《裏垢魔法少女》 ミッドナイト・ヴェノム

リコリスト

第1章 偽善者の日常

第1話 昼の仮面 —— 聖女の憂鬱

昼休みのチャイムが鳴り響いた瞬間、教室は一気に喧騒に包まれた。

机を寄せ合う音、笑い声、スマホの通知音——それらが混ざり合い、まるで動物園のような騒がしさを作り出している。

窓から差し込む春の陽光が、舞い上がる埃をキラキラと照らしている。教室の空気は生温かく、どこか緩んでいて、眠気を誘う。

私、桜庭凪は自分の机で弁当箱を開けながら、その光景を眺めていた。

なんて平和で、なんて空虚な光景だろう。


「ねえ凪ちゃん、ちょっといい?」


箸を手に取ったところで、声をかけられた。

振り向くと、クラスメイトの女子生徒——確か山田さんだったか——が申し訳なさそうな表情でノートを抱えて立っていた。


「あのね、昨日の数学の宿題なんだけど、ここが全然分かんなくて……。凪ちゃん、生徒会の仕事で忙しいのにごめんね。でも、教えてくれない?」


ノートを差し出してくる彼女の目は、期待に満ちている。

私は箸を置き、今日何度目か分からない「聖女の微笑み」を口角に貼り付けた。

頬の筋肉を持ち上げる。目を柔らかく細める。首を少しだけ傾ける。

完璧な「優しい優等生」のポーズ。


「ううん、全然大丈夫だよ。どれどれ……えっと、ここは二次関数の問題だね。この公式を使うと解きやすいかも。ほら、xの係数をこうやって因数分解すると——」


「あ、そっか! うわ、ホントだ! さすが凪ちゃん、教え方めっちゃうまい! マジ助かった!」


山田さんがパァッと顔を輝かせ、「ありがとー!」と弾んだ声で言って自分の席へと戻っていく。

私は笑顔を浮かべたまま、冷めた弁当の卵焼きを口に運んだ。

味がしない。

母が朝早くから作ってくれたはずの卵焼きは、砂糖と醤油で甘辛く味付けされているはずなのに、まるで発泡スチロールを噛んでいるような感覚だ。


——自分で教科書読めば五秒で分かることじゃん。思考停止してんの?


心の中だけで毒づく。誰にも聞こえない場所で。

私の中には、二つの声がある。

一つは、今しがた山田さんに向けた「優しい優等生・桜庭凪」の声。

もう一つは、誰にも見せない、私だけの本音。

この二つの声は、決して交わることがない。

私の評価は「完璧な優等生」。成績優秀、生徒会書記、誰にでも親切で、礼儀正しく、信頼できる。

それが桜庭凪という人間に貼られたラベルだ。

このラベルを維持するために、私は毎日膨大なエネルギーを浪費している。

朝起きてから家を出るまでの45分間で、完璧な身だしなみを整える。鏡の前で笑顔の練習をする。表情筋のストレッチ。

登校してから下校するまでの8時間、一度たりとも仮面を外さない。

頼まれごとは断らない。困っている人がいたら手を差し伸べる。愚痴は言わない。常に笑顔。

それが「桜庭凪」という商品のブランドイメージだ。


「あ、優莉ちゃーん! 今日のインスタ見たよー! あのカフェ、超オシャレだったね!」


教室の中央から、甲高い歓声が上がった。

反射的に視線を向ける。

そこには、クラスの中心人物、水瀬優莉がいた。

亜麻色の長い髪をふわりと巻き、制服のリボンを少しゆるめ、スカートも規定より少しだけ短く着崩している。

校則違反ギリギリのラインを攻めた、「オシャレ」と「不良」の境界線上にいる少女。

けれど彼女は決して不良扱いされない。なぜなら、彼女の周囲には常に人が集まり、その笑顔は教室を華やかにするからだ。

フォロワー5万人のインフルエンサー。この学校では、ある意味で私以上の「有名人」だ。


「えー、ほんと? ありがと! あのカフェ、マジで映えだったからマジでおすすめ! 今度一緒に行こうよ!」


優莉が花が咲いたような笑顔を振りまく。

その笑顔は完璧だった。口角の上がり方、目の細め方、首の傾げ方、身振り手振り——全てが計算され尽くした「見られるため」の演技。

私はその笑顔を、冷めた目で観察する。


——あいつも、大変だねぇ。


私には分かる。あの笑顔の裏で、彼女がどれだけ周囲の視線を気にし、評価に怯え、「完璧なインフルエンサー」であり続けることに疲弊しているかが。


《ピロン♪》


優莉のスマホが通知音を鳴らした。

彼女が画面を見た瞬間、その表情が——ほんの一瞬だけ——固まったのを、私は見逃さなかった。

笑顔が消え、真顔になる。いや、真顔というより——疲れきった表情。

目の下に、うっすらとクマが見えた気がした。ファンデーションで隠しているけれど、光の加減で一瞬だけ見えた。

彼女、最近あまり眠れていないのかもしれない。

けれど、それはほんの0.5秒ほどの出来事だった。すぐに彼女は笑顔に戻り、「やばー、忘れてたー!」と明るく言って返信を始める。

その瞳の奥には、冷たい色が混じっていた。まるで、凍った湖の底を覗き込むような、冷たさ。


——でも、なんかいつもと違う。あいつ、ちょっと危ない感じがする。


私は視線を外し、再び弁当に向き直った。


「凪、これ頼まれてた書類なんだけど」


今度は男子生徒だ。生徒会の副会長、田中。

彼が私の机にドサッと紙の束を置いた。A4サイズの資料が、少なくとも30枚はある。


「放課後の会議で使うから、これ全部チェックして、誤字脱字あったら修正しといて。あ、それと集計表も作っといてくれる? 放課後までに終わるよね?」


彼の声には、疑問の余地がない。「桜庭ならやってくれるだろう」という前提で話している。

私は反射的に、条件反射で、口を開いた。


「はい、大丈夫です。私がやっておきますね」


「さんきゅー。マジ助かるわ」


田中はそれだけ言うと、さっさと自分の席に戻っていった。


——死ねばいいのに。


心の中の罵倒は、誰にも聞こえない。

私は弁当箱を閉じた。食欲は完全に失せていた。



生徒会室は、書類とインクの匂いが混ざり合った、独特の空気に満ちていた。

窓から差し込む西日が、室内を琥珀色に染めている。

私は長机に向かい、田中から押し付けられた資料の最後のページをチェックしていた。

時刻は17時30分。

役員たちは、既にほとんどが帰宅している。

残っているのは会長と私だけだ。


「お疲れ様、桜庭さん。今日も助かったよ」


会長の声が背後から聞こえた。

振り返ると、生徒会長の高橋先輩が微笑んでいる。


「いえ、これくらい大丈夫です」


私は笑顔で答えた。


「桜庭さんって本当に頼りになるよね。君がいないと、この生徒会は回らないよ」


その言葉は、賞賛のように聞こえる。けれど、私には分かる。

それは「これからも頼むね」という、無言の圧力だ。


——「頼りになる」じゃなくて、「便利」って言えよ。


心の中で毒づく。けれど、顔の筋肉は微笑みの形を保っている。


「無理しないでね。体調崩したら大変だから」


高橋先輩は優しく言った。けれど、その「優しさ」は空虚だ。

本当に私の体調を心配しているなら、最初からこんな量の仕事を押し付けない。


「じゃあ、僕は先に失礼するね。戸締まりよろしく」


高橋先輩は鞄を持って部屋を出ていった。

生徒会室には、私一人だけが残された。

30分後、全ての資料のチェックと集計が完了した。

時刻は18時過ぎ。外はもう薄暗くなっていた。

私は鞄を持ち、生徒会室の電気を消す。

校門を出る。

夕暮れの空は、オレンジから紫へとグラデーションを描いていた。

一歩、また一歩。その一歩ごとに、背中に背負った重い鎧が剥がれ落ちていく感覚がある。

「優しい優等生・桜庭凪」という仮面が、少しずつ、ゆっくりと、溶けていく。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る