元貧乏神青年と美人座敷わらし~心の貧困に挑む

与方藤士朗

法律に振り回されてきた青年

第1話 十円玉のひっかき傷

 ギギギギギギギギ~~~~~!


 1994年・平成6年の夏盛り。ここは岡山市内の街中のビルの谷間のある駐車場。今年の夏は、とにかく暑い。隣県の高松市は水不足が言われている。岡山はそこまでの心配はないが、暑さまで緩和されることはない。

 そんな真夏の昼下がりの駐車場に、異様な音が響き渡る。


 ぎぎぎぎぎぎぎぎぎ~~~~~!


「ビンちゃん、あの音は?」

 バブル期を彷彿させる少し派手目の若い女が同行している男に声をかけた。ほどなくして、彼らはその異音の正体を突き止めた。その音を発した主とともに。髪がボサボサのメガネをかけた若い男が、コインをもって青いスポーツカーの横をまっすぐに、しかし力強く歩いているではないか。


 ギギギギギギギギ~~~~~!


「おい! やめないか!」


 スーツ姿の若い男が、彼らより少し若い青年を捕まえた。

「あなた、何やっとる?」

 今度は、バブル女子が尋ねる。青年は、何も答えない。

 よく見ると、青いスポーツカーには銀色の帯ができているではないか。

 青年の右手には、銅色のコインが握られている。

「なんでこんな事したンだ?!」

 スーツ男が穏やかに尋ねる。相も変わらず、青年は答えない。

「このひっかき傷、あなたの仕業ね」

 やっと、青年が口を開いた。髪はぼさぼさ、無精ひげさえ蓄えている。

「そ、そうです。なんかね、こうでもしなけりゃ・・・」

「こうでものこうが、このザマかい? 人のクルマをブルートレインにするなよ」

 少し年長のスーツ姿の男に、青年は再び黙秘する。さっき響き渡った異音はとっくに治まったが、蝉の声は止むこともない。

 スーツ男がブルートレインと言ったのは、当時の寝台特急の客車につけられていた銀色の帯を意識してのこと。客車の場合はアクセントとして見栄えもするだろうが、人のクルマに10円玉のひっかき傷の「帯」はないだろう。しかもブルートレインといわれる寝台特急は数年前のバブル崩壊後その衰退著しく、東京発の九州方面の列車の食堂車はすべて営業休止となったほど。昭和中期の国鉄時代のような活気はすでに過去のものとなりつつある、そんな時期だった。

「ブルートレイン、か。懐かしいなぁ」

 青年は、つぶやくともなくつぶやき、自らの作り出した銀色のラインを見る。

「もっとも、この銀帯はそんないいものじゃないけどな」

 スーツ男が呆れるように言ったのも、無理はないだろう。


「あなた、大学生?」

 バブル女子の問いに、青年は答えた。

「いえ、司法試験の受験生です」

 しばらく三人の間に沈黙が走る。その沈黙を破ったのは、スーツ姿の男だった。

「それなら、出身大学は岡大(岡山大学)か?」

「はい。実のところ自主留年しています」

「司法試験に臨むとは並の連中の留年とは違うことくらい分かるが、自分自身の今やらかしたことが刑法犯になってどんな罪に該当するか。わかるよな?」

 スーツの男は自分のメガネを押し上げ、正面切って尋ねる。

「器物損壊罪の構成要件に該当します。違法性も阻却されず、有責性を否定される余地もないと考えます」

 セミの鳴き声が周りを支配する中、若い女性の声が飛び出す。

「自分で言えてりゃ世話ないよね。法律を学んで人の権利を守らなきゃいけない人がそんなことして、どうすんの」

 どうすんのと言われても、どうしようもない状況ではある。青年は黙ったままうつむいているだけだ。バブル女子が、何かを思いついたようである。


「まあいいわ、ちょっと待ってなさい」


 彼女はポケットからかんざしのようなものを取り出した。そのかんざしらしきものを彼女は青色のスポーツカーに向けて横にひと振りした。

 すると、あら不思議。銀色の帯は元の青色に戻った。恐る恐る、スーツの男が傷のあったあたりを手で触れて確認した。

「ワラちゃん、どこでこんな技を?」

 彼女は同行の男性の質問に答える間もなく、クルマを確認している。

「その話はあとで。こっちにもしっかり傷つけているわね」

 彼女はさらに、反対側の傷も同じようにして直した。クルマは、元のとおりの傷なしの状態に戻った。

「それからおにいさん、あなたの今持っている十円玉ね。ちょっといいかな、この人に渡してくれる。悪いようにはしないから」

 青年は隣のスーツの男にその十円玉を渡した。よく見ると、横にはギザギザが入っている。表裏を丁寧に見た男は、呆れたように声を発する。

「これは、昭和33年のギザジュウだ。こんな貴重なもので、よくあんな真似ができたものだな」

「まったくねぇ。ちょっとビンちゃん、そのまま手の上に置いて」

 バブル女子が、かんざしの上をその十円玉に軽く触れさせた。昭和33年と書かれた面が、あっという間に程よくきれいになった。

「じゃあ、裏、じゃないか、表を出して」

「わかった」

 スーツ男が十円玉をひっくり返した。彼女は再び、かんざしの上をそのギザジュウにかざした。程なく、平等院鳳凰堂の姿がくっきりと浮かんだ。さっきのひっかきのときに少しすれた面も、すでに修繕されている。青いペンキもなくなった。横面のギザギザも経年劣化が不自然でない程度に保たれている。かくしてかのギザジュウ、それなりの古銭屋に行けばそれなりの金になる程度にはきれいになった。


「このギザジュウ、大事にしなよ」

 スーツ男は、そう言って目の前の青年に手渡した。

「とりあえず、これでよし。キミは器物損壊罪で警察の御用になることもあるまい。防犯カメラもここは死角のようだし、仮に映っていてもクルマ本体の被害が確認されない限り、持主もわざわざ警察に訴えたりしないからな」

 この世のことと思えぬ展開に、青年はメガネの奥の目をきょとんとさせている。

「でも、このままじゃあよくないわね。ちょっと、近くの喫茶店に行ってお話を聞きたい。あなた、お時間ある?」

「あ、はい。喫茶店なんて、このところ滅多に行っていませんし、お金も・・・」

 それもそのはず、彼は先月まで司法試験の論文試験の対策に必死だった。外で酒はもとよりちょっと一服なんてことさえするヒマもなかったのだ。

「そんなのはこちらで何とかするから、まあ、来なって。どっかの厳しい校則くらいしか売りのないヘッポコ高校でもあるまいし、喫茶店に入ったら司法試験の合格が取消されるとか永久に受験資格を失うなんてこともないだろう。君は禁固以上の刑に処されたりしていないだろ?」

「前科も逮捕歴もないです」

「ま、あの程度じゃあ不起訴で終わろうけど、一歩間違えれば実刑だぜ。そうなったら司法試験にいくら合格しても法律家にはなれないからな。そういうのを御存じとは思うが、欠格事由と言って弁護士法に・・・云々」

 スーツ男はもう少し何か言いたそうだったが、同行の女性がそれをたしなめるように言った。

「それから先の話はあとで。とにかく涼しいところに行きましょう」


 かくして、彼らは喫茶店へと向かった。

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