第3章 数字の奴隷

第9話 束の間の休息

《日曜日・朝》


土曜日の夜、母との小さな和解の後、私は泥のように眠った。

目を覚ましたのは、日曜の昼近くだった。

カーテンの隙間から差し込む光が、眩しい。

身体が重い。

昨夜の戦闘の疲労が、まだ残っている。

けれど、不思議と——心は少しだけ軽かった。

私は枕元のスマホを手に取った。


《現在のフォロワー:100,389人》


昨夜より少し減っている。

日曜は更新が少ないから、自然減だろう。

タイムラインを眺める。

いつも通りの投稿が流れている。


「今日のランチ♪」

「彼氏とデート中!」

「頑張る自分にご褒美☆」


——相変わらず、平和で、空虚で、眩しい世界。


私は画面をスクロールしながら、ぼんやりと考えた。

昨夜、母の中にあった「孤独」を浄化した。

あの黒い影は、光の粒子となって母の胸に還っていった。

ルミエは言っていた。


「消滅」させれば、本音は永遠に失われる。

「浄化」すれば、本音は持ち主に還り、成長の糧となる。


私は、浄化を選んだ。

その結果、母は——少しだけ、変わった気がする。

今朝も、「ゆっくり休みなさい」と言ってくれた。

「あなたのため」という枕詞なしで。

それだけで、私は——少しだけ、救われた気がした。


《ピロン♪》


通知音。

DMだ。

送信者を見て、私は少し驚いた。


《水瀬優莉 からのDM》


優莉? 彼女から個別にメッセージが来るなんて、珍しい。

タップして開く。


「凪ちゃん、おはよ! 突然ごめんね。 最近、なんか疲れてない?

私、ちょっと心配になっちゃって。 良かったら、今度お茶でもしな

い?」


私は、画面を見つめた。

優莉が、私を心配している?

いや、違う。

この文面は——

彼女自身が、誰かに話を聞いてほしいのだ。

金曜日の昼休み、彼女は言っていた。


「変なアカウントから通知が来る」と。

「監視されてる気がする」と。


あの時の彼女の目。

疲れ切って、怯えていた目。

——優莉も、何かを抱えている。

私は、返信を打った。


「おはよう、優莉ちゃん。 私は大丈夫だよ。 お茶、いいね。来週の

放課後とか、どう?」


送信。

数秒後、既読がついた。


「ありがとう! じゃあ、水曜日の放課後はどう? 駅前のカフェ

で!」

「うん、分かった。楽しみにしてるね」


私はスマホを置いた。

優莉と二人で話す機会。

彼女が何を抱えているのか、聞けるかもしれない。


——でも、私に何ができるんだろう。


自分のことで精一杯なのに。

私は、天井を見上げた。

白い天井。

何も変わらない、普通の天井。

けれど、私の世界は——もう、普通じゃなくなっている。



《月曜日・3時間目》


週明けの教室は、いつも通りの平穏に満ちていた。

チョークが黒板を叩く乾いた音。

数学教師の単調な声。

窓の外から聞こえる運動部の掛け声。

けれど、私の視界だけは——決定的にバグっていた。


『凪殿、右前方15メートル。感情値の乱れを感知』


視界の右端に、赤いアラートアイコンが点滅している。

ルミエだ。

この光の球体は、契約してからというもの、私の網膜に常駐するAR(拡張

現実)のような存在になっていた。

他人には見えない。

私にだけ見える、鬱陶しい同居人。


——分かってる。うるさい。


私はシャープペンを握りしめ、数式をノートに書き写すフリをした。

心臓が嫌なリズムで跳ねている。

今、まさにこの教室のどこかで—— 誰かの心が悲鳴を上げている。


『反応源は、2年B組の生徒です。名前は——佐々木さん』


佐々木さん。

金曜日の昼休み、特定班の投稿を見せてきた女子だ。

「この人、うちの学校の子だったりして」と無邪気に言っていた、あの

子。


——まさか、あの子が?


『初期段階のメンタルモンスター、幼体です。今ならまだ、被害が広がる

前に——』


——今、授業中なんだけど。


私は心の中で毒づいた。

ここは学校だ。

「ちょっと世界を救ってきます」なんて言って早退できるわけがない。

トイレに行くフリをする? 頻繁すぎれば怪しまれる。

保健室? 生徒会役員の私がサボりだと思われたら、内申に響く。

教師は、黒板に数式を書き続けている。


y = ax² + bx + c


二次関数の公式。

こんなもの、誰かの心が壊れることに比べたら、どうでもいいことのはず

だ。

けれど——私は、この椅子から立ち上がれない。

「桜庭凪」という優等生の皮を被っている限り、私には選択の自由なんて

ない。

チラリと時計を見た。

授業終了まであと15分。

長い。 永遠のように長い。


——ごめん。あと15分だけ、耐えて。


誰に向かって謝っているのかも分からないまま、私は黒板を睨みつけた。

シャープペンを握る手が、じっとりと汗で濡れている。


《15分後》


チャイムが鳴った瞬間、私は席を立った。


「あ、凪ちゃん! 次の移動教室、一緒に……」


山田さんが声をかけてくる。


「ごめん! ちょっとトイレ!」


私は友人の声を振り切り、廊下へ飛び出した。


『右へ! 保健室方向です!』


ルミエのナビゲーションに従い、走る。

廊下を曲がる。 階段を駆け下りる。

保健室の前——私はドアの前で立ち止まった。


『反応は……保健室の中です。しかし——』


ルミエの声が、途切れた。


「しかし、何?」

『反応が……消失しました』


全身の血が、冷えた。


「消失って……浄化されたの?」

『いいえ』


ルミエの声は、いつもより低かった。


『宿主の心が完全に「閉ざされた」ため、モンスターが潜伏モードに移行

しました』

「それって……」

『手遅れです。今の段階では、介入できません』


私は、壁に手をついた。

膝が笑っている。

手遅れ。

その言葉の意味を理解するのに、数秒かかった。

保健室のドアの向こうから、養護教諭の声が聞こえる。


「佐々木さん、大丈夫? 疲れが溜まってるのかもね。今日はゆっくり休ん

で」


——疲れなんかじゃない。


心の中に、黒い種が植え付けられたんだ。

それは時間をかけて芽吹き、彼女の心を内側から食い潰していく。

『彼女の心に植え付けられた「劣等感」の種は、消えていません。いずれ

モンスターは再び活性化します。その時に——』

「その時に、浄化すればいいってこと?」

『はい。ただし、潜伏期間中に宿主の心がさらに傷つけば、モンスターは

強大化します』


私は、保健室のドアを見つめた。

白いカーテン越しに、佐々木さんのシルエットが見える。

ベッドに横たわり、動かない影。


——私が、授業を優先したから?


昨夜は母を救えた。

だから、魔法少女なんて馬鹿らしいシステムでも、役に立つならやってやろうと思った。

でも、現実はこれだ。

私はスーパーヒーローじゃない。

ただの、時間割と世間体に縛られた高校生だ。


『いいえ、貴殿のせいではありません』


ルミエは、淡々と言った。


『システム上、全ての発生事案に対応することは不可能です。貴殿は貴殿

の生活を守らねばなりません』

「……慰めになってないんだけど」

『事実の通告です』


ルミエは、一拍置いて続けた。


『ただ、結果として——今回は間に合いませんでした』


その言葉が、胸に突き刺さる。

握りしめた拳に、爪が食い込んだ。

痛みを感じない。

それ以上に、心が痛かった。



《月曜日・深夜》


その日の授業は、まともに頭に入らなかった。

佐々木さんは、結局そのまま早退したらしい。

放課後、生徒会の仕事を適当に片付けて、私は早々に帰宅した。

夕食も喉を通らない。

母が「体調悪いの?」と心配そうに尋ねてきたが、「ちょっと疲れただ

け」とだけ答えた。

土曜日の夜からの、小さな変化。

母は、それ以上追及しなかった。


「無理しないでね」


その言葉だけを残して、母はリビングに戻っていった。


——少しだけ、楽だ。


以前なら、「あなたのためを思って言うんだけど」と説教が始まっていた

はずだ。

浄化の効果なのか、それとも母自身の変化なのか。

どちらにせよ——今は、ありがたかった。

部屋に戻り、ベッドに倒れ込む。

天井を見つめる。


——このままじゃ、ダメだ。


罪悪感が、私を突き動かしていた。

佐々木さんを救えなかった。

けれど、彼女の中に潜んでいるモンスターは、いずれ再び活性化する。

その時には——必ず浄化する。

今回は間に合わなかった。

けれど、次は。


『凪殿、反応を感知しました』


ルミエの声。


「……また?」

『はい。今度は、公園方向です。距離約800メートル』


私は、時計を見た。

23時30分。


「……行くしかないか」


私は制服の上に黒いパーカーを羽織った。

窓から忍び出る。

月明かりだけを頼りに、夜道を走る。

公園に辿り着くと——


『エンヴィー・スライム。嫉妬の感情が実体化したものです』


緑色の粘液を垂れ流す、スライム状の怪物。

全身がぬめぬめと光り、触手のようなものを無数に伸ばしている。


『——ナニヨ……アノコバッカリ……ズルイ……』


怪物の声が、頭の中に直接響く。

私は変身し、ソウルフォンを構えた。


「消滅させる? それとも——」


自分に問いかける。

浄化か、消滅か。

昨夜、私は浄化を選んだ。

けれど、浄化はコストが高い。

消滅なら、約300人。

浄化なら、約800人。

——でも。


『——ウラヤマシイ……ワタシダッテ……ワタシダッテ……』


あの声。

誰かの、本音。

誰かの、叫び。


それを——消していいのか?


「……浄化する」


私は、決めた。


「たとえコストが高くても。本音を消すのは——違う」

『了解しました。浄化プロセスを開始します』


戦闘が、始まった。


《30分後》


「はぁ……はぁ……」


変身を解いた私は、公園のベンチに座り込んでいた。


《現在のフォロワー:97,800人》


約2,600人の消費。

エンヴィー・スライムは粘着質で、分裂能力を持っていた。

一度では浄化できず、何度も攻撃を繰り返す必要があった。

結果、想定以上のフォロワーを消費した。


「……思ったよりキツいな」


身体が、鉛のように重い。

けれど——

浄化した瞬間、スライムの核から光の粒子が飛び出し、夜空へと消えて

いった。

どこかにいる「宿主」の元へ、本音が還っていった。

誰かは分からない。

けれど、その人は——自分の「嫉妬」と向き合うことになる。

痛みを伴うだろう。

けれど、それが「癒し」の始まりだと、ルミエは言っていた。


——私のやっていることは、正しいのか?


分からない。

分からないけど——

消滅よりは、マシだと思う。

私は、重い身体を引きずって、家路についた。

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