第8話:騎士団長の憂鬱と赤い魔導車(2/3)

 王都ネストリアの北端に位置する「星見の丘」。

 恋人たちの聖地として知られるこの場所も、平日の夕闇時ともなれば人影は疎らだ。


 眼下に広がるのは、ガス灯が灯り始めた王都のパノラマ。蒸気機関の排煙が夕焼けに染まり、幻想的な紫煙となって街を覆っている。


 そんな絶景を背に、展望台の片隅に停められた一台の真紅の魔導馬車――俺の愛車『真紅の貴婦人クリムゾン・レディ』。

 エンジンは停止している。だが、車内はサウナのような熱気に包まれていた。

 むろん、空調設備の故障ではない。

 助手席で上着を脱ぎ捨て、薄いワイシャツ一枚になった騎士団長、ベアトリスが発散する、苦悶と恍惚の混じった熱量のせいだ。


「……っ、んぅ……! そこ、は……響く、と言っているだろ……ッ!」


 ベアトリスが本革のシートに背中を押し付け、身をよじる。

 汗ばんだ赤髪が額に張り付き、普段の威厳ある「鉄の女」の表情はどこへやら、潤んだ瞳で俺を睨みつけている。その頬は、夕焼けのせいだけではなく、内側から湧き上がる血潮で林檎のように染まっていた。


 俺の両手は、彼女の右腕――手首から先、いや、肘から先までもが黄金の金属で覆われた「魔導義手」を、恋人を抱くように包み込んでいた。


「動くな。感度調整の最中だ。ここで暴れたら神経回路ニューロンが焼き切れるぞ」

「だ、誰のせいだと思っている……! 貴様の流す魔力、熱すぎるんだ……!」

「俺の魔力が重いのは仕様だ。諦めて受け入れろ」


 俺はニヤリと笑い、義手の肘部分にある隠しメンテナンスハッチを指先で弾いた。

 カシュッ、という小さな音と共に装甲板がスライドし、精緻な内部機構が露わになる。

 美しい。

 ミスリルの骨格に、オリハルコンの伝達ワイヤー。古代文明の遺産アーティファクトをベースに作られたこの義手は、現代の魔導技術の結晶だ。


 だが、その管理状態は三流以下だった。


「……ひどい有様だ。関節のグリスは酸化してドロドロ、魔力パイプは煤詰まり。微細な砂埃がギアの隙間に噛んで、回転効率が三割も落ちてやがる」


 俺は商売道具の極細調整器具ニードル・ドライバーを取り出し、複雑に絡み合う配線の森へと差し込んだ。

 狙うは、神経接続コネクタの深部にある「魔力のスラッジ」。


「くっ、ぁ……!」

 俺が澱を削り取るたび、ベアトリスの喉から艶めかしい吐息が漏れる。


 この義手は、装着者の神経と魔術的に直結している。義手が受ける触覚、圧力、温度、それら全てが増幅されて脳へとフィードバックされる仕組みだ。

 つまり、俺がここを「修理」するということは、彼女の剥き出しの神経を、俺の指先で直接撫で回しているのと同義なのだ。


 拷問に近い快楽。快楽に近い拷問。

 考案した技術者は間違いなく変態・オブ・ザ・イヤー受賞ものだが、今はその変態性に感謝しよう。おかげで、堅物騎士団長のこんな表情が見られるのだから。


「よくもまあ、こんなボロボロの状態で『王国最強』なんて看板を背負ってられたもんだ。……痛かっただろ?」

「……うる、さい。……私は、止まるわけにはいかないんだ……」


 ベアトリスが荒い息を吐きながら、弱々しく呟く。

 その言葉の重みに、俺の手がわずかに止まる。


 二十六歳。

 世間ではそろそろ結婚を焦る年齢かもしれないが、騎士としては脂が乗り切る時期だ。

 だが、彼女の肩には「団長」という重圧と、男社会の軍部での軋轢、貴族院からの理不尽な要求がのしかかっている。

 彼女が「鉄の女」と呼ばれるのは、そうあらねば壊れてしまうからだ。この義手と同じように。


「……無理をするなとは言わねぇよ。それがお前の仕事だからな」


 俺は調整器具を抜き、仕上げに指先から直接、高純度の魔力を流し込んだ。

 スキル【因果修復クロック・バック】――部分発動。

 イメージするのは「初期化」ではない。「最適化」だ。

 彼女の今の肉体、今の癖、今の戦い方に合わせて、摩耗したギアの歯を再生し、歪んだフレームをミクロン単位で矯正する。


「だがな、道具ってのは持ち主に似るんだ。お前が張り詰めれば、こいつも悲鳴を上げる。……もう少し、遊び《クリアランス》を持たせろ」

「クリアランス……?」

「ああ。余裕ってやつだ。ハンドルにもブレーキにも、遊びがなきゃ事故るだろ? 人生も同じだ」


 黄金の輝きを取り戻した右腕は、夕闇の中で妖しく、美しく光っていた。


「……終わったぞ」


 俺は最後に、義手の表面を鹿革のクロスで磨き上げ、手を離した。

 ベアトリスは、恐る恐る自分の右手を目の前に掲げた。

 握る、開く。指を波打たせる。

 その動作は水が流れるように滑らかで、駆動音一つしない。完全なる静寂サイレント駆動。


「……すごい。左の手よりも軽い」

「魔力伝達率を一二〇%まで上げた。指先からビームくらい出せるかもしれんぞ」

「馬鹿を言え。……だが、礼は言う」


 ベアトリスは、自分の右手をまじまじと見つめ、ふと、柔らかく寂しげな笑みを漏らした。

 戦場で見せる鬼神の如き表情とは対極にある、ただの一人の女性の顔だった。


「……貴様は、不思議な男だ。スラムのゴロツキかと思えば、王宮の筆頭魔導技師よりもいい腕を持っている。……なぜ、こんな才能を持ちながら、あんな掃き溜めでくすぶっている?」


 俺はスキットルを取り出し、安酒を一口煽った。

 喉を焼くアルコールの刺激が、心地よい。


「くすぶってるつもりはねぇよ。俺は自由を愛する修理屋だ。……それに、スラムにはスラムの『美学』がある」

「美学?」

「ああ。壊れたものを直して、また使い続ける。少しの傷や凹みも、その道具が生きてきた『歴史』として愛でる。新品に買い替えるだけの能のない上層の連中には分からねぇ贅沢さだよ」


 俺が語ると、ベアトリスは呆れたように目を細めた。


「……歴史、か。……私のこの傷だらけの身体も、貴様には『歴史』に見えるのか?」

「見えるさ。お前の眉間のシワ一本一本が、国を守ってきた勲章だ」

「……シワは余計だ」


 ベアトリスがむくれる。

 その表情に、俺の心臓が不覚にも一拍だけ跳ねた。

 ……チッ。やはり「青い果実」も悪くない。

 二十六歳。俺のストライクゾーンである三十代半ばには程遠い。酸味が強く、皮も硬い。

 だが、その強がっている果実が、ふと皮を剥いて見せた甘い果肉。未成熟ゆえの危うさと、これから熟していく予感。

 これはこれで、別の味わいがある。あくまで「熟女育成枠」としての評価だが。


「……さて。修理も終わったし、送ってやるよ。これ以上ここにいると、俺の理性がショートして『別のメンテナンス』を始めかねない」

「なっ……! き、貴様、セクハラで逮捕するぞ!」

「怖い怖い。騎士団長の権力乱用だ」


 俺は照れ隠しに笑い、エンジンキーを回した。


 ドゥンッ! 腹の底に響く重低音と共に、『真紅の貴婦人』が咆哮を上げる。

 魔導メーターの針が跳ね上がり、車体が震える。

 俺はギアを入れ、ゆっくりと車を発進させた。


 丘を下り、王都へと続く曲がりくねった夜道に入る。

 街灯は少なく、ヘッドライトの光だけが道路を照らしている。

 助手席のベアトリスは義手を撫でながら、窓の外を流れる夜景を眺めていた。


「身体も軽くなったし、少し頭も冷えた。貴様のおかげで、明日からも戦えそうだ」

「そりゃ重畳。……だが、礼を言うのはまだ早いぜ」

「ん?」

「俺のメンテ代は高いぞ? 今回は特別にツケにしといてやるが、いずれ身体で払ってもらうことになるかもな」

「き、貴様ッ……! 調子に乗るなよ! 斬るぞ!」


 ベアトリスが顔を真っ赤にして抗議する。

 いい反応だ。平和な夜だ。

 このまま何事もなく騎士団本部へ送り届けて、スラムの行きつけの酒場で勝利の美酒に酔うのも悪くない――そう思っていた。


 その時だ。


 ――チリリ。


 俺の耳の奥で、微かな違和感が響いた。

 音がしたわけではない。

 風の音が変わった。虫の音が止んだ。

 長年、スラムの抗争や裏社会の修羅場をくぐり抜けてきた俺の「センサー」が、空気中に混ざった異質なノイズを拾ったのだ。


 それは、明確な「殺意」ではなかった。

 もっと無機質で、冷徹な……「処理」を実行しようとする機械的な気配。


「……ん?」

「どうした、クロノ。急に黙り込んで」

「……ベアトリス。シートベルトは締めてるな?」

「あ、ああ。……どうしたのだ、怖い顔して」


 俺はハンドルを握る手に力を込めた。

 アクセルペダルに乗せた足が、無意識に反応の準備をする。

 バックミラーを見る。

 暗闇の中、何もいない。ただの夜道だ。

 だが、感じる。

 闇の向こう側から、複数の「目」がこちらを照準しているのを。


「……舌を噛むなよ、ベアトリス」


 俺の声色が、仕事ビジネスモードに切り替わる。

 ベアトリスも瞬時に察知し、表情を引き締めた。義手が剣の柄を探る。


「……来るぞ」


 俺が警告した、そのコンマ一秒後だった。


 ヒュンッ!!


 夜の静寂を切り裂く、鋭利な風切り音。

 平穏な時間を粉砕する一撃が、闇の中から放たれた。

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