が“自分の足で、意思で、選んで堕ちていく”瞬間こそ、

 世界でもっとも甘美な現象なの。』


『言えなかった言葉。

 踏み出さなかった一歩。

 未来に取り残される後悔。』


メアリーは軽くグラスを揺らす。


『そういう、ちいさな綻びがね……

 人をいちばん“人間らしく”輝かせるの。』


氷がピシリと割れた。

その刹那、空気がわずかに震えた気がした。


『幸福なんて、誰が味わっても同じ。

 でも――』


彼女の瞳がゆるりと細められる。


『取り返しのつかない後悔が生む光だけは、

 その人にしか出せない“唯一無二”なの。』



『だから私は今夜も――

 ひとりの少年の運命を見守っているの。』


『だって──

 条件さえ揃えば、人間は、放っておくだけで勝手に転ぶものよ?』


彼女は背を向けて、グラス越しに夜空(境界の闇)へ視線を投げる。



『今夜の観察対象は……黒川秋人(くろかわあきと)。』


『彼がどんなふうに崩れ、

 どれほど醜く嫉妬し、

 どれほど美しく堕ちていくのか……』


『私はただ、記録し、観測するだけ。』


『彼が自分自身の意思でどこまで堕ちるのか……

 それを確かめるのが、わたしの“実験”よ。』


彼女の唇が、ゆっくりと綻ぶ。



『さあ――幕を上げましょう。』


『これは、黒川秋人という“主人公”が“観察者”に堕ちていく物語。』


黒い髪がふわりと揺れ、

その笑みが祝福にも破滅にも見える。



そのときだった。


空気がふっと震え、

ひと粒の“音”だけが世界に降りてきた。


チリン……と、

冬の夜に溶けていくようなかすかな鈴の音。


誰かが鳴らしたわけでもない。

風が揺らしたようにも思えない。


ただ――

この場所に存在するものすべてが、

同時に“その音を聞かされた”

そんな不可思議な感覚だけが残った。


冬の空気を震わせる、

どこかクリスマスを思わせる優しい鈴の音。

だが、その温もりの裏に微妙な冷たさが潜む。


まるで――

今この瞬間こそが、運命の幕開けだと告げる“合図”。



『それでは――タイトルコールよ。』


語りかける先は、

この世界の“外側”にいる誰か。



『メアリー・クリスマス。』



言葉が響いた瞬間、

世界は深い深い闇へ落ちていった。





キーンコーン……カーンコーン……


教室に授業終了のベルが鳴る。


ぼんやりと顔を上げた黒川秋人(くろかわ あきと)は、ハッと目を覚ますと、机に突っ伏していた自分に気づく。


「ねえ、アキくん。寝てたでしょ?」


振り返ると、白いマフラーを巻いた少女がこちらを覗き込んでいた。

雪のように白い肌。柔らかい目。

雪村乃々華(ゆきむら ののか)――幼なじみ。


秋人はほんの一瞬、心臓がひくりと跳ねた。


まどろんだ意識の奥に、

たった今まで確かに“何か”がいた。


(今のは……なんだ……?)


夢の残像だけが、胸の奥でゆっくり揺れている。

でも、形が掴めない。

ただ――妙に温度のある気配だけが残っていた。


「帰りどうする?

雪降ってきたよ?」


乃々華の声が耳に届く。

けれど、それが現実の音だと理解するまで、わずかに時間がかかった。


瞼を閉じれば、黒い髪がちらつく。

深く落ちていくような夜の色。

ひどく綺麗で、どこか不気味で、

まるで作り物みたいな顔立ちの――


(……名前……なんだっけ……)


喉奥に引っかかった言葉が、ようやく形になる。


(メアリー……)


その先はどうしても、思い出せない。



窓の外には、静かに銀色の眩い雪が降っていた――。


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