第二楽章 復讐者の仮面舞踏会

あの雨の夜から、二年という歳月が流れた。

俺、黒羽奏は、もはや以前の俺ではなかった。魂の抜け殻に、復讐という名の冷たい炎を宿した別人に生まれ変わっていた。


莉緒との関係は、あの日を境に終わりを告げた。問い詰めることも、罵ることもせず、ただ一言、「別れよう」と告げた。理由を尋ねる莉緒に、俺は凍てついた瞳で「君が一番よく分かっているはずだ」とだけ返した。彼女は顔を真っ青にして、何も言えなくなった。そうして俺たちの婚約は、あまりにもあっけなく破棄された。


周囲の友人や同僚には、努めて明るく振る舞った。「まあ、結婚前に分かってよかったよ。縁がなかったんだな」と、誰もが同情するような「悲劇の善人」を演じきった。悲しみに暮れる姿を見せることもあったが、それすらも計算の内だ。「奏は辛い経験をしたのに、本当に立派だ」――そんな評価が、俺の新しい仮面をより強固なものにしてくれた。


俺は仕事に没頭した。かつての純粋な熱意とは違う。獲物を狙う獣のような執念と、すべてを計算し尽くす冷徹さを武器に、次々と成果を上げた。持ち前の人当たりの良さはそのままに、内面の変貌によって手に入れた鋭利な思考は、ビジネスの世界で恐るべき威力を発揮した。俺は二年という短期間で異例の出世を遂げ、社内でも一目置かれる存在となっていた。誰もが俺を「辛い過去を乗り越えた、有能で魅力的な男」だと信じて疑わなかった。


一方、莉緒はあの男――天海陽翔と、すぐに結婚したらしい。風の噂で、長男が生まれ、最近になって郊外に新築の一戸建てを構えたことも知っていた。友人から送られてくるSNSのスクリーンショットには、幸せそうな家族写真が並んでいる。無邪気な笑顔の子供を真ん中に、満面の笑みを浮かべる莉緒と陽翔。誰もが羨む、絵に描いたような幸福な家庭。


その写真を見るたびに、俺の心の中の怪物は、静かに牙を研いだ。


――おめでとう。存分に幸せを噛み締めておくといい。その高さから突き落とす奈落は、さぞかし深く、暗いだろうから。


俺の復讐計画は、何年もかけて真綿で首を絞めるように、じっくりと、確実に進める必要があった。そのための第一歩が、ついに動き出す時が来た。



「この度の大型プロジェクト、先方のキーマンとなるのが、黒羽奏様です」


会社の応接室。陽翔は、上司の言葉に耳を疑った。

聞き覚えのある名前。忘れようとしても忘れられない、自分が愛する妻から奪い取った男の名前。まさか、同姓同名の別人だろう。そう思い込もうとした陽翔の前に、扉を開けて現れたのは、紛れもないあの男だった。


「はじめまして。御社とはぜひ、良いお付き合いをさせていただきたいと思っております。担当の黒羽です。よろしくお願いいたします」


俺は、完璧なビジネススマイルを浮かべて、陽翔に右手を差し出した。二年前よりも少しだけ精悍になった顔。高級なスーツに身を包み、自信に満ち溢れたその姿は、かつての面影を残しながらも、まるで別人のような威圧感を放っていた。


「……あ、こちらこそ、天海です。よろしく、お願いします」


陽翔は明らかに動揺していた。その強張った表情と、一瞬泳いだ視線を、俺は見逃さない。そうだ、もっと動揺しろ。お前が築き上げた偽りの平穏は、今日この瞬間から、俺の手によって少しずつ蝕まれていくのだから。


「天海さん、ですか。どこかでお会いしたことが……いや、気のせいですね。どうぞ、お座りください」


俺はわざとらしく首を傾げ、初対面の人間に対するように丁寧に席を促した。この偶然を装った再会が、俺が何か月もかけて裏から手を回し、仕組んだものであることなど、陽翔は知る由もない。俺は陽翔が勤める会社の最重要取引先の担当者という、彼が決して無下にはできない絶対的なアドバンテージを握って、彼の前に再臨したのだ。


会議の間、俺は終始、有能で誠実なビジネスマンとして振る舞った。的確な指摘と、相手を立てる巧みな話術。陽翔の上司はすっかり俺に心酔した様子で、「黒羽さんのような方と組めるなら、このプロジェクトは成功したも同然ですな!」と上機嫌だった。


陽翔は、そんな俺を警戒と困惑が入り混じった目で見つめていた。だが、俺が過去のことなど微塵も感じさせない完璧な仮面を被り続けるうち、彼の警戒心も少しずつ薄れていくのが分かった。彼はきっと、こう結論付けるだろう。「奏はもう、俺たちのことなど忘れている。過去を乗り越えて、自分の人生を歩んでいるんだ」と。


愚かな男だ。俺がこの二年、お前たちのことを一日たりとも忘れたことがあったと思うのか。お前たちがSNSに上げる幸せそうな家族写真を、血の涙を流しながら保存し、復讐の燃料にしてきたことを、お前は知らない。


会議が終わり、俺が応接室を出ようとした時だった。


「あの、黒羽さん!」


陽翔が、意を決したように俺を呼び止めた。


「……莉緒は、元気にやっています」


何を思ったのか、彼はそんなことを口走った。罪悪感からか、あるいはマウンティングのつもりか。どちらにせよ、滑稽でしかない。


俺はゆっくりと振り返り、少しだけ驚いたような、そしてすぐに懐かしむような優しい表情を作って見せた。


「莉緒?……ああ、白雪さんのことか。そうか、君と結婚したんだったね。おめでとう。元気なら、何よりだ。どうか、幸せにしてやってくれ。俺の分までね」


俺は聖人のような笑みを浮かべて、彼の肩をポンと軽く叩いた。陽翔は、俺の完璧な演技に完全に度肝を抜かれたようだった。呆然と立ち尽くす彼を背に、俺は心の中で冷たく笑う。


――俺の分まで、だと?冗談じゃない。お前たちに与えられるのは、俺が味わった絶望の、さらにその先にある本当の地獄だけだ。



復讐計画の第二の矢は、莉緒が属するコミュニティへの侵食だった。

SNSと、かつての共通の友人から得た情報を元に、俺は莉緒がよく子供を連れて行く公園や、ママ友たちと集まるカフェを特定していた。


ある晴れた週末の午後。俺はカジュアルな服装に着替え、その公園へと向かった。案の定、砂場の近くにあるベンチで、莉緒が数人の女性たちと談笑している姿を見つけた。その傍らでは、小さな男の子が楽しそうに遊んでいる。あれが、陽翔との子供か。


俺は、わざとらしく携帯電話で話しながら、彼女たちの近くを通り過ぎるフリをした。


「ええ、すみません。本日は休日にも関わらず、ありがとうございます。……はい、また改めてこちらからご連絡しますので」


仕事ができる男をアピールする、わざとらしい会話。案の定、数人のママ友がちらりとこちらに視線を向けた。俺は電話を切る素振りを見せると、ふと、莉緒の子供と目が合った。俺は、練習し尽くした、子供が最も安心するであろう優しい笑みを浮かべて、軽く手を振った。


子供はきょとんとした顔をしていたが、人懐っこいのか、すぐに駆け寄ってきた。チャンスだ。


「こんにちは。君、元気だね。お名前は?」

「ゆうと!」

「そうか、ゆうと君か。いい名前だね。お母さんとお公園に来たのかな?」


俺が子供と話していると、異変に気付いた莉緒が慌ててこちらへやってきた。そして、俺の顔を見て、息を呑んだ。


「かな……で……?」

「やあ、莉緒。久しぶり。偶然だね、こんな所で会うなんて」


俺は、まるで十年ぶりに旧友と再会したかのような、自然な笑顔を向けた。莉緒は血の気が引いた顔で固まっている。隣にいたママ友たちが、「莉緒ちゃん、お知り合い?」と興味津々な様子でこちらを見ていた。


「ああ、すみません。こちらは大学時代の友人で。驚かせちゃったかな。お子さん、可愛いね。ゆうと君だっけ?君にそっくりだ」

「え、あ、うん……」


狼狽する莉緒をフォローするように、俺は当たり障りのない会話を続ける。そして、会話の流れで、自分の「身の上」をそれとなく語り始めた。


「俺はまだ独身でね。昔、結婚を約束した人がいたんだけど、まあ、色々あって……。だから、こうして幸せそうな家族を見ると、なんだか自分のことのように嬉しくなっちゃうんだ」


少しだけ寂しそうに、けれど誰を責めるでもなく、穏やかに微笑む。この一言で、ママ友たちの目の色が変わったのが分かった。「可哀想に」「なんて良い人なの」そんな声が聞こえてきそうだ。莉緒は、俯いて唇を噛み締めている。彼女の罪悪感を的確に抉る、計算し尽くした一撃だ。


「それじゃあ、俺はこれで。邪魔してごめんね。またどこかで、莉緒。ゆうと君も、バイバイ」


嵐のように現れ、嵐のように去っていく。俺は完璧な「感じの良い元友人」を演じきり、その場を後にした。背後で、ママ友たちが莉緒に質問攻めにしている気配を感じながら、俺の口元には冷たい笑みが浮かんでいた。


これでいい。外堀は埋まり始めた。莉緒は、ママ友たちの間で「あんな素敵な婚約者を振って別の男に乗り換えた女」というレッテルを、無意識のうちに貼られていくだろう。


さらに、俺は陽翔と莉緒、それぞれの実家がある地域の祭りやイベントにも、共通の友人を介して顔を出すようになった。そこで「偶然」彼らの両親や親戚と顔を合わせる。「息子さん(娘さん)の大学時代の友人で、黒羽と申します」と礼儀正しく挨拶すれば、人の良い彼らはすぐに気を許した。俺の仕事での成功や、誠実な人柄(を装った演技)は、すぐに彼らの耳にも届くだろう。


こうして、俺は彼らの仕事、家庭、人間関係という、幸福を構成するすべての要素に、静かに、だが確実に根を張り巡らせていった。誰も俺の正体に気づかない。誰も俺の復讐心に気づかない。


幕は上がった。陽翔と莉緒、そしてその家族たちを破滅へと導く、俺が主催する仮面舞踏会。これから奏でられる不協和音を想像するだけで、凍り付いたはずの心が、仄暗い喜びに打ち震えるのだった。

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純愛の残骸に咲く復讐華〜婚約者を寝取ったお前らに、十年物の絶望をプレゼント〜 @flameflame

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