三十七本目:師と弟子

 桜先生の道場に来た。しかし、病院からどう歩いたのか覚えていない。八咲のこと、彼女の秘密。それらが頭をぐるぐると駆け巡り、いつの間にか目の前には道場があった。


 何も言わない。ここに来る前に足を運ぶことは伝えておいた。勝手に開けて入っていいとのことだった。戸を開ける。来客を知らせる鈴が鳴る。


「……剣誠君」


 先生は道着姿だった。僕の顔を見た瞬間、微かに形のいい眉が跳ねた。

 刀哉は言っていた。八咲の病弱さは桜先生から聞いたと。であるのならば、十中八九、桜先生は八咲の心臓のことを知っている。


「先生、ちょっと、相談いいですか?」

「構いませんよ。私のところにも連絡が来ましたから……八咲さん、ですね」


 こくり、と頷く。先生は「待っててください」と告げて奥へ走った。こういう話をする時の場所は決まって一つだ。


 入学式の朝、先生と話した応接室。そこを抜けると縁側があり、夜風が心地良いのだ。荷物を玄関に置き、先生の待つ応接室へ向かう。


 案の定、先生はそこにいた。道着姿のまま、窓を開けて、縁側から夜風を取り入れようと。

 おいで、と呼ばれたのでお礼を言って隣に座る。

 先生がペットボトルの緑茶を差し出してくれる。それを受け取り、一口飲んだ。


「……先生って、八咲と昔から知り合いだったんですか?」

「実は彼女の父親が私と同級生でして。少し前に亡くなってしまいましたが、彼は全日本も何度か優勝していました」


 八咲の父親の強さ──あの夜、彼女の口から聞いた。


「……桜先生とも、知り合いだったんですね」

「ええ。だから、八咲さんの強さも納得でした。彼が教えていたのなら……」


 八咲のバケモノじみた剣道の強さは才能もそうだろうけど、全日本を何度も優勝したという優れた剣士からの指導の賜物か。あの剣の出生の秘密はこんなところにあったのか。


「だけど、八咲さんと知り合って間もない頃でした。彼女が稽古の途中で倒れてしまって」


 胸がチクリと痛んだ。刀哉が言っていた八咲の病弱な一面。


「……そこで、父親から聞きました。彼女の体のことを……私は、何もできませんでした」


 桜先生の体が、微かに戦慄いていた。


「あの子が辛い、不幸な目に遭っているというのに、私は救ってあげることができなかった。何も、できなかったんです」


 鼻を啜る音がした。僕は先生の顔を見ることが、どうしてもできなかった。


「そして……一年前、彼女の口から余命のことを告げられました。私も関係者として医師とつながりがありましたから、隠せないと判断して自ら告白したのでしょう」


「ッ、やはり、知ってたんですか」


「同時に口止めもされていました。さらには、『私の体で私の命だ。お気遣い感謝するが、私の命の使いどころは私が決めるよ』、とまで。何度も間違っていると諫めたのですが、終ぞ彼女は聞き入れようとはしませんでした。結果、私が折れるしかなく……」


 ああ、実に八咲らしい言い回しだ。


「なんか、言ってる八咲の姿が目に浮かぶようです」


 いや、実際浮かんでいる。目の前に投影できる。鮮明に。だからこそ、八咲がもうじき死んでしまうという事実が、どうしても、どうしても受け入れられなくて。


「それでも、あの子のことを気に掛けていたのなら、私は何か行動をするべきだったのでしょう。いや、実際にはしていました。言い訳でしかないのですが、医者に掛け合い、どうにか治療できないかと……ずっと。でも、あの子の体は回復しませんでした。結果的に、私は何もできなかったのと同じです」


「そんなこと……ッ」


 ない、と否定したかった。しかし先生の声色から滲む感情が、かつての僕とそっくりなことに気付いた。何も言えない。ここで先生の負の心を否定しても、先生の救いにはならないと何よりも自分がよく分かっているから。


 首に跳ねのけることのできない沈黙がのしかかる。先生を見ることはできないが、唇を戦慄かせながらもなんとか言葉を絞り出す。


「……八咲は、本当に、すげぇヤツだったんですよ」


 瞬間、視界が滲んだ。崩れたパズルみたいに思考が乱れる。

 心を抑えていた堰が外れ、とめどない感情が一気に押し寄せてきた。


「なんで、そんな八咲が、死ななきゃいけないんですかね」


 まだ、僕は彼女のことを理解できていないというのに。しかし、今まで彼女のことを理解できなくて当然だった。彼女と僕の当たり前は大きく食い違っていて、交わることのない世界を生きていたのだから。僕と彼女の魂は、乖離していたのだから。


 でも、今の僕は、ただひたすらに、彼女に触れたい。彼女の心を抱きしめたい。孤独に戦ってきた彼女を、少しでも癒してあげたい。彼女を……理解したい。


「先生、僕は、八咲のために何ができるんですか」


 先生は黙ったままだった。自分で考えろということだろうか。実際、それしか言えないんじゃないか。僕が逆の立場だったら、答えなんて出せない。


 だって、責任が取れないじゃないか。こうしろと助言をし、その通りに動いてもしも最悪の事態になったとしたら、誰が責任を取ってくれるのか。


 後悔しない道を選べ? それもまた、美しい回答だろう。でも、それは責任を全て当事者に丸投げしているだけの、逃げでしかないんだ。


 後悔しないなんてできるはずがない。人間の心はそんな綺麗にできていないから。

 この話は、どう足掻いたって後悔しかないのだ。


 僕がトラウマを負わなければ。僕が卑怯な真似をして刀哉を傷付けてなければ。

 もっと早く、トラウマを克服することに向き合っていれば。


 答えはもう出ている。故に、他に答えが存在しないのだ。


「剣誠君」先生が重い沈黙を破り、口を開いた。


「あなたは、あの子をどう思っているのですか?」



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