第13話 失敗したぁ~! もう帰る!
口述試験3日目の夕方のホテルのロビー。ネクタイを外した男性が一人、うつむいたままソファに座り込んでいる。
「坂崎さん、どうされました?」
声をかけたのは、土田青年。この日の口述試験は、可もなく不可もなく。淡々と質問され、それに淡々と答えただけ。最後に試験委員からこんなことを言われた。
「それでいい。法律を扱う者は余計な感情や思いなんかを出さずに、まずはきちんと事実を追って法との関連を模索するものです。今日の私達との法律を通した対話を時々でいい。思い出してください。何かの糧になるはずです」
そういうこともあったのか、彼の精神状態は極めて落着いている。あの夏の日に十円玉でスポーツカーにひっかき傷をつけた時のような荒れた感情は一切ない。四字熟語で言うならそれこそ「山紫水明」という言葉がぴったりくるほど。
一方のうつむいたままの坂崎氏は、この日の科目でかなり手痛い失敗をしたそうである。試験委員とかなり険悪になって言い合いになりそうになり、もう片方の試験委員がたしなめるまでに至って事なきを得たからいいようなものの、もうちょっとで出て行けと退出を命じられるところだったというではないか。
「わしゃ、もうええ。帰るわ。この際、嫁さんのヒモで一生食っていくわ!」
少し大きめな声でそんなことを言ったものだから、周囲にいた受験生と思しき若い男性が何人か集まってきた。
「早まるんじゃない!」
飛んできたのは、石原一青年。青年と言っても今年12月で29歳。前回の口述で不合格になり、今年は昨年の挑戦権をもって口述試験に挑んでいる。昨年とは打って変わってこの数日間、特に問題なく試験委員の問いに答え続けている。飛びぬけていいという感触こそないが、失敗したような感覚は特にない。ただ去年の試験では彼も3日目の試験で失敗し、それを引きずって最終的に不合格になったという経緯があるため、とても他人事ではない。
「そうですよ坂崎さん。最後までやり切らなきゃダメですって。今日の今で不合格と決まったわけじゃないでしょ!」
土田青年がしきりになだめる。
頃合いを見計らって、昨年口述試験で不合格になった石原氏がゆっくりと話を進めていく。昨年のことがあって今年は今年で彼とて後がない立場だが、こういう人物を見過ごすわけにもいかない。
「自分も去年は同じような失敗をしてだな、試験委員に突っ込まれて泥船出されて見事に撃沈した。だから同じ失敗はしないよう、今年は予備校掛け持ちで口述対策を丁寧にやった。人と会話すること自体がほとんどできていない状態だったから、それを何とか法律の会話ができるようにするための対策だった。坂崎さんといったっけ、あなたはその土田君と岡山で口述対策を合格者の人らにやってもらったってことだろうけど、どうせな、完璧に対策しようったって無理な話ですよ。あなたは岡山とのことだが、そんなあなたが大阪や東京来てごらんなさいよ、受験予備校のいいカモにしかならんわ。どこかの学院長は私ら受験生を「あいつら飯のタネや」なんていわれたと聞いたが、そうなってカネをとられるだけになっちまうよ」
「石原さん、私は、岡山に居続けてよかったってことになるンですか」
「ですね。口述で落ちて、予備校かどこかに泣きながら「おまえらのせいで落ちたじゃねえか」なんて泣きながら訴えて、不合格が合格になりますか?」
石原氏にとっては、つい1か月もない前に自らがそのような状況に陥っていたからこそ言えるアドバイスではある。
「坂崎さんは何年生まれです?」
「昭和41年の10月です」
「そうか、ひのえうまの年だね。私は昭和40年の11月生まれ。1学年上ってことになるけど、この年になってどっちがどうって程の年の差もないよ。大学出てからお互い無駄な時間を過ごしてきたけど、そのかいもあってここまで来たンじゃないか。落ちたって、来年受かれば私と同じ年で合格ってことで、どのみち長い目で見て大層変わりもしない。でもさ、まだ不合格と決めつけられたわけでもない。あしたはあしたの風が吹く。明日の試験も、きちんと受けようじゃないか」
「そ、そうだ、ちょっと待ってくださいね。そこで」
石原氏が必死でなだめている間に、土田青年が近くの公衆電話に走った。テレホンカードを取り出し、緑色基調の電話機の挿入口にカードを差し込み、しばらく話をする。さすがにこれで長電話をするわけにもいかない。彼は少しだけ話して電話を切って吐き出されたカードをもって戻ってきた。
「これからこのホテルに岡山の知り合いから電話がかかってきます。坂崎さん、ここで待っていてください」
「岡山からかかって来る?」
石原氏が驚いて尋ねる。多分あの人たちだなという予想がすでに立っている。それもそのはず、彼はその電話をかけてくるであろう人物を通してこの土田青年と受験日の前日に知りあっているのだから。
電話は程なくかかってきた模様だ。フロントの若い男性が外線電話に対応しているようである。もう一人のフロントの若い男性が彼らの目の前にやってきた。
「土田さまと坂崎さま、岡山の佐敷様からお電話がかかっております」
居留守を使うような理由などどこにもない。彼らはフロントに向かった。電話口に出ることを求められたのは坂崎氏の方だった。
「はじめまして。佐敷と申します。土田君の知合いです。お聞きすると、今日試験に失敗されたとか何とか」
「ええ、まあそのちょっと」
「状況はもうわかっています。ちょっとだけこの電話口で待ってもらえますか」
「はい」
受話器を通して数秒間、沈黙が双方の周囲を支配した。だがその沈黙も程なく終わった。
「これでもう大丈夫。岡山に帰るのは、残りの日程を確実にこなしてからで十分ですから、しっかり最後まで、最後の試験で退出するまで、しっかり、しっかり、そして淡々と、求められたことを全うしてきてください。いいですね」
「はい、わかりました。ありがとうございます」
坂崎青年、表情はすっかり落ち着きを取り戻したようである。
「じゃあ、土田君に代わってもらってくれますか」
「わかりました」
土田青年は電話口の女性としばらく話していた。
「坂崎君だけど、もう大丈夫。とにかく後はしっかりと見守ってあげて」
「わかりました。ちょうど石原さんもいらっしゃったので、助かりました」
「あなたより年も近いから、ちょうどよかったわ」
「じゃあ後は、何とかします。ぼくの方は、それなりに順調です」
「ならばよかった。何かあったらまたかけてきて」
「はい」
電話を終えてロビーのソファに戻ると、彼らの周りにさらに何人かの受験生が集まって何やら話していた。
一方、こちらは岡山の信濃敏詩の会社の事務所。
「ワラちゃん、さっきも何か仕掛けしたやろ」
「そうね、ちょっとだけよ~」
「かんざし、電話口でふりかざしたようには見えなかったけど」
「心のなかで、ね。肝心のブツは、ポケットの中にあるわよ」
「振りかざしたりしてないの?」
「ええ。その必要もない。思えば実現する。呪文も道具も、本当は要らない」
「すべてはただのアイテム、ってこと?」
「そういうこと。でもさっきは、かんざしを握って話していたわ。優秀な男を看護婦さんのヒモにしておくの、惜しいでしょ」
「ま、まあ、ね(汗)」
かくして、その日は終わった。
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