残響のコロニー

しわす五一

1話 特殊清掃人、久能

特殊清掃人の久能がその古い屋敷に到着したのは、すでに太陽が沈みきった午後7時のことだった。


街灯がほとんどない住宅街で、屋敷は深い闇の中に沈んでいた。依頼人の女性はひどくやつれており、玄関ポーチで震える手で二階の書斎を指さした。


「あそこに……夫が出るんです。毎晩、何かを訴えるように、苦しそうにこちらを睨みつけて」


「安心してください。あれはあなたの夫ではありませんよ。未練のある立派な人間の魂なんてものじゃない」


久能は無愛想に言い放つと、ズボンのポケットから出した鍵束についた、小さな招き猫の根付を指先で弄んだ。そのユーモラスな形は、彼の硬い表情とは対照的だった。彼はこの仕事中、決して笑顔を見せない。


彼は重たいジュラルミンケースを開いた。中に入っているのは数珠や御札ではない。高感度サーモグラフィーカメラ、強力なUV(紫外線)ライト、そして特殊な薬剤が入った噴霧器だ。


書斎は淀んだカビ臭さと、長く閉ざされていたことによる湿気に満ちていた。久能は部屋の照明を消し、手元のモニターを確認する。肉眼ではただの薄暗い部屋だが、カメラの液晶画面を通すと、その光景は一変した。


空中に無数に漂う、微細な発光体。それは埃のようにも見えるが、明らかに意思を持って対流し、渦を巻いている。


「すごい数だな……。『感応性擬態粘菌(かんのうせいぎたいねんきん)』のコロニーだ」


久能が呟く。これこそが、世間で「幽霊」と呼ばれるものの正体だ。


これはまだ発見されていない新種の微生物であり、群体を作るこの生物は、極めて原始的な生存本能を持っている。それは「強い脳波や感情を餌として色々な物に寄生し、その波長に合わせて擬態する」という性質だ。


これが未発見の理由は、研究しようとしてもすぐに気化してしまい、何も残らず実態の解明に至っていないからだ。


分かってるのは、ひとえに生き物の感情や記憶といった精神的なエネルギーを利用する生き物である、ということだけ。特に人間の強い感情や記憶に反応する。


「奥さん、旦那さんの形見か何か、この部屋にありますか? 特に熱を保持しやすい石や金属類でできたもの」


久能が尋ねると、依頼人は書斎の机に置かれた古い万年筆を指さした。その万年筆には、大きな黒曜石があしらわれている。


「これです。夫が愛用していた……亡くなった時も最後に触れたものかもしれない」と言い、夫を思い出したのか、細い肩を震わせ、泣き出した。


その瞬間、依頼人の悲しみと恐怖が頂点に達した。脳から発せられる微弱な電気信号の変化を、空気中のコロニーが感知する。


モニターの中で、散らばっていた粒子が急速に凝集を始めた。最初は不定形の靄(もや)だったものが、次第に人の形を成していく。


――苦悶の表情を浮かべた男性の姿。依頼人の「自分が気付かなかったせいで、夫が苦しんで死んでしまった。夫が今も苦しんでいるに違いない」という強い思い込みと記憶が、粘菌たちに夫のような形の設計図を与えてしまったのだ。


「ひっ……! あなた、許して!」依頼人はその場でしゃがみ込み、目を覆った。その悲鳴は、凝集した「夫の姿」が放つ苦悶の表情と完全にシンクロしていた。


「見ちゃいけない。あれは旦那さんじゃない。あなたの悲しみを鏡みたいに映しているだけの、人の強い感情を好むただのカビの塊だ」


久能の声は、一切の感情を含んでいない。彼は迷わず、ジュラルミンケースから取り出した筒状のUVライトのスイッチを入れ、標的に向かって照準を合わせた。


放たれた強烈な紫色の光が、幽霊の輪郭を焼きつける。粘菌が急激に活性化し、闇の中でその姿が一瞬だけ、より鮮明に浮き上がった。


「ッキャアァァァ……!」


耳鳴りのような、甲高い音が響く。それは霊の叫び声ではなく、急激な熱変化と粒子の崩壊が起こす摩擦音だ。粘菌の集合体が、断末魔のノイズのように空気を引き裂いた。


日光(紫外線)に極端に弱いこの生物は、強力なUV照射を受けると細胞膜が破壊され、結合を維持できなくなる。数秒の照射で、その効果は絶大だった。


モニターの中の「夫」は、泥が崩れるように形を失い、ただの塵へと戻っていった。部屋には焼けるような微かな臭いが残る。久能はライトを外し、視界が回復するのを待った。


久能は仕上げに、万全を期すため、万年筆へ向けて薬剤を噴霧する。鉱物の微細な穴に入り込んでいた粘菌の「巣」を根絶するためだ。噴霧器から放たれた白い霧状の薬剤は、万年筆の黒曜石に吸い込まれるように消えていった。


「完了です。これで、もう『彼』は現れません」久能はUVライトを消し、再び部屋に静寂が戻った。


彼は淡々と機材をジュラルミンケースに収めていく。感情に反応する粘菌を相手にするため、仕事に余計な感情は持ち込まない。


作業を終え、久能は片付けを始めた。部屋の空気は嘘のように澄んでいる。淀んだ湿気やカビ臭さも消え、まるで別の場所のようだった。


依頼人は泣き崩れていた。幽霊が消えた安堵と、自分が信じていた夫の苦しみが「ただの微生物」の作用だったという否定されたような絶望が、彼女の心で入り混じっていた。彼女は顔を上げようとしない。


久能は帰り際、一瞬立ち止まり、少しだけ優しく言った。それは、彼にしては最大限の気遣いだった。


「幽霊はいませんでしたが、あの生物が形を作れたのは、あなたがそれだけ強く旦那さんを想っていたからです。そのエネルギーだけは、誰にも否定できない本物ですよ。あなたが苦しむ必要はありません。もう、悲しみに囚われるのはやめなさい。」


彼はそこで少し間を置くと、付け加えた。


「あと、お金の支払いは後日でいいですよ。体調が落ち着いてからで構いません」


久能は依頼人の返事を待たず、屋敷を出た。


久能は依頼人の返事を待たず、屋敷を出た。彼は依頼人の目を直視することはなかった。これは気遣いではなく、これ以上彼女の強い感情を起こさせないための、彼の仕事上のルールだった。


屋敷を出ると、空には静かな満月が輝いていた。久能は空を見上げ、独り言を呟く。


「……ま、魂がない方が、死んだ後も現世に縛られずに済む。未練という名のカビに憑りつかれることもない。そっちの方がよほど幸せってもんだろ」


彼はカメラのレンズを月へ向けた。そこには月以外何も映らない。


死後の世界などなく、あるのはただ静寂があるだけ。それが、誰にも汚されない、彼の信じる救いだった。


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