姫君は人魚に愛される

01. 人魚からの求婚

 ヨルが重いまぶたをこじ開けると、そこは見慣れた自室の天蓋付きベッドだった。


 窓の外は漆黒の夜。

 しかし、アクアリア王国の夜は、月明かりが海面に反射し、息をのむほど美しい星空が広がっている。


 その光景とは真逆に、ヨルの胸中は鉛のように重く沈んでいた。


(ああ、私は……帰ってきてしまったのですね)


 まず頭に浮かんだのは、深い落胆だった。


 自分は、あの忌まわしい婚約から逃れるために、家出をして船に乗ったはず。

 それなのに、またこの城の、この部屋に連れ戻されてしまったようだ。


 そこまで考えたところで、船旅の記憶が不自然に途切れていることにヨルは気がついた。


 ヨルが見た最後の光景は、船のデッキから見た闇夜の水平線。

 そこで美しい歌を聴いた先は、何度記憶を手繰っても思い出すことができない。


 ベッドの上で身体を起こしてぼんやりしていると、部屋に入ってきたメイドが悲鳴にも似た声を上げてヨルに駆け寄ってきた。


「ヨル様……っ! 目が覚めたのですね……本当に……よかった、これは、奇跡です……っ」


 泣きじゃくるメイドに強く、縋るように抱きつかれ、ヨルはようやく、自分がただ家出から連れ戻されたのではないことを理解する。


 ただ眠っていただけではない。

 このメイドがこれほど取り乱すほど、自分の身に何か恐ろしいことが起きたに違いない。


 事態が全く呑み込めないまま、ヨルは強張った身体で、ただその頭を静かに撫でるしかなかった。


「私……っ、国王陛下に、お知らせしてきますっ!」


 メイドは涙を拭い、急ぎ足で部屋を飛び出していった。

 静寂が戻った部屋で、ヨルはベッドの上、一人でただ膝を抱えた。


(一体、私の身に何が……あの美しい歌を聞いた後、私はどうなったのでしょうか……)


 喉がからからに渇き、心臓が不安を訴えて激しく脈打つ。

 その時、場違いなほど軽やかな声が、静寂を破った。




「ふふっ。奇跡だって。……違うよ、奇跡なんかじゃないよ。だって、ひかりが助けたんだもん」




 ヨルが驚いて振り返ると、声の主は、窓辺に座っていた。


 ヨルは息を呑んだ。


 月光のように輝く長い銀色の髪。

 そして、まるで太陽の光を閉じ込めたかのように光る瞳。


 その神秘的な姿を、ヨルは知っていた。

 おとぎ話でしか聞いたことがない、虹色に輝く尾を持つ存在。


 ――人魚。


「ひかりって言うの。人魚の、ひかり」


 月明かりを浴びて不敵に笑うその人魚を、この世の何より美しいと、ヨルは素直に思った。


「貴女は、ヨルっていうのね? だって、さっきそう呼ばれていたもの。やっと名前がわかって嬉しいな。とっても綺麗な名前だね。よろしくね、ヨル」


 くれないに彩られたその唇から自分の名前が紡がれ、ヨルは胸に甘く、不思議な熱が灯るのを感じた。


 しかし、ひかりと名乗ったその人魚によると、ひかりはどうやらヨルの命の恩人のようだった。

 いかにも怪しげな話ではあるが、その透き通った瞳を見ると、どうにも嘘には思えなかった。


 ヨルはアクアリア王国の第四王女である。

 姫としての矜持を示すように、ヨルは平静を装い、ベッドから起き上がって真っ直ぐに背筋を伸ばした。


「貴女は私の生命の恩人のようです。ありがとうございます、ひかり」


 一呼吸置いて、ヨルは続けた。


「このご恩、王族として返さずにはいられません。貴女の望みは何ですか? 食べ切れないほどの御馳走でも、持ちきれないほどの宝石でも、できる限りの礼は尽くしましょう」


 ヨルは人魚が何を食べるのか知らなかったし、その美しい鱗を見れば宝石など不要な気もした。

 しかし、人魚にどのようなものを差し出せば喜ぶのかわからないのも事実だった。


 ヨルの言葉を聞いて、ひかりはふわりと微笑んで首を振った。


「美味しいのも、綺麗なのも、好きだけど……今ひかりが欲しいのは、そんなものじゃないんだ」


 そう言うと、まるで月光のように美しい微笑みを浮かべて、窓辺に腰かけたまま、ひかりはヨルに手を伸ばした。


「ひかりが欲しいのは、ヨルなの! ねぇ、ヨル、ひかりとケッコンしよう?」


 そのあまりにも唐突で、常識はずれの言葉に、ヨルの思考は完全に停止し、頭が真っ白になった。


「ななな、なにをおっしゃるのですか」


 声を上擦らせるヨルをよそに、ひかりは楽しそうに、胸の前で手を合わせてヨルを見つめる。


「ケッコンして、ずっとずっと、ひかりとヨルは一緒にいるの。とっても素敵でしょう?」


 ひかりは、無垢な子どもがおもちゃをねだるように、ただ純粋に、求婚の言葉を口にした。

 常識という名の鎖が、ヨルの喉元を締め付ける。


「わ、私は、この国の、アクアリア王国の姫です……っ。私の、結婚相手は、国が……っ」


 喉に絡まるように言葉を詰まらせているヨルを見て、ひかりは太陽のように明るい瞳を細め、くすくすと楽しそうに笑った。


「ふふっ。すぐに答えが欲しいわけじゃないんだ。ちょっとだけ考える時間をあげるから、決まったら返事を聞かせて? あっ……でも、ダメな返事は聞きたくないから、いい返事を頂戴ね!」


 そう言うとひかりは窓辺から滑り降り、部屋の奥、水音がする方へと、その美しい尾を滑らせた。

 そして、部屋の床を深く刳り抜いた人工滝の泉の縁から飛び込むと、水しぶきとともに泡のように消えてしまった。

 残されたのは、水の音だけが響く静かな自室と、ヨルの胸に残る静寂だけ。


 この日、この瞬間こそが、アクアリア王国第四王女ヨルの、定められた運命が大きく軋み始めた、最初の夜だった。





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